『ユリィの一日』 その七
「ただいまー」
「ただいまです〜」
靴を脱いでスリッパを履く。我が家は土足厳禁だ。ここらへんでは、かなり珍しい習慣らしい。わたしからしたら、土足で家に入る方が、抵抗がある。
廊下の奥から、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。彼女がお母さんの趣味で着せられている古めかしいエプロンドレスは、初見の時ショコラちゃんを驚かせたものだ。
「ユリィ、ショコラ、おかえりなさいです」
シュリちゃんはつぶらな金色と紫水晶色のオッドアイを細め、優しい笑顔でわたしたちを出迎えてくれた。つややかな黒いショートヘアの頭頂部にある猫のような耳は、いつも通り自信有りげにぴんと立っている。
「お腹ぺこぺこだよ。今日のご飯なに?」
「今日はハンバーグですよ。出来上がったら呼ぶので、少し待っていてください」
「わ〜い、ハンバーグだ〜」
「ちゃんと荷物を片付けて手洗いうがいをしてくださいね」
「はいはい、わかってるって」
「それでは、シュリは晩ごはんの準備に戻りますね」
シュリちゃんは踵を返した。黒いしなやかなしっぽの先っぽあたりに結ばれた赤のリボンが、しっぽの動きに合わせて揺れる。
「あっ、シュリちゃんちょっと待って」
用事を思い出して呼び止める。彼女はくるりと向き直って、首をかしげた。
「はて、なんでしょうか」
「うさぎさんウインナーの作りかた教えてよ」
「うさぎさんウインナーですか? いいですけど……明日の朝、お弁当を作る時に起きてこられたら、教えてあげます。起きられます?」
「……起こして」
わたしの言葉に、シュリちゃんは落胆の色をのせてため息をついた。
「最初から諦めてどうするのですか。ちゃんと自分で起きてください」
「私も明日頑張って早起きするから、一緒に起きよ〜」
「うん、そうだね。頑張って起こし合おうか」
「お〜」
「明日の朝を楽しみにしてますよ。それでは、今度こそ失礼します」
ぱたぱたと来た時と同じ足音を鳴らし、シュリちゃんは行ってしまった。
わたしたちは二階に上がり、一旦別れ、それぞれの部屋に入る。
当たり前だけど、部屋は暗かった。灯石のスイッチに触れると、ぱちっ、と明かりが点く。本の詰まった本棚、たくさん服がかかったハンガーラック、子供の頃から使っている勉強机、勉強机の上に置いてあるラジオ……この部屋には、わたしの物しかない。わたしだけの領域、わたしのための王国だ。
「あー、今のフレーズいい、かも」
机の上にかばんを置いてベッドに飛び込み、ごろんと仰向けになる。子供の頃は天井の木目が人の顔に見えて、怖くて仕方なかったっけ。木目と見つめ合ってぼんやりしていると、ドアがノックされた。もう夕飯ができたのだろうか。それにしては早すぎるような。
「ユリィちゃんいる〜?」
「いるよー。入ってー」
「おじゃまします〜」
ショコラちゃんは部屋に入ってきて、ベッドに腰掛けた。寝返りをうって、彼女のお腹周りに手を回す。ふわふわした女の子らしい感触がたまらない。
「なにか用事?」
「ん〜、別に用事はないよ〜。……ラジオつけていい〜?」
「お腹ぷにぷにさせてくれるならいいよ」
「だめだよ〜。私のお腹なんか触っても楽しくないでしょ〜」
「けちー」
「けちだも〜ん」
ショコラちゃんはわたしの手を優しい手つきで外し、立ち上がった。おしりをなでてやろうかと思ったけど、本気で怒られそうだからやめた。
ラジオをつけ、古典音楽を垂れ流している番組に波長を合わせ、彼女は戻ってきた。そのお腹周りに手を回し、ぷにぷにする。
「やめてよ〜」
「ラジオの代金」
口では嫌がるものの抵抗はしないので、遠慮なくぷにぷにする。
「ひゃっ! ちょっと〜……あははっ! やめてよ〜」
ぷにぷにするのに飽き、くすぐってみる。さすがにショコラちゃんは身をよじって応戦してきた。
「うりうりうり」
「う〜……も〜!」
しつこいくすぐりに堪忍袋の緒が切れたのか、彼女は牛みたいな声を上げてがばと立ち上がり、わたしにのしかかってきた。
「わー! やめてー!」
「やめてって言ってやめなかったのはそっちだよ〜! 今度はこっちの番なんだから〜!」
「うひゃあっ! ちょ、ほんとにやめ、あははっ! くすぐりはっ、ほんと、ひいっ、苦手なのっ!」
「それそれ〜!」
「あはははっ! お腹っ、だめっ、あはははっ! ごめんっ! 謝るからっ! あははははっ! 許してぇっ!」
攻撃の手がぴたりとやんだ。助かった。笑い死ぬかと思った。
「反省してる〜?」
「……はー……うん、反省してるよ」
「じゃあ、許すよ〜……あ〜、疲れた〜」
わたしの上からどけて、ショコラちゃんは隣に寝転んだ。
先ほどの攻防で、わたしも彼女も息があがってしまった。ゆったりとした交響曲が、息もたえだえのわたしたちの頭上を流れて部屋中に染み渡る。
「ショコラちゃん」
「ん〜?」
「『この部屋には、わたしの物しかない。だからここは、わたしだけの領域で、わたしのための王国』……ってのを思いついたんだけど、どうかな」
「う〜ん、“王国”って言うくらいなら、“領域”を“領土”にしたほうがいいんじゃないかな〜?」
「なるほど……」
ショコラちゃんは起き上がって、ラジオをいじりに行った。一通り番組を切り替え、結局一周して古典音楽の番組で落ち着いた。
「今ユリィちゃんの王国にいる私は国民になるのかな〜?」
ベッドに背を預けてショコラちゃんは床に座った。床のどこでもくつろげるのが、土足厳禁のいいところだ。
「どっちかというと旅行者じゃないかな? 我が王国にようこそ、旅の人よ。くるしゅうないぞ」
わたしもベッドから降りて、ショコラちゃんにもたれかかるようにして隣に座る。
「女王様〜、近いですよ〜」
「これが我が国なりの歓迎だよ」
ずるずるとショコラちゃんの肩から滑り落ちていって、横座りしている彼女の太ももに頭を置く。もにもにした感触を頭全体で堪能していると、不意に頭を撫でられる。ゆるゆるとしたその手つきが、とても安心する。
どれくらいの間そうしていただろう。夢見心地になってきたころ、不意に部屋の扉がノックされた。
「ご飯ができましたよー」
「は〜い、今行きます〜。ユリィちゃん行こ〜」
「ん……わかった」
ショコラちゃんの太ももは名残惜しいけれど、ご飯に遅れるのは良くない。夕飯はできるだけ家族みんなで食べる、それがわが家のルールなのだ。
「シュリちゃん、今日も美味しい料理をありがとうございます。料理になった食材たちにも感謝。……いただきます」
『いただきます』
お母さんが料理を作ってくれたシュリちゃんと食べ物になった命に感謝を述べるところから、我が家の食卓は始まる。
「そうだ。わたし、明日は“月例報告”だから。もし夕飯の時間まで帰らなかったら、先に食べといてね」
ハンバーグにナイフを入れながらお母さんは言った。詳細は分からないけど、錬金術師は毎月末にお役所へ“月例報告”をしに行く義務があるのだとか。
「うん。わかったよ」
「“月例報告”ですか〜。お母さん大丈夫かな〜」
「ふふっ、ショコラちゃんのお母さんも今頃、準備をしてるんじゃないかな? ……んむっ……んー、おいひい」
ハンバーグをほおばりほっぺを緩めるその姿は、わたしと同年代の女の子にしか見えない。お父さんが言うには、大学生の時分に出会った頃から、容姿がほぼ変わっていないらしい。わたしがちんちくりんなのも、お母さんからの遺伝とみて間違いない。
「そう言うマリィも、明日提出する書類は書き終えたのですか?」
シュリちゃんのじとりとした視線がお母さんに突き刺さる。
「ん? あー、書類? 書類ね。……えー、えっとね……まだ、です」
お母さんは語尾になるほど声が小さくなっていき、終いにはバツが悪そうにシュリちゃんから視線をそらした。
「……まったく、いつものことながら呆れますよ。片付けが終わったらシュリも手伝うので、日をまたぐ前には終わらせましょうね」
「やった。ありがとー」
お母さんは屈託のなくなった、晴れやかな表情になった。
「やれやれですね。また余計な仕事が増えてしまいました」
呆れた口ぶりだったけど、微かに嬉しそうでもあった。昔からシュリちゃんは、口では文句を言いながら、仕事が増えると楽しそうな顔になる。ワーカホリックここに極まれり、だ。
そんなワーカホリックさんの作った料理はあいかわらずどれも美味しく、お店が開けそうなレベルだった。欲を言えば、今日はきのこ料理を食べたかったけど、作ってもらえるだけありがたいことなので、それは心の中にしまっておく。
ご飯を食べ終わって片付けをしたら、わたしとショコラちゃんはじゃんけんをする。どっちが先にお風呂に入るか決めるためだ。
「今日はわたしが先だね」
「じゃあ、部屋で待ってるから、あがったら呼んでね〜」
“風呂は命の洗濯”という言葉がある。この言葉を考えついた人は、とても詩的で素敵な人だと、わたしは思う。その人に師事できたら、わたしの日記も今書き溜めている試作的詩作も、よりよいものになるだろう。
泡まみれになって、ちょうどよい形状記憶能力を得た髪を弄ぶ。飽きて洗い流すまで、髪を全部右に寄せてみたり、うさぎの耳みたいにしてみたり、わたしの頭は珍奇な髪型の見本市となった。
身体を洗うついでに鏡の前で様々なポーズをとってみて、自分のプロポーションをためつすがめつチェックをしてみる。ほんのりとした膨みをもって奥ゆかしさを体現しているわたしのおっぱいは、伸びしろを十二分に残した可能性の宝箱でもある。わたしのおっぱいはやればできるこだから、シャリーさんやショコラちゃん……とまではいかなくても、きっと、大きくなってくれるはずだ。
ちょっとしたお遊びをしながら、一日の活動でたまった汚れを落とし、湯舟に入る。肩までお湯につかって目をつむり、今日の出来事を反芻している間に、身体の中から疲れが染み出してゆく。
頭の中で百数えてから湯船を出てシャワーを軽く浴び、わたしの命の洗濯は終了した。
「お風呂あがったよ」
「は〜い」
風呂上がりは、本を読むに限る。この間から読んでいた“高嶺の白百合――激動編――”の第三巻も、ショコラちゃんがお風呂からあがってくる頃には読破できそうだ。
☆
――フロイラインは切り捨てられた彼の骸にすがりついた。純白のドレスに血がつくことも厭わず。
「あぁ、どうして、こんな私のために、その身を投げ出す必要なんて無かったのに! ワーグナー、貴方が死ぬ必要が、どこにあったのでしょうか!」
にわかに雨が降り注いできた。天が彼の死を悼み、涙を流したのだろうか。
――四巻に続く。
☆
「……ワーグナー死んじゃったよ。……これからどうなるんだろ。あー、四巻早く買ってこなきゃ」
ワーグナーの死に思いを巡らせぼんやりしていたら、お風呂あがりのショコラちゃんがお菓子のレシピ本を小脇に抱えて部屋に入ってきた。
「三巻読み終わったの〜?」
「うん……なかなか超展開だよ」
「今度読ませて〜」
「どうぞどうぞ。じゃ、わたしは日記書くから適当にくつろいで」
寝る前にわたしは日記を書く。お風呂や歯磨きと一緒で、日記を書かないとなんだか気持ち悪くて眠れないのだ。
一日の出来事を思い返しながら書いていると、ふと、もう高校に入学してから一ヶ月近く経ったという事実に気づいた。錬金術部に入ってから、もう一ヶ月か。
懐かしさに浸りながら日記を書き終え、机から離れてベッドに腰掛ける。
「日記終わったの〜?」
カーペットの上で寝転がってレシピ本を読んでいたショコラちゃんが顔を上げた。
「うん。日記書いてて思ったんだけどさ、もう入学してから一ヶ月経つんだよね」
「あ〜、確かに〜。入学したのがもうずっと昔のことみたいだよ〜」
「なんか高校生活って毎日が濃いよね。ショコラちゃんと過ごしたのも、まだ一ヶ月とちょっとなんだよね」
ショコラちゃんが我が家に来たのは、入学するより少し前だった。それもまた、遠い昔のことのような気がする。
「そうだね〜。こっちに来たばかりの頃は心細かったな〜」
「え? そうなの? あんまりそんな風に見えなかったけど」
「私なりに不安だったんだよ〜。でもね、ユリィちゃんのお家の人はみんな優しいし、学校も楽しいから、今はもう全然なんともないよ〜」
「でも、家族に会えなくて寂しくないの?」
「たまに連絡とってるから大丈夫かな〜。どうしても寂しい時は、ユリィちゃんが居るし〜。……でも、私は大丈夫だけど、妹が寂しがってるみたい〜。あの子私にべったりだったから〜」
「じゃあ、帰ってあげないと」
「う〜ん、まとまった休みじゃないと帰れないからね〜。帰るのは夏休みになるかな〜。……そうだ〜! ユリィちゃんも夏休みに私の家に行こうよ〜。妹もきっと喜ぶよ〜」
「ショコラちゃんの実家かぁ。行ってみたいな」
「おいでおいで〜」
うつ伏せに寝転がっている彼女の上に、馬乗りになる。もこもこした寝間着の背中は、ぽかぽかしていた。
「ちょっと重いよ〜。なんで乗るの〜」
「おいでって言われたから」
「違うよ〜。お家においでってことだよ〜」
「わかってるわかってる」
「わかってない〜。ていうか私の髪触ってなにしてるの〜。くすぐったいよ〜」
「あー、動かないで。三つ編み作ってるから」
「も〜、しょうがないなぁ」
そう言ったきり彼女は喋らなくなった。沈黙の中、黙々と髪を編み続ける。ふわふわした赤毛は触り心地が良くて、ずっといじっていたくなる。
「よし、できた。我ながらいい出来かな。……ショコラちゃん?」
返事は無く、一定のリズムで彼女の背中は動いていた。わたしが三つ編み作りに夢中になっている間に、寝てしまったようだ。
時計の針は、てっぺんを回るまであと三十分といったところか。そろそろ寝ないと、明日早起きできない。
「ショコラちゃん、ベッドで寝ないと風邪引くよ。ショコラちゃんってば」
ショコラちゃんの上からどけて、肩を揺する。彼女は眩しそうに顔をしかめ、上半身を起こした。
「う〜ん……ふわ……あれ〜、いつの間に寝てたの〜?」
「もう遅いし、部屋で寝なよ。明日は早起きするんでしょ?」
「……お部屋行くのめんどくさい〜。ここで寝る〜」
「わたしと一緒に寝るの? ショコラちゃんが先に寝ちゃったら、いろいろといたずらしちゃうけど、いいの?」
「う〜……それはいや〜。……帰る〜」
お菓子のレシピ本を手に、おもむろに彼女は立ち上がって、大きなあくびをした。
「おやすみショコラちゃん。明日はお互い早起き頑張ろうね」
「がんばろ〜……おやすみ〜」
ゆらゆらとおぼつかない足取りで三つ編みを揺らしながら、彼女は部屋から出た。それを見送ってから、部屋の明かりを消してベッドに潜り込む。目をつむると、すぐに眠気がやってきた。授業中もいっぱい寝ているのに、と内心苦笑する。
今日も一日、なんだかんだで楽しかった。また明日も、こんな感じで楽しく過ごせるといいな。






