『箒の乗り方』 その七
わたしがみんなに励まされながら自省している間も、アンさんは現れなかった。結局、わたしがやっと心を持ち直した頃に彼女はひょっこり現れた。時間にして約四十分の大遅刻だ。彼女が遅れていなければ、もうとっくに公園で遊んでいるはずだった。
「遅いですわよ! 何をしていたんですの!」
「いやー、ごめんごめん。出発前に倉庫でバドミントンのラケット探したり、新しいシャトル買ってたら遅れちった」
アンさんはトートバッグから古ぼけたラケットを取り出して見せてきた。彼女が手にしているものの他にも四つ、トートバッグからグリップを覗かせている。
「あら、バドミントンですの……子供の頃二人でよく遊びましたわね。懐かしいですわ」
「おぉ、いいですね!」
運動が好きなメグちゃんは喜んでいる。
「でしょ? あと、フリスビーとかボールとかも持ってきたよ」
そう言ってアンさんは、トートバッグから掌に収まるくらいの、柔らかそうなボールを一つ取り出して見せてきた。
「それだけ道具があるなら、公園でいっぱい遊べますね〜」
「でしょでしょ? あたしってば、気が利くよね?!」
「気が利いたのは認めますわ。でも、だからといって遅刻が許されるわけではありませんわ。反省なさい」
「ちっ、うっせーな……反省してまーす」
「汚い言葉遣いをするのは、この口かしら?」
シャリーさんの両手が伸びて、アンさんの両頬を摘む。柔らかそうなほっぺが、みょーんと伸びた。
「ひはいひはい!! ふぉへん、ふぉへんっへはぁ!!(いたいたい!! ごめん、ごめんってばぁ!!)」
「まったく……さ、早く行きますわよ。誰かさんのせいで、ただでさえ遊ぶ時間が少なくなってしまいましたもの」
「ったく、誰だ、遅れてきたやつは!!」
「貴女ですわよ!」
何はともあれ全員揃ったので、やっと公園へ行くことができた。青青した芝生の広場は、休日だけあって家族連れが遊んでいたり、ベンチで若い男女が語らっていたり、子供たちがかけっこしていたりと賑やかだった。わたし達はなるべく人が少ないエリアを見繕って、そこを本日の拠点とした。
「メグ、行くぞー!!」
「はい!」
「うおぉぉぉ!! あたしの必殺火の玉サーブをくらえぇぇぇ!!」
「ふっ、甘い!」
「むうっ、これならどうだー!!」
二人の高速ラリーは、運動音痴のわたしの目ではとても追えないものだった。
「さて、わたくし達はゆっくりやりましょうか」
残りの三人で三角を作り、シャトルを打ち合うことになった。
「ユリィちゃんいくよ〜」
ショコラちゃんの打ったシャトルが、ふわりとわたしの方に飛んで来る。この速さなら、わたしでも打てる。
「えいっ」
ラケットが空を切り、シャトルがぽて、と地面に落ちた。
「あらあら、惜しかったですわね」
「どんまいどんま〜い」
「……ううっ」
わたしは、自分で思うよりも数段上の運動音痴だった。
落ちたシャトルを拾い上げ、気を取り直してサーブを打つ。
「へゃっ」
今度はちゃんと、ラケットにシャトルが当たる感触がした。けれど、シャトルは明後日の方向にへろへろと飛んでいってしまった。
「むっ!」
ちょうどメグちゃんの目の前にいったそれは、鋭いレシーブでアンさんに返球された。
「うわっ!! 増えた!!」
二人はシャトルが増えてもお構いなしに、ラリーの応酬を続けている。もはやわたしには、彼女たちの動きがさっぱり理解できなくなった。
「ユリィちゃん、一旦キャッチボールにしましょうか」
わたしにラケットで行うスポーツは難しいと判断したのか、シャリーさんはそう提案してくれた。ラケットを片付けて、ボール遊びに切り替える。
「いくよ〜。それ〜」
ショコラちゃんがボールを投げた時、唐突に黒い大きな影が現れ、ボールに食らいついた。あれは……犬だ! しかもデカいやつだ!
「ひぃっ!」
黒い影の正体を理解したと同時に、過去の犬に関する忌まわしい記憶が蘇り、肌が粟立った。一目散にシャリーさんの元へ駆け寄って、彼女の背中に隠れる。
「ゆ、ユリィちゃん、急にどうしましたの」
「わ、わたし、犬、怖いんです……助けてください……」
「はうっ」
『ズキュウゥゥン!』という効果音が聞こえそうなリアクションだった。片側の鼻の穴から、鼻血がたらりと垂れた。
「たとえ地獄の番犬が現れようと、わたくしの身命を賭してお守り致しますわ!」
ハンカチで鼻血を拭きながらそう言って シャリーさんは、ぎゅうっと、力強くわたしを抱き締めてくれた。すごい安心感だ。今日ばかりは、彼女がわたしを猫可愛がりしていることを感謝したい。
犬はボールをくわえてしばらく首を振り回した後、ショコラちゃんにのそりと近づき、彼女を見上げて座り込んだ。
「よしよし〜、ボール取ってくれたんだね〜」
ショコラちゃんはその黒い巨体に臆することなく、犬の首元をわしゃわしゃと撫でてボールを受け取った。犬は嬉しそうに、舌を出してぶんぶんと尻尾を振っている。
「すみませーん! うちの子が、ご迷惑を……」
飼い主らしき女性が、向こうから息せき切って走って来た。
「大丈夫ですよ〜。ワンちゃんのお名前はなんていうんですか〜?」
「え? あぁ、リタですよ」
「リタちゃんですか〜。いいお名前ですね〜。私の実家でも犬を飼ってるんですよ〜。この子と同じ、ロットワイラーなんです〜」
「そうなんですか?」
「はい〜。ここに居たら、リタちゃんとお友達になれたのにな〜」
犬を撫で回しながら、ショコラちゃんは飼い主と会話している。さすが、コミュニケーション能力の鬼だ。
「でっかい犬だ!!」
騒ぎを聞きつけてアンさんが走り寄って来た。
「撫でてもいいですか?!」
「えぇ、いいですよ」
「うりうりうり」
アンさんは犬の腹周りをもしゃもしゃする。犬は嫌がる素振りを見せずに、ごろんと寝転がって腹を見せた。
「シャリーさんとユリィは何をしているんですか」
アンさんに放って置かれ手持ち無沙汰になったらしいメグちゃんが、こちらに来た。
「ユリィちゃんが、あの犬を怖がっちゃってますの。ですから、わたくしがこうして寄り添って差し上げているのですわ」
「あの犬が、ですか。……ユリィ、確かに見た目はいかついが、あんなに大人しい犬はなかなか居ないと思うぞ。そんなに怖がるなよ」
「いや、あの犬が怖いというより、わたし、犬自体が苦手なの……」
「そうなのか? それまたなんでだ?」
あの忌まわしい記憶を思い返せというのか。ぶるりと身震いしてしまう。
「ううっ、思い出したくない……と、とにかく、犬は苦手なの! ……って、ここ、こっち来た!」
「わふっ」
アンさんのなでくり攻撃から脱出して、犬はわたしの足元のすぐそこに来て、座り込んでしまった。じいっとわたしを見上げてくる、この、なにを考えているか分からない目。あの時の、眼前までせまった犬の顔がフラッシュバックする。
「あわわわわ……」
体がすくみ、膝に力が入らない。シャリーさんにすがりついて、なんとか立っている状態だ。おしっこちびりそうだ。
「ユリィちゃん、大丈夫ですわよ、この犬はなにもしませんわ」
「あまり怖がると、犬にも飼い主さんにも失礼だぞ」
「捕まえた!! もー、逃げるなよぅ」
追いかけて来たアンさんは、犬に抱き着いて、その大きな背中を撫でくり回す。犬は我関せずといった様子で、ただわたしをじいっと見ている。
「こら、リタ。怖がっている子に近づいちゃ駄目でしょ。……ごめんなさい、妹さんを怖がらせてしまって」
どうやら、シャリーさんの妹だと勘違いされているらしい。訂正しようと思ったけれど、声が上手く出なくて、陸に打ち上げられた魚みたいに口をぱくぱくさせてしまう。
「いえいえ、この子はちょっと犬が苦手なだけですの。けれど、それ以外はとてもできた妹ですのよ」
シャリーさんは、さも当然のようにわたしを妹扱いした。ツッコミをいれられるほど、わたしに余裕なんて無い。
「ふふっ、そうですか。……リタ、その子から離れなさい。こっちおいで」
「くぅーん……」
犬は悲しげに鳴いてから、アンさんの撫で撫で攻撃をするりと抜けて、とぼとぼと飼い主の側に行った。
「それでは、私はこれで失礼しますね」
飼い主さんは一礼して去っていった。一人と一頭の背中が、遠くなってゆく。これで一安心だ。
「はーっ……助かった」
「もう少し撫でたかったなー。ま、いいや。さて、メグの相手は飽きたし、次はショコラ!! あたしとバドミントンだ!!」
「わかりました〜。やるからには負けませんよ〜」
二人はラケットを持って、少し離れた所へ行った。ショコラちゃんがアンさんのスピードについていけるとは、到底思えないけど。
「かわいそうにあの犬、ユリィに構ってほしかったんじゃないのか?」
「なんでわたし? 犬に構ってくれる人なんて、周りにいっぱいいたじゃん」
「ユリィちゃんが怖がっていたからこそ、お友達になりたかったのではなくて?」
そう言われると、あの犬に悪いことをしたような気分になる。
……だけど。
「……そうだとしても、怖いものは怖いんです」
「……ユリィちゃんの犬嫌いは、相当根の深い問題なのですわね。ごめんなさいね、差し出がましいことを言ってしまって」
わたしを抱くシャリーさんの腕に、力がこもった。
「ふむ……トラウマ、ってやつか。なんだ、その、すまんな」
メグちゃんは腕を組んで、わたしから目を逸らしてしまった。
空気が重苦しくなってしまった。別に、そこまで深刻に受け止めなくてもいいことなのに。
自分が原因だけど、こういう空気は苦手だ。話題はなんでもいい。この空気を変えなければ。
「それはそうとシャリーさん、わたし、もう大丈夫ですから! だから、離してもらって結構ですよ!」
「あら、そうですの? ……なぜかしら、離れようにも、体がくっついてしまって、離れられないのですわ。これは仕方ないですわね。これからユリィちゃんは、わたくしと一生、くっついたまま生活してもらいましょう、そうしましょう」
「そ、そんなの嫌です! 離してください!」
もぞもぞと彼女の腕の中で必死に抵抗すると、にわかに縛めが緩んだ。急いで逃げ出して、メグちゃんの後ろに隠れる。
「そんなに拒否しなくても……わたくし、悲しいですわ……よよよ」
シャリーさんはその場に崩れ落ちて、顔を手で覆った。
「ユリィ、そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。いつもの冗談だろ」
「いやいやいや、あの感じは隙あらば、わたしを身体の一部として取り込もうとしてる感じだった!」
「くっ、もう少しで上手くいきましたのに……」
嘘泣きをやめたシャリーさんは立ち上がって、服に付いた土埃を手で払った。彼女の頬には、涙の痕の一筋も見当たらなかった。
「ほら! やっぱり! あの人怖い!」
「うふふ、こうなったら、実力行使しかありませんわね……ユリィちゃん、わたくしと一つになりましょう!」
腕を広げてシャリーさんが迫って来る。
「うわぁん、嫌だよー!」
「うわっ、と、とにかく逃げるぞ!」
わたしとメグちゃんは脱兎のように走り出す。
三十秒くらいして、自分はロックオンされていないと気づいたメグちゃんが、こっそり戦線を離脱した。それに気づいて、恨み言を叫びながら彼女の行方を探そうと立ち止まったのがまずかった。その一瞬の隙に、柔らかい暴力的な物体に頭を挟まれた。
「うふふ、つーかまえた……うふっ、うふふふふ」
このあと滅茶苦茶なでなでされた。




