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『入学前日譚』 その八

 ケーキの甘ったるい香りの中で、ショコラちゃんは、とろんとした目をしている。上気した頬とその表情には、妙な艶すら感じられる。


「あ〜、いいな〜。なに食べようかな〜……王道のショートケーキもいいけど、季節のフルーツトルテもいいな〜」


 ショーケースの前に張り付いてぶつぶつ言うその姿に、店員さんも困った顔をしている。

 わたしは、それを遠巻きにして、お土産に買うものを品定めした。シュリちゃんには、プリンかそれに準ずる物を買っていけばいい。お父さんとお母さんは、わたしが買って来た物ならなんでも喜んでくれるから、なんでもいい。クラーラさんは、別にこだわりがないから、なんでもいい。……プリンアラモード一つと、ショートケーキ三つでいいだろう。お土産選びに頭を悩ませる必要がないのは、楽で助かる。

 最後に、自分が食べるケーキだけど、今日はチーズケーキが食べたい気分だから、チーズケーキで決まりだ。


「ガトーショコラかな〜……チーズケーキもいいな〜……う〜ん、う〜ん」

「すみません、注文いいですか?」


 まだぶつぶつ言っているショコラちゃんを尻目に、店員さんにケーキを注文する。


「ユリィちゃんもう決まったの〜? もっと悩もうよ〜」

「だいたい決まってたからね。……えっと、持ち帰りで、ショートケーキ三ピースと、プリンアラモード一つと、チーズケーキ一ピースください」

「かしこまりました。冷却石クーロンはお持ち帰りの箱に入れますか? 二つまでは無料ですよ」

「じゃあ、二つ入れといてください」

「かしこまりました」

「まぁ、待ってるからゆっくり選んでよ」

「むむ〜……」


 わたしが早く注文してしまったばかりに、ショコラちゃんを急かしてしまっただろうか。ちょっと申し訳ない。


「決めた〜。すみませ〜ん。持ち帰りでショートケーキとチーズケーキと、ガトーショコラとフルーツトルテ、一ピースずつくださ〜い」

「ええっ、そんなに食べるの?!」

「一つに決められないから〜。迷うくらいなら、全部食べたいの〜」


 一人で全部食べるのを想像するだけで、胃もたれしてしまいそうだ。こともなげに全部食べると言ってのける彼女は、間違いなく、筋金入りの甘党だ。

 アリがついてきそうな程甘い香りを漂わせながら、わたし達は家に帰った。


「ぐすっ……ありがとう、ユリィ……もぐもぐ……」


 お土産のケーキを、お母さんはむせび泣きながら頬張った。こんな薬臭い場所で立ったままケーキを食べるのはかわいそうだけど、今日のノルマを達成するまで、トイレ以外で外に出てはいけないそうなので、しかたない。


「はい、紅茶」

「ありがと……ずずっ」


 作業場の中は混沌の極みで、作業台の上は金属部品やら薬液の瓶やら本やらが隙間なく散乱しているし、床にはそこからこぼれたであろう物たちが無造作に転がっている。こんなに散らかっていては、作業の能率が悪くならないわけがない。


「片付けなくていいの?」

「これはこれで、物が機能的に配置されてるの。だから、いじんないでね。……ふぅ、ケーキも食べて、紅茶も飲んだ。ユリィの顔も見た。……よし、気合充填完了! お母さん、頑張るよ!」


 さっきまで死にそうな顔をしていたけど、なんとか持ち直したようだ。


「うん。体壊さないでね」

「大丈夫だよ! これぐらいの修羅場、慣れっこだから!」

「修羅場に慣れてどうするのです。修羅場にならないための、毎日の積み重ねをすることに慣れてください」


 プリンアラモードの最後の一口を頬張って、シュリちゃんは言った。もちろん、彼女も立ち食いだ。


「毎日コツコツって、なんか性に合わないんだよねぇ」

「やれやれです。さぁ、食べ終わったなら、早く作業に戻ってください。今日のノルマはまだ終わっていませんよ」

「気合は充填したけど、もう少し休憩したいなー、なんて」

「つい三十分前にトイレ休憩したばかりでしょう! ユリィ、食器を片付けておいてください。プリンアラモードの容器は、洗って取っておいてください」

「わかった。じゃ、お母さん、頑張ってね」

「うー……頑張る」


 お母さんはまた死にそうな顔に戻ってしまった。本当に頑張れるのか心配になるけど、なんだかんだで納期を守れなかったという話は聞いたことがないから、今回もなんとかするのだろう。

 わたしとショコラちゃんはダイニングでゆっくりケーキを食べ、それぞれの部屋に戻った。

 ショコラちゃんが一人で、ケーキを四ピースも食べたあの様子を思い返すだけで、口の中が甘みでいっぱいになる気がした。わたしは一口ずつ食べさせてもらったけど、それと自分のケーキを食べただけで、甘いものはお腹いっぱいだった。

 久し振りに家族以外の人と長く過ごしたからか、インスピレーションがもやもやと湧いてくる。糖分も補給したし、ここは一つ、創作活動に精を出すのも一興かもしれない。


「ユリィちゃ〜ん、入っていい〜?」


 けれど、創作ノートを取り出した時、ショコラちゃんが部屋にやってきた。いい感じに創作の波にノれそうだったのに、ちょっと残念だ。

 さり気なく創作ノートの上に本を乗せて、彼女を迎え入れる。


「ラジオ聴かせて〜」


 ショコラちゃんにラジオをいじらせるために、体をよけようとひねった時、肘が創作ノートの上に置いていた本に当たってしまった。落下した本を慌てて拾い上げ再び置こうとしたら、既にショコラちゃんの視線は創作ノートの表紙に釘付けになっていた。でかでかと表紙に『創作ノート(自作詩集第三巻)』なんて書いてあるものだから、そりゃ、誰だって釘付けになる。どうして、創作ノートを隠すのを優先しなかったのだ。わたしのバカ。のろま。


「だ、ダメ! 見ないで!」


 時既に遅かったけれど、そうせずにはいられなかった。創作ノートに覆い被さり、ぎゅっと目を閉じる。恥ずかしさで顔が熱くなり、目頭も熱くなってきた。

 あぁ、もうだめだ。こんな、創作が趣味だなんて知られたら、引かれる。もう終わりだ。


「ユリィちゃんすごいね〜」

「……へ?」

「詩なんて書くんだね〜。私、文章とか書くの苦手だから尊敬しちゃうな〜」

「……引いたりしないの?」 

「なんで〜? 私はかっこいいと思うけどな〜」


 なんて理解のある子なんだろう。感動の涙が出そうになる。


「……じゃあ、これ、どう思う?」


 自信作のページを開いて、差し出す。ショコラちゃんは真剣な顔でそれを読み始めた。彼女の感想が気になって気になって、心臓が早鐘を打つ。


「いいね〜。オムライスが金色の木の葉とか、私じゃ思いつかないよ〜。ユリィちゃん、すごい才能あるよ〜」


 べた褒めだ。ショコラちゃんに惚れてしまいそうだ。わたしの中で彼女のランクが、“いい人”を数段階もすっ飛ばして、最高ランクの“大好き”に変わった。


「うっ……ゔー……」


 ぼろぼろと、涙がこぼれてきた。嬉しくて嬉しくて、感情が抑えられない。


「ど、どうしたの〜? もしかして、傷つけるようなこと言っちゃった〜?」


 ショコラちゃんが慌てている。違う、誤解だ。優しすぎる彼女に、心配をさせてはいけない。


「ゔー……違うの……こんなっ……趣味を理解してくれる人なんて、ずずっ……今まで、片手の指で数えるくらいしか、いなかったから……ぐすっ……嬉しくて……」

「そっか〜。大変だったんだね〜。……じゃあ、もっと読ませてほしいな〜。ユリィちゃんの詩、興味あるな〜」


 天使だ。わたしの目の前に、赤髪翠眼せきはつすいがんの天使がいる。


「うん! いいよ!」


 我が家に居候する人が、彼女で本当によかったと、心の底から思う。彼女となら上手くやっていけそうだという希望は、確信に変わった。


「雪が白い冷たい砂、って発想は私には思いつかないよ〜。すごいね〜」

「えへへ……」


 こんなやり取りが、それから小一時間ほど続き、わたしは束の間の法悦にひたった。

 これが、不安の雪がつもり続けていたわたしの心に、遅い雪解けが訪れた、春先の話。高校入学前日譚だ。

 この後は特に事件もなく、平穏無事に高校に入学するのだけど、入学した矢先、わたしの高校生活の根幹を決定づける事態が起こる。まさかあんな部活に入ることになろうとは、この時のわたしには、微塵も想像できなかった。

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