『入学前日譚』 その一
☆
わたしは、子供の頃から日記を書いている。習慣だからといって惰性で書いているわけではなく、日記を書くことが好きなのだ。
日記を読み返すと、たくさんの思い出とそれに付随する感情を鮮明に思いだすことができて、何気なく過ぎ去る毎日にも、一つとして同じ日は無いことに気付ける。
だから、わたしは日記を書くことが好きだ。
きっと、生涯を通して日記を書くだろう。
そして、この日記はわたしが――
「ユリィ、まだ起きてる?」
筆がノってきたところで、ノックとともにくぐもったお母さんの声が聞こえた。
「はーい、ちょっと待ってー」
万年筆の蓋を閉め、立ち上がる。ドアを開けたすぐそこに、寝間着姿のお母さんが立っていた。お風呂から上がったばかりなのか、緩い癖のある長い金髪がしっとりとしている。
「ユリィ、明日なんだけど」
「もう、わかってるってば。明日の昼過ぎに、駅に迎えに行けばいいんでしょ?」
「うん、それでね……これ、その時に渡して」
封のされたかわいらしいストライプ柄の紙袋が、わたしの手にのせられた。紙袋そのままの重さしか感じられないほど軽かった。
「なにこれ?」
「わかんない。ショコラーデちゃんのお母さんから、娘が着いたら渡してくれって送られてきたの」
「ふーん……なんで自分で渡さないんだろ」
「さぁねぇ。こっちで渡すことで、初めて意味が生まれるものなんじゃないかな、きっと」
「へぇ」
軽く揺すってみると、かさかさと音が鳴るので、なにも入っていないわけではないようだ。光に透かしてみたけど、四角いシルエットがうっすら見えるだけで、なにが入っているかまではわからない。
「こら、勝手に中身覗いちゃだめだよ」
「の、覗かないよ。……ちょっと気になるけど」
「気になってもダメなものはダメだからね。とにかく任せたから。明日よろしくね」
「うん、わかったよ」
「じゃあ、わたしはもう寝るから、ユリィも早く寝なよ。おやすみ」
「うん、おやすみ」
お母さんは大きなあくびを一つしてから、寝室に戻っていった。
早く寝ろと言われてしまっては、寝ざるを得ない。自伝風の導入は書きかけだけど、今日の日記自体はもう書き終わっているから、続きは明日にでも書こう。
紙袋を机の上に置いて、灯石のスイッチを切ってベッドに潜り込む。目を閉じてみるけれど、眠気は一向にやってこない。さっきまでこうこうとした明かりの下で文章をつづっていたのだから、仕方ない。
こういう時は考えごとをするのが一番だ。そうだ、明日来る子のことでも考えよう。いったいどんな人なのだろう。仲良くできるといいけど。我が強いタイプだったら嫌だな。これから少なくとも三年は一緒に暮らすのだから、わたしと馬が合わないのは困る。かといって、大人しすぎて扱いに困るような人でも嫌だな。……わたし、わがままだな。せっかく同年代の女の子と一緒に暮らす機会なんだから、彼女がどんな人柄にせよ、貴重な経験だと思ってどーんとぶつかればいいじゃないか。あぁ、でも、どーんといきすぎてうざいと思われたら――
☆
「……!」
なにかが聞こえた。
「……ですよ!」
聞き慣れた声だ。
「……起きるのです!」
あぁ、もう、うるさいな。
「ユリィ、朝ですよ!」
意識が覚醒すると、視界がもやもやした白に染まった。眩しい。目をゆっくりと開ける。
精一杯しかめっ面をしたシュリちゃんの顔が、そこにあった。おでこがくっつきそうなほど、彼女は顔を近づけてきていた。宝石みたいなオッドアイに、ぼーっとした顔のわたしが映っている。
「ん……もう朝……?」
「えぇ、もう朝ですよ! それはもう、気持ちのいいお天気です!」
「……まだ早いよ」
掛け布団を引っ張って顔にかぶせようとしたけど、布団が動かない。こころなしかお腹の辺りが重いと思ったら、シュリちゃんが馬乗りになっていた。こうなったが最後、わたしが起きない限り、てこでもどいてくれない。
「早く起きてください! 今日は新しい家族を迎える日なのですよ! それなのにぐうたら寝ていてどうするんですか!」
彼女がわたしの上で跳ねるたび、ベッドがぎしぎしときしむ。リズミカルにお腹が押されて苦しい。
「うぐぅ、お昼過ぎに、迎えに行くんだからっ、そんな早起きっ、しなくても――」
「問答無用です! 早起きして万全の準備をしてお迎えにあがるのです! それが迎える側の責務なのです! ほら、早く、起きるのですー!」
わたしの言葉を遮ってまくし立て、今度は肩を掴んで揺さぶってきた。起きぬけで頭が冴えていないのにそんなことをされたら、たまったもんじゃない。頭がぐわんぐわんする。
「あうぅ……お、起きるからぁ、そ、それやめてぇ……」
揺れがぴたりとやみ、シュリちゃんのしかめっ面が呆れ顔になった。
「やれやれ、最初から口答えしなければ良かったのです」
ベッドから下りるついでに毛布ごと掛け布団を剥ぎ取っていくあたり、抜け目ない。早春の朝の部屋の空気はまだ冷たく、布団の加護を失ったわたしに容赦なく襲いかかってくる。
「ううっ、寒いっ……暖房点けてよ……」
「ねぼすけにはいい薬なのです。ほら、目覚ましついでに布団を畳んでください」
のろのろとベッドから起き上がり、しぶしぶ布団類をたたむ。
「これでいい?」
「よろしい、なのです。マリィはもう起きて食卓についてますよ。顔を洗ってから来てくださいね」
シュリちゃんが出て行って、部屋が静かになった。普段は気にならない、時計の時を刻む音が大きく聞こえる。時計は、八時を少し過ぎたところを示している。学校が始まったらもっと早く起きなければならないかと思うと、憂鬱だ。
「ふわぁ、ねむ……んー」
全身で伸びをして、窓の外を見る。ガラス越しの空は澄み渡り、雲ひとつない。
「あー、いい天気だなぁ……ふうぅあぁあ」
あごが外れそうなほど大きなあくびを一つして口から眠気を追い出し、部屋を後にする。
洗面所の鏡の中に写るわたしの頭には、絡み合う蔓のようなねぐせが踊っていた。
蛇口をきゅっとひねると、水がとうとうと流れ出す。手でおわんを作ってそれを受け止め、しばらく眺める。手の中はすぐいっぱいになって、水が溢れた。水道が普及していなかった時代は、水を使うときはいちいち井戸から水を汲んでいたと聞く。現代に生まれてよかった。
口をゆすいで、顔を洗う。水はほどよく冷たくて、頭がさえる。顔を拭いて、洗濯かごにタオルを入れる。ねぐせは朝ごはんを食べてからでも遅くないだろう。
ダイニングでは、シュリちゃんがせかせかと食卓に料理を並べていた。お母さんはすでに着席していて、新聞を読みながらコーヒーをすすっていた。その向かいに腰掛けると、お母さんは新聞を畳んで空いている隣の椅子(お父さんの椅子だ)に放り投げた。
「おはようユリィ」
「ん、おはよう」
「ふふっ、ねぐせ、すごいことになってるよ」
「後で直すよ」
「準備ができましたよ」
わたしの隣に腰かけて、シュリちゃんは人心地ついたかのようにため息をついた。
ごろごろと野菜が入ったスープ、香ばしいきつね色のハムエッグトースト、甘い香りのホットココア。食卓に並べられた料理たちはどれもできたてで、湯気と共にいい匂いが漂っている。
お母さんがいつも通りの文句を唱え、朝食の時間が始まった。