『ユリィの一日』 その五
国語の時間を耐え抜き、帰りのホームルームを適当に聞き流し、やっと放課後になった。がやがやとクラスメイトの声が飛び交っている中でも、睡魔は未だにつきまとってくる。
「眠い……んーっ」
座ったまま背伸びしていると、横あいから何か平たい物で頭をはたかれた。
「あたっ」
別に痛くはないけど、反射的に声が出る。
「あれだけ寝てまだ足りないのか? ほら、自国史のノート」
メグちゃんはわたしの机にノートを置いて、隣の席に腰掛けた。隣の彼は、例のごとくホームルームが終わった瞬間にどこかへ行ってしまった。
「春の眠りは夜明けを見ず、ってやつかな。春は眠くてどうしようもなくなっひゃうひょ……あふぅ……」
「それ、ちょっと言葉の意味間違ってるぞ」
彼女の怪訝な表情には、ちょっと凄みがあった。琥珀色の瞳が、わたしの瞳を真っ直ぐ捉えている。
「えっ、そうなの?」
「そうだとも」
「ふーん、そうなんだー」
「……どうでもよさそうだな」
「だって眠いもん……ふあぁ」
目をぐしぐしこすっても、ぱちぱち瞬かせても、どうにも眠気は収まらない。
わたしのうにゃうにゃしているさまを、メグちゃんは呆れて見ていた。その間に割って入るようにして、大きなおっぱいがぬうっと現れる。
「ユリィちゃん、眠いの〜?」
柔らかいおっぱい……ではなく柔らかい声の主のセーターは、相変わらずはちきれんばかりだ。
「わーい、枕きたー」
ショコラちゃんの腰に手を回して、その豊満な胸に顔を埋める。ふかふかしていてあったかく、ほのかに甘い香りがする。
「枕じゃないよ〜」
とは言いつつも、優しく頭をなでてくれた。とても同い年とは思えないこの包容力は、同性のわたしですら惚れてしまいそうだ。
「んんっ、おほんっ。ショコラ、あまりユリィを甘やかすな」
「甘やかしてないよ〜」
「これを甘やかすと言わずしてなんと言うんだ」
「もごもごもご」
メグちゃんに異論を唱えようとしたけど、顔が埋まっているからもごもごしか言えなかった。
「ユリィちゃんくすぐったいよ〜」
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「もご……ぷはっ」
ふかふかの谷間から脱出して、メグちゃんのほうを向く。メグちゃんは相変わらず怪訝な表情だった。気のせいか、すこしだけ眉間にしわが寄っているようだった。
「メグちゃん、それは違うよ。ショコラちゃんはわたしを甘やかしていない。ショコラちゃんにわたしが甘えているの!」
「いや、一緒だろ」
「なんだっていいの。このふかふかはわたしだけのものなんだから」
ショコラちゃんの谷間に、今度はこめかみから頭を埋める。とくん、とくん、と鼓動が聞こえる。
「はあ……もう勝手にしろ。私は先に部室に行く。先輩達を待たせるわけにはいかない」
ああ、メグちゃんが一人で行ってしまう。しかし、この抗い難いふかふかなでなでコンボの前では、わたしに成す術はないのだ。
「メグちゃん、わたしのことはいいから先に行って! ここは任せて!」
「……言われなくとも勝手に行くさ」
メグちゃんがそう言った時、何者かがわたしの頭を優しい手つきで掴み、魅惑の谷間から頭を引き離した。ショコラちゃんの顔が、ずいと近くに来る。潤んだ翡翠の中に呆けた自分の顔が映り込んでいる。
「ユリィちゃん、メグちゃんの言うとおりだよ〜。あんまりもたもたしてると、先輩達に迷惑かけちゃうよ〜」
「……わかってるってば。もたもたしててごめんね」
「よろしい〜。じゃあ、私もカバン持ってくるね〜」
ふわふわとした足取りで、ショコラちゃんは教卓の真ん前にある自分の席に向かった。わたしがあそこの席に居たら、何度怒られていたことやら。
「ユリィ、早くしろ」
かばんに荷物を詰め込んでいたら、先に一人で部室に行ったはずのメグちゃんが急かしてきた。
「あれ? メグちゃん、先行くんじゃなかったの?」
なんだかんだ言って待っていてくれたのはわかっていたけど、魔が差してついそんなことを口走ってしまう。
「ひ、一人で行くより三人で行くほうがいいと思ったんだ!」
メグちゃんは薄く頬を赤らめて語気を強めた。
「あはは、ごめんね。もう少し待っててね」
「ユリィちゃんはやく〜」
いつの間にかショコラちゃんも準備を済ませ、前の席に腰掛けていた。
「ほら、ショコラはもう準備が終わったみたいだぞ?」
援軍が来て強気になったメグちゃんが反撃してくる。
「あわわ、待って待ってすぐ終わるから!」
ぐしゃぐしゃにプリント類をかばんに詰め込んだ後、いよいよわたし達は、学校生活で最も重要なアクティビティであるところの『部活』に赴く。
運動部の威勢のいい掛け声を遠くに聞きながら、旧校舎へ向かう。旧校舎の傍らには寄り添うようにでっかい時計塔が建っていて、十二時きっかりで針を止め佇む姿は、感慨深いものがあった。なんでもこの時計塔には幽霊が住んでいるらしいのだけど、真偽の程は定かでない。
旧校舎西棟の一階の、さらに一番端にある旧一年A組の教室が、わたしたち“錬金術部”の部室だ。
「む、先輩たちがいないな」
部室には誰もいなかった。統一感のない家財道具たちが、いつもと変わらぬ姿でそこにあるだけだった。
「でも、荷物は置いてあるよ」
元応接室から拝借してきたというごついソファーの上には、ファンシーなぬいぐるみやクッションに囲まれて、二人の学生かばんが置いてあった。
「フロレンツィア、先輩たちは何処に行ったの〜?」
ショコラちゃんはソファーに座っていたピンクのくまさんのぬいぐるみを抱き上げる。フロレンツィアと呼ばれたその子はお腹を押されると、呼びかけに答えるように「ぷぴぃ」と鳴った。
「そっか〜、わかんないか〜」
「トイレにでも行ったんじゃないか? まぁ、そのうち来るだろう、っと」
部室の真ん中には白い円卓があって、それを取り囲むように椅子が五つある。メグちゃんは椅子の一つに腰掛けて、一息ついた。
「ふぇ〜、待ちぼうけ〜」
ショコラちゃんはソファーのそばにあるタタミの上にごろんと寝転がって、フロレンツィアをぎゅうっと抱きしめた。フロレンツィアは苦しそうに「ぷぅ〜」と声を上げた。
わたしも腰を落ち着けようと円卓に荷物を置いた時、急な尿意に見舞われた。購買でオレンジジュースを買って、部室に来る道すがらで飲み干したせいかもしれない。
「……わたし、ちょっとトイレ行ってくるね。ついでに先輩たちがいるか見てくる」
「そうか、いってらっしゃい」
「いってらっしゃ〜い」
二人に見送られ、そそくさと部室から出る。トイレは部室から出て三つの教室を越えた先だ。道中の教室をさり気なく覗いてみたけど、人の気配は無かった。手芸同好会も、オカルト研究会も、文芸部も、みんないない。今、この階にはわたしたちしかいない。寂しい限りだ。
トイレは立地のせいか、明かりがついていないと日が出ていても薄暗い。入ってすぐ右手にある灯石のスイッチに触れる。火が爆ぜるような音がして、天井に埋め込まれた灯石が点いた。
「アンさーん? シャリーさーん? いますー?」
反応がない。確認してみると、どの個室にも鍵はかかっていなかった。どうやら先輩たちはトイレにはいないようだ。早いところ用を済ませてしまおう。
旧校舎のトイレは少し古臭いけど、清掃が行き届いていて問題なく使える。ただ、据え付けられた灯石が小さいためか、天井の隅に影ができている。何か得体の知れないものが、その影からこちらをのぞき込んでいる気がして、目を逸らした。入口のほうの明るい個室を使おう。
「うー、漏れる漏れる………………ふぅ……」
すっきりした。
手を洗っている時、鏡の中の自分と目が合った。ぱちくりと、瞳の大きい碧眼が瞬きをしている。まごうとことなき童顔だ。頬紅を塗ったわけでもないのにうっすら紅い頬が、童顔をさらに助長している。肩にかかるくらいまで中途半端に伸ばした、毛先にクセのある白金色の髪。あまり伸ばすと手入れがめんどくさくて邪魔だし、かといって短髪はまったく似合わないからこの長さで二つ結びにすることで落ち着いているのだけど、これも子供っぽさを際立たせる一因になっているような気がする。
成長期を華麗にスルーしたわたしの体が、六限目にみた夢のようにいろいろと大きくなれる日は、やってくるのだろうか。第二の成長期よ、早くこい。
部室に戻っても、先輩達はまだ帰って来ておらず、手持ち無沙汰にしている二人が居るだけだった。
「トイレに先輩たちいなかったよー」
「そうか」
「もぐもぐ……どこ行ったんだろうね〜……もぐもぐ」
ショコラちゃんは靴を脱いでタタミの上で横座りをして、ビスケットを食べていた。完全にくつろぎモードだ。隣に座っているフロレンツィアの顔が、なんだか呆れ顔のように見える。
「待つしかないね」
もともとフロレンツィアがいたところに腰掛け、隣に座っていた茶色いうさぎのぬいぐるみを膝にのせる。この子はジークフリード・ヴォルフガング・ローテンバッハ三世という立派な名前がある。でも、名前が長いのでみんなはジークと呼んでいる。ジークはお腹を押すと「ぷきゅう」と鳴く。
「ショコラちゃん、ビスケットちょうだい」
「はい、どうぞ〜」
「ありがと」
このビスケットは素朴な味わいだけど、それゆえに飽きがこない。もう一枚、食べたくなる。
「もう一枚ちょーだい」
「はい、もう一枚〜」
「おいしいね、このビスケット」
「ね〜」
「ショコラ、私にも一枚くれ」
メグちゃんがビスケットをもらいに来た。
「は〜い」
「ありがとう」
三人でまったりビスケットを頬張っているたところ、不意に部室のドアが控えめな音を立てて開いた。
「あら、貴女たち、いらっしゃったんですの?」
「シャリー先輩、こんにちは」
メグちゃんはいち早く振り返って挨拶をした。
「あ、シャリーさんこんにちは」
「こんにちは〜。シャリーさんもお一ついかがですか〜?」
「うふふ、皆様ごきげんよう。ビスケットは、紅茶を飲む時にまで残っていたら、一ついただきますわ」
シャリーさんは花柄のドレス風の服をひらひらと揺らし、優雅な足取りでわたしの目の前に来た。その開いた胸元からのぞくおっぱいは、ショコラちゃんのそれより豊満で目のやり場に困る。
彼女は荷物やクッション類をソファーの端に追いやって、わたしの隣に座った。ちょくちょく髪型を変える彼女は、今日は髪をサイドシニヨンにしてまとめていた。後れ毛から、上品なローズの香りがする。柔和な青い瞳でわたしをじいっと見てくるものだから、落ち着かない。
「えっと……」
「うーん、眺めるだけも悪くないのですけれど。そうね、ユリィちゃん、わたくしの膝の上に乗ってくださいな」
シャリーさんがぽんぽんと自分の膝の上を叩いて誘ってきた。
「えぇ、それはちょっと恐れ多いですよ」
「そんなことありませんわ。さあ、遠慮なさらずに」
「……では、失礼します」
おそるおそる、膝の上にのる。ふかふかというか、ふにふにというか、えもいわれぬ感触だ。
「もっと背中を預けてくださる?」
肩を掴まれ、引き寄せられた。背中にむにむにしたものが押し付けられる。至福である。
「あぁ……なんか、落ち着きます」
「うふふ、ほんとにかわいいですわねぇ」
言いながらシャリーさんはわたしの髪を優しく手櫛で撫でた。
「あははっ、くすぐったいです」
「はぁ、わたくし、ユリィちゃんのような義理の妹が欲しかったですわ……じゅるり……はっ、よだれが」
義理と言っているあたり、彼女の業の深さが垣間見える。わたしを膝にのせてよだれが垂れる理由は、あまり深く考えないほうがいいかもしれない。
「シャリーさんばっかりずるいですよ〜。私もユリィちゃんのこと妹みたいに思っているんですから~」
ソファーの肘掛けにしなだれかかりながらショコラちゃんが言う。
「あら、そうなんですの? 困りましたわ、ユリィちゃんはわたくしの妹ですのに……」
「いつの間にわたしは妹になったんですか」
「……そうですわ! ショコラちゃんもわたくしの妹になればいいんですわ!」
「えぇ、どうしてそうなるんですか」
「わ〜い! 私も妹になっていいんですか〜!」
「それでいいんだ……」
「うふふ、そうと決まれば、さあ、ショコラちゃんはわたくしの隣へ。荷物はタタミの上にでも置いてくださいな」
「えへへ〜、じゃあ、お邪魔します〜」
ショコラちゃんは荷物を寄せてフロレンツィアと一緒に左隣に座った。
黙ってわたし達の様子を見ていたメグちゃんは、なにを思ったのかずかずかとこちらに来て、どかっと右隣に腰掛けた。
「ユリィ、シャリーさんの膝もいいが、私の膝もなかなかのものだぞ。座ってみないか?」
右腕が掴まれ、ぐいと引っ張られる。
「えっ」
「あら、ダメですわよ。ユリィちゃんはわたくしの膝の上が定位置なのですから」
シャリーさんは負けじとわたしのお腹に手を回して、しっかりと抱き寄せた。
「ぐえっ」
「私もユリィちゃん膝の上にのせてみたいかも〜」
ショコラちゃんが左腕に抱きついてきた。わたしの腕という支えを失ったジークが、ぽてんと膝の上に落ちた。
「ちょっ、待っ――」
「くっ、わたくしの膝の上が一番ですわよね、ユリィちゃん?」
「駄目だ。ユリィは私の膝の上だぞ」
「ユリィちゃん、私の膝の上に来て〜」
「うぐぐ……腕がちぎれる……」
体を固定され腕を両側にぐいぐいと引っ張られ、拷問もかくやという状態だ。このままだとわたしの腕が体とさよならしてしまう。誰か、助けて。
その時、わたしの祈りが通じたのか、勢い良く部室の扉が開いた。救世主の登場か。
「お待たせー!! ねこ触ってたー!!」
甲高い声が部室に響き渡る。明らかに事態を悪化させる人物が登場してしまった。褐色肌の、小悪魔だ。
「なになに?! 椅子取りゲーム?! あたしもやるー!!」
アンさんはわたしたちの様子を見るなり、濡羽色のポニーテールをたなびかせ、メグちゃんの膝の上に飛び乗った。
「痛っ! だ、駄目ですよアン先輩! 私の膝はユリィ専用です!」
「じゃあ部長権限で、今日からメグの膝の上はあたしのモノね!! にししっ!!」
アンさんはヘーゼルグリーンの瞳を細め、無邪気に笑っている。その笑顔もさることながら、パーカーとホットパンツという色気の欠片も無い服とちんちくりんな見た目も相まって、初等学生みたいだ。
「えへへ、あったか〜い。ぎゅ〜っ」
「もう、ショコラちゃん、あまりくっつかないでくださいまし。狭いですわ」
「あははっ、メグの膝硬いね!!」
「ちょっと、膝の上で暴れないでくださいっ!」
「う、腕が折れる……」
ぎゃあぎゃあと、ソファーの上で五人がもみくちゃになる。それに巻き込まれたぬいぐるみたちが「ぶきゅう」とか「ぶぴぃ」とかいう悲鳴をあげる。そうしている内に、ぐらり、とソファーが傾いた。
『あっ』
気づいた時にはもう遅い。ソファーが、後ろに倒れる。