第十三話:彼の片思い
思い出すのは、熱い額に乗せられたひんやりと冷たい掌。一晩中ついていてくれた。
目を覚ますと、優しい笑顔があって、その人が俺の一番になった。
五歳の冬休み、肺炎にかかった。熱ぽかったのに、小梅と裏山で遊んでいたら雨が降ってきて、気づいたら病院のベットの上だった。
なんとなく、覚えているのはずっと頭に乗せられた冷たい手だけ。
単純だって、笑われるかもしれないけれど、別にいいだろう。男って案外ロマンチストなんだ。
ずっと彼女を見てきて、気持ちはどんどん膨らんでいる。
東京の高校に来たのも彼女のそばにいたいから。なるべく近くにいたいからわざわざ、付属の高校を選んだ。
彼女は、俺を弟みたいにしか見てないみたいだけど、高校を卒業したら告白するつもりだ。中学も高校も入れ替わりで卒業していってしまったから、一緒に大学生でいられる1年間、俺の気持ちを知ってもらいたい。幸い、大学も同じになるだろうし。
*
『小梅!温君!こっちこっち。』
風立大学の正門の前で、桜が手を振っている。
『さーちゃん、おまたせ。さあ、行こう。』
小梅が桜の手を取る。
『今日、掃除当番でさ。待っただろう?』
あとから、追いついてきた温も隣に並ぶ。
『大丈夫よ。それより、お母さんが待ちくたびれてるかも。温君が来るって言ったら、すっごく喜んでたもの。今日は御馳走にするって。』
桜は小梅の肩についた糸屑を取ってやりながら、にっこり笑った。
『ホント?俺ってモテモテ。雪江さんは甘いもの好きだから、ケーキ買っていこうか。』
温も笑いを返す。上手く笑えただろうか。久しぶりに桜の顔を見て、かなり緊張をしている。
『はい。あたしはチベットポットのモンブランがいいです。』
そんな温の気持ちを知ってか知らないのか、小梅は勢いよく手を挙げると、東京に来てからご執心のケーキ屋の名を上げた。
*
『まあまあ、あっくん。背が伸びちゃって。』
雪江は温の顔を見ると、うれしそうに懐かしい笑顔を浮かべた。
1年ぶりだが、まんまるの体型も、サザエさんを意識したかのような髪型も変わっていない。
『雪江さん、久し振り。ちょっとやせた?』
『やだ、あっくんたら。褒めてもなんにも出ないわよ。さあさ、そんなところに立ってないで入って頂戴。お父さんも今日は早く帰ってきてるのよ。』
雪江はそう言うと、温の手を引いてた。
『おお、温君。久しぶりだね。元気だったかい?』
温たちが居間に入っていくと、テーブルに座って新聞を読んでいた明が顔を上げた。笑うと眼鏡をかけた顔が、くしゃっとつぶれる。
『うん。明さんも元気そうだね。隣座ってもいい?』
そう言いながら、温は明の隣に腰かけた。温と明は昔から妙に仲が良い。普段、二人の娘とおしゃべりな妻にかこまれている明は温といるとほっとするようだ。小梅に話を聞いて、少し心配していたが、確かにずいぶん痩せはしたが表情は明るいので、安心した。
『いや、久し振りに名前で呼ばれると、ドキドキするね。名前を呼ぶのは、温君と・・・親父くらいだったから。』
口に出した後、明の顔が少し曇る。
『・・お悔やみ申し上げます。』
温はうつむくと低い声で言った。嫌なことを思い出させてしまった。自己嫌悪で吐きそうだ。
『やだ、お父さんたら。やだわ、年を取ると暗くなっちゃって。わたしはあっくんに名前で呼ばれると若返った気がして、気分がいいのよ。おばちゃんなんて呼んでくる子は苦手なのよ。わたしはあなたのおばちゃんじゃないわなんて思って。ふふふ。』
不穏な空気に気がついた雪江が明るい声で割って入った。
『そうだね。私も気分がいいんだ。だから、温君といるとほっとするのかねえ。』
明も顔を上げて、例の笑顔で笑った。
『なんだか、俺って告白されてる?だめだよ二人とも。結婚相手も前で。』
ほっとした温は、おどけた声を出した。
『ははは。』
『まあ、ふふふ。』
温の台詞に顔を見合せて笑う二人を温はうれしそうに眺めた。
本当に良い両親だ。こんな二人だから、さーちゃんと小梅みたいな子が育ったんだ。
『ずい分楽しそうね。お母さん何か手伝うことある?』
淡いピンクの部屋着のワンピースに着替えた桜が居間に現れた。普段、桜は自分のアパートに住んでいるが、この家にも頻繁に出入りしているため、部屋があり洋服なども置いてある。
『あ、そうだ。これ、お土産。俺もなにか手伝うことある?』
温は出しそびれていたお土産のモンブランの箱をテーブルの上に置いた。
『まあ、ありがとう。そうね、食器を出してもらいましょうか。』
*
温と桜は食器戸棚の前に並んで立った。高校に入り、背の伸びた温は桜より頭一つ分大きい。
『さっきはありがとう。今日は、温君が来てきてよかったわ。』
桜は大皿を手にとると、温を見上げた。まっすぐ向けられた大きな瞳に温は思わず、目をそらした。
『見てたの?俺、明さんに嫌なこと思い出させてしまった。』
温はうつむいた。情けないし、恥ずかしい。
『そんなことないわ。お父さん、やっとおじいちゃんのことを意識しないで口に出せるようなったの。それに笑っていたわ。ありがとう。』
桜は、笑って温の肩をぽんと叩いた。
『あれは、雪江さんのおかげだよ。』
そういうと、温はしょうゆ皿に手を伸ばした。
叩かれた場所が熱い。普段はわりとおしゃべりの温も桜の前では、うまくしゃべれない。
『そうかも、でもありがとう。』
桜は微笑んだ。
『うん。』
温は顔が赤くなるのを感じた。
温と小梅の片思いをそれぞれ1話づつ書こうと思います。