第七話:ひまわり
少年は目の前に置いてある小さな種を見つめていた。
5分ほど種を観察すると、筆をとる。
太い筆に黄色の絵の具をべっとりとつけ、キャンバスにぶちまけるように塗った。
少年が今、一粒の種の前にして描いているのは、種ではなくそれから咲くであろう大輪のひまわりである。
キャンバスに向かう彼の姿は、普段の少年からは到底想像出来ない、ひどく荒々しいものである。
『おや、やってましたか?』
サウナにドライアイスを持ち込んだかの様に、のんびりとした声が美術室に響いた。
少年は顔を上げると、ドアのそばに背の低い初老の男が立っていた。禿げ上がった頭には申し訳程度の短い髪の毛がしがみついていて、ぺしゃんこの鼻にジョン・レノンとお揃いの丸い眼鏡をかけている。
『司馬じい。どうしたの?』
少年は生徒の中での男の愛称を呟いた。
『こら、秋山君。いつも言っているでしょう。目上のしかも教師に対してはきちんと礼節をわきまえること。私がどうゆう人間であれ、少なくともあなたの何倍も生きているんですよ。君より長くこの世界にいる。しかも、教師です。あなたは私を敬うべきなんです。』
老教師の小さな目の中に真剣な意志が宿る。
『はい。すみません、司馬先生。』
志野は素直に謝った。
現代なら教師として問題になりそうな発言だが、志野はこの老教師に好意を持っている。
普段は生徒に対してまで敬語を使うような温厚な教師だが、一度問題が起これば生徒を叱ることに躊躇をしない。
冷静に諭すように叱るところが好きだ。
理解のあるふりをして媚びを売ってきたり過度な馴れ合いを求めたりと、生徒を叱れない教師が多すぎる昨今、ある意味で一番教師らしい教師なのではないかと思っている。
多少問題があっても、自分の考えは曲げない頑固さが必要なのではないか。
志野は人に興味がないと思われているが、彼にいわせればとって興味を持てる人間があまりにも少ないからである。
『はい。素直でよろしいです。陰でどうゆう風に言おうと構いませんが、私とあなたが向き合っている時は私は教師であなたは生徒なんですよ。』
小さな目が糸のようにうすくなった。口元には優しい微笑が浮かんでいる。
厳しさと一緒に外見通りのお茶目な部分も持ち合わせている。
『おっと、そうでした。今日から新入部員が入ることになりました。色々教えてあげて下さい。お待たせしましたね、三沢さんどうぞ。』
司馬はドアの後ろをのぞくと、手招きをした。
『今日からよろしくお願いします。三沢 小梅です。えっと、秋山君ですよね?』
栗色の髪がふわりと白い首元でなびく。
肌や髪と同じく色素のうすい茶色っぽい瞳が不安気に揺れる。
『うん、よろしく。』
志野は素っ気なく返事をした。
確か、温の幼馴染だ。どうでもいいけど。
『三沢さん、美術部は基本的に自分の好きな活動をしていいことになっているから、自分のペースで好きなように創作して下さい。その都度、聞いてくれれば、私も他の部員もどんどんアドバイスしますからね。三沢さんは水彩画ということですが、何か必要なものがあれば言ってください。』
司馬がてきぱきと質問した。
『道具は一応一通り持ってきているので、画用紙を頂ければ結構です。』
『それなら、そこの戸棚に置いてありますから自由に使って下さい。それから申し訳ありませんが、これから職員会議になので私はこれで。秋山君色々とお願いします。』
司馬は小梅に会釈をすると、志野に一声掛けて去っていった。
司馬が去ると、再び静寂が訪れた。
小梅は教えられた場所から画用紙をもらい、かばんから筆と絵の具を取り出すと窓のそばの椅子に腰掛けた。
小梅はゆっくりと筆を動かす。
滑らかに優しく。けして急ぐことなどない。
*
どれ位の時間が経ったのだろうか。
小梅は自分の頬に差していた春の暖かな日差しが、赤く染まっていることに気が付いた。
慌てて、教室を見回すと秋山 志野の姿は見当たらなかった。
小梅は片づけをすると、かばんを肩にかけた。
部屋を出ようとすると、ふと隅にキャンバスいっぱいに描かれたひまわりがあった。
小梅は一歩ひまわりに近づいた。
志野がいた時は、後ろから覘かれるのを嫌がる人もいるからと我慢していたのだが、ずっと気になっていたのだ。
絵からは、夏のにおいがした。小梅の田舎の夏のにおい。土のにおいと汗のにおいとちょっと火薬くさくて。
絵の中では、時が夏で止まっていた。
小梅の時間も止まった。
*
『三沢さん?まだいたんですか?』
気が付くと後ろに、司馬が立っていた。
『あ、すみません。その、秋山君の作品に見とれちゃって。』
小梅は顔を赤くしながら言った。
『そうですね。彼の作品には圧倒的な世界があります。ただ、ちょっと年寄りの私にはきついですが。』
司馬は愛おしそうにしかし、少し寂しそうにひまわりを見た。
『?』
小梅は不思議そうに司馬を見つめた。
『さ、もう遅いですよ。気をつけて帰りましょうね。』
司馬は話を打ち切るように小梅を外に出して、鍵を閉めた。
『さようなら。』
『さようなら。』
電気を消されて暗くなった廊下を歩いていく少女の背中を老教師は穏やか目で見守っていた