2位 VS 6位(+雑魚)のその決着
菖蒲が瞼を開くと、先ほどまで自分が立っていた何の変哲もない昇降口の光景が広がる。
周囲をぐるりと囲むようにギャラリーが居て、正面には幻装である純白の片翼を身に付けた七色が立っていた。
「少し遅かったですね。彼から連絡でもありましたか?」
「だったら多少は気楽になれたんだけどな」
「気楽、ですか……問題が無ければ、対戦を始めたいのですが」
七色に返事をする前に、菖蒲は両手の指を動かしてみる。
思った通りに違和感なく動く事を確認してから、幻装を呼び出した。
「大丈夫。始めようか、七色」
「そうですか。それでは、宣誓をしましょう」
お互いに腕輪をしている利き手とは逆の腕を突き出す構えを取る。
「「対戦規定に従い、敗者は勝者の要求を呑む事を誓う――セットアップ」」
そう二人が宣誓をすると、予めプログラムされていた対戦システムが起動を承認して、二人の眼前に大きく『10』の数字が出現した。
カウントダウンだ。
視界の左下にはHP(体力)を示す緑のゲージと蒼いゲージが、敵対者の頭の上にはそれよりも縮小された緑のゲージが展開される。
設定や装備次第では他にも様々な情報を映す事が可能だが、菖蒲はあまりごちゃごちゃとしたのは好まない。
余計な情報に神経を割いて、目の前の敵の挙動を見落としたら本末転倒。
近距離での戦闘を得意とする菖蒲の持論だ。
カウントダウンは『3』にまで差し掛かった。
菖蒲は自らの幻装を鞘から引き抜いて、その切っ先を見つめる。
『2』
刃長が70センチ程の無骨な打刀の刀身が、蛍光灯の光を受けて妖しく煌めいた。
『1』
腰だめに構える。
『0』
恵流不在のまま、戦いの始まりを告げる調子はずれなブザーの音が辺りに響き渡った。
一息で七色に肉薄する菖蒲。その脚力たるや並ではない。
それは菖蒲自身が設定した能力に依る所もあるが、仮想体の操作に熟練した腕があるのも大きい。
「速攻を仕掛けてくるのは見え見えでしたよ」
下段から切り上げられた凶刃を七色は柔らかな風を伴って、ふわりと後方に跳躍して間隔を開ける。
「逃がさない……!」
速攻にしか自らの勝機はないと踏んでいる菖蒲が懸命に追い縋る、が。
「――RUN――風の音」
菖蒲の猛追は強烈な向かい風によって阻まれ、大きく速度を落とした。菖蒲のHPを現す緑のゲージが若干ながら減少し、七色は青ゲージを1ミリほど消費する。
今の豪風の正体は七色のCランクエフェクト『カゼノネ』だ。攻撃力そのものは最弱値に設定されている為にダメージは期待できないが、自然由来のエフェクトは軒並み性能が良く、カゼノネも例に漏れず抜群の補助性能を誇っている。
「少し驚きました。評判以上のスピードです。補助なしのフラットな状態で最速と評されるだけありますね」
「そう言う七色は随分と余裕だな」
「余裕と言うよりも、久々の強敵との戦闘に胸を踊らせているだけです」
七色は執行部の主力であり、忌避される対象だ。勝てない戦いを挑む者はトップランカーには居ないし、弱い者いじめは七色の趣味ではなく、そうなると必然、戦闘回数自体も減る。
七色にとって、この菖蒲とのVR戦は喉から手が出るほどに設けたかった機会だった。
恵流と言う不純物もなく、この日ばかりは恵流に感謝しても良いと七色は思う。
「念を押しておくけど、過度な期待はしないでくれよ」
一方の菖蒲は心の底から気乗りしない風だった。
菖蒲は七色に絶対に勝てない。
この一戦は七色を失望させてしまうだけだと、菖蒲にはそんな未来が既に見えてしまっている。
先手を完全に封殺されて勝ち目が見る影も無くなり、白旗をあげたいくらいだ。
けれど、それは最も望まれない展開だろう。
ギャラリーにも、七色にも。
菖蒲はこのフィールドに立つ前に、出来る事は全部やると決めている。だから、時間が掛かった。それは無駄な抵抗だ。
与えてしまう失望の幾ばくも軽減できないだろうが、菖蒲なりの相手への敬意の形で、自己満足。虚空に手を伸ばして、魔法のコトバを紡ぐ。
「――RUN――刀匠」
菖蒲の青いバーが2割程度の長さを失う。
それを代償に想像する。
一振りの刀を。
理想的な反りを描く、重みのある刀身を。
チャキリ、と鍔が鳴る。
一秒にも満たない時間で、何もない空間を掴んでいた筈の菖蒲の右手が一本の黒刀を握っていた。その刀に銘はない。
「行くぞ」
「どうぞ?」
二度目の開戦を宣言し、疾駆する。
基本的に接近戦が主体である菖蒲は距離をどうにかして埋める必要があった。
「――RUN――風の音」
接近しようにもこのように風に減速を余儀なくされ、距離を置かれてしまう。
その為のもう一振り。右手の一本を菖蒲は迷わず中空に踊った七色目掛けて投擲した!
「悪くない手です……が、その程度」
七色は風の方向を手繰り即座に横殴りの風向きに変えて飛来する切っ先を何事もなかったかのように逸らしてみせる。
その隙に菖蒲は一気に距離を縮めて着地間際の七色に袈裟懸けの一太刀を浴びせようとした。
しかし、七色は焦りの色の一つも見せずに防具型幻装である片翼で受け止めてみせ、カゼノネで両者間にまたしても空白が生じる。
「――RUN――」
今度は此方の番と言わんばかりに七色が仕掛けた。
「神解け《カミトケ》」
一瞬の明滅の後、上空から一本の光の槍が菖蒲の頭上に降り注ぐ。
神解け。霹靂とも呼ばれるその言葉通り、その影響/効果は雷を呼ぶ物だ。
菖蒲は咄嗟に横っ飛びをして直撃だけは避けられたが、誘導雷の当たり判定に引っかかり、HPを示す緑のゲージを十分の一ほど持って行かれてしまう。
「やっぱり七色のエフェクトはずるいなっっっ」
「ずるいって、人聞きの悪いことを言わないで貰えますか?」
「紛うことなき事実だ! 自然由来のエフェクトを複数扱える上に、今のでBランクだもんな!」
カミトケを10回使われたら、それだけで菖蒲の負けだ。
フラットな状態で最速を誇る、序列6位の菖蒲が、たったそれだけで敗れる。
同じ序列1桁台であっても、歴然たる差が生じているのは相性の要素が大きい。エフェクトだけではなく、性能面にもそれは生じていた。
VR内を動き回る電脳体は、能力値の設定も任意に行える。
項目は『与ダメージに影響する攻撃力』『EPやエフェクトの干渉性に関わる精神力』『素早さに直結する敏捷性』『HPや防御力に反映される耐久力』の4種類。
各種最大値は250で、それぞれに適当な倍率が設定されていて、例えば敏捷性が100の電脳体は50の電脳体よりも倍の速度で動けるといった単純な数値では計算されない。
初期能力値はエフェクトが解禁されると同時に250がシステムによって振り分けられるが、その後に同じだけの数値を任意に振り分ける仕組みになっている。鶴来菖蒲を例にすると、以下の通り。
【初期値】
攻撃[80] 耐久[50] 精神[30] 敏捷[90]
【任意値】
攻撃[90] 耐久[0] 精神[0] 敏捷[160]
【合計値】
攻撃[170] 耐久[50] 精神[30] 敏捷[250]
初期設定後に数値を弄るには、高額なコンテンツを桜貨で買わなければいけないので、大半の者がその時点で設定した数値のまま利用している。
七色もその一人なのだが、七色はその時点であらゆる思索を巡らせて、自らのエフェクトの性質に合うように、数値を特化して割り振った。
アバターとの適応性も高く、それらが見事に嵌まり、七色はこうして学園序列2位に君臨している。
「カミトケ」
七色の頭上に表示されている青いバーが1ドット程度減少する。何度目か解らない雷の槍が菖蒲目掛けて降り注いだ。
その前兆を察知していた菖蒲は刀を空に放って、大きく飛び退いている。唸る雷光は吸い込まれるように刀に直撃した。
帯電した刀は地面に突き刺さり、放電を止める。
「――RUN――刀匠」
すかさず刀を召喚した菖蒲は七色に肉薄して、上段から切って掛かった。
七色はエフェクトを発動させる猶予がないと判断して、迫る凶刃を翼で受け止める。
先程は無傷でやり過ごせた攻防は、しかし七色のHPを示す緑ゲージを僅かに削り取った。
貫通ダメージ。防御行動を行った際、相手の攻撃力が防御力を大きく上回っていた場合に発生する。
それを察知した七色は反撃に転じるのを中断して、カゼノネを発動して距離を稼いだ。
追撃をせずに、地面に横たわった刀を回収する菖蒲のHPゲージは半分を下回り、3割を切っている。それで、七色は何が起きたのかを悟った。
「菖蒲のランクBエフェクト『南無斬』でしたか」
菖蒲の能力も七色と同程度には有名で、当然のように七色も知っている。
「ご明察」
ランクBエフェクト『南無斬』はHPが3割を下回ると自動的に発動するパッシブエフェクトで、その効果は相手に与えるダメージを倍加させるというシンプルながらも強力な効果を持っている。
これでお互いにランクBエフェクトまで使用した形だ。
菖蒲のHPは僅かで、七色のHPは僅かしか減っていない。その点だけ見れば優勢なのは七色の方に見えるが、しかし状況は菖蒲側に傾きつつあった。
「このままでは、今度はあたしの方がジリ貧になってしまいますね」
Cランクエフェクト風の音もBランクエフェクト神解けも菖蒲には遣り過す手段がある。対して七色には、菖蒲の斬撃を封殺する手段がない。であれば、七色に残された選択肢は一つだけ。
「時間制限のあるエフェクトですから、出来ればもう少し遊んでから使いたかったのですが……賭けている物があたし一人の影響では済まない以上、好んで危ない橋を渡るわけにはいきませんよね」
させないとばかりに菖蒲が怒涛の攻勢に出るが、一瞬の間隙を縫って
七色が大きく中空に舞い上がった。
「菖蒲も、負けたくなければ全力で抵抗して下さい」
力ない笑みを浮かべる菖蒲を見下ろして、七色は強敵との対戦に沸き立つ高揚に急かされるまま、自らの内にある全力を呼び出す。
「――RUN――」
それは、誰もが持ち、けれど大多数の者が解放まで至らないエフェクトの最高到達点。
それを解放せしめた者は、この学園における一定以上の地位を約束される。羨望と尊敬が注がれる、強力無比な魔法の一つ。
「アレキサンダーの暗帯」
そこからは一方的な展開だった。七色がAランクエフェクト『アレキサンダーの暗帯』を発動したにも関わらず、菖蒲は何故かAランクエフェクトを使わずに受けて立つ。
その表情、立ち回りこそ真剣そのものだったが、それで何とか成るようならAランクエフェクトの解放者が序列の上位を席巻したりはしない。
発動から、たったの10秒程度で菖蒲のHPは極小を残すのみとなっていた。
Aランク同士の衝突を期待していたギャラリーからは落胆の声が上がっているが、七色の心境はそんなものでは収まらない。
七色はその手に刀を持ち、その切っ先と言葉を菖蒲に突きつける。
「どうして、Aランクエフェクトを使わないんですか」
「や、ちょっと事情があって。でも、勘違いだけはしないで欲しいんだけど、俺は俺に出来る範囲で全力で――」
「彼から負けるように指示でもあったんですか?」
菖蒲は能面と向かい合ってるような重圧を受けて、気が気でない。
両手を上げて降参の姿勢を取りながら、菖蒲は無理矢理笑みを作る。
もはや、言い訳は何の意味も成さない。腹をくくって、とりあえず笑っておこうと菖蒲は思った。
「黙り、ですか……」
七色の胸中は複雑だった。だが、表出しそうな感情を押し込めて、七色は無感情に言葉を紡ぐ。
「まぁ、いいです。なんにせよ、菖蒲の負けは負け。対戦前の取り決めに則って、菖蒲には明日から執行部の方に籍を置いて頂きます」
淡々と告げて、手に持つ刀を振り上げた。
と、俄にギャラリーの方が騒がしくなる。
目を見開く七色。その動きは完全に止まっていた。
敵の急停止を不思議に思った菖蒲は、七色の視線の先を確認する。
そこには群衆に紛れて見知った顔の男が一人いた。
「あれ、終わりなの?」
そいつは平然とそんな事を宣い、何処からともなく取り出した板チョコを食わえる。
菖蒲も七色と同じように硬直。そして、認識が追い付いてくると、次第に怒りが湧いてきた。
「のえる……言いたい事は色々あるけど、まず一つ良いか」
「なに? もしかして、このチョコが食べたいの? いいよ、あげる」
恵流が、つい先程まで自分が口にしていた板チョコを菖蒲めがけて躊躇なく放り投げる。
「いらな──うわっ!?」
飛来する板チョコは菖蒲の元に届く前に来た道を引き返す。
「あげる。じゃ、ありません」
七色が刀の腹を使った鋭いスイングで打ち返したのだ。
恵流の所持するチョコレートが回復アイテムだから、だとかそういう理由ではなく。
「人に勝負を持ちかけておいて、大遅刻の弁解もなしですか」
七色を突き動かしたのは、純然たる憤慨だ。
「バナナさん不機嫌だね? そういう時こそ甘い物だよ。敗北の味にチョコレートはいかが?」
七色の醸し出すプレッシャーを歯牙にもかけず、恵流は余裕綽々の様子。
恵流の発言の中に聞き逃せないフレーズがあった。
「敗北? それは、貴方側の結果でしょう? それとも、この劣勢を覆す秘策でも用意しているのですか?」
「秘策なんてないよ。そもそも、もう結果が出てるしね」
恵流はチョコレートを頬張りながら、片手で中空に表示させたパネルを弄る。
ディスプレイを可視化させるタブにチェックを入れて、七色の方に向けた。
そこには日付と時刻が表示されている。
時計の表示は、日付が変わってから3分が経過している事を教えてくれている。
「時間がどうしたのでしょうか?」
七色は表示ミスをしているのではないかと暗に告げた。
恵流は片手でチョコレートを弄びながら、画面をそのままに端末を操作して音声ファイルを再生する。
『勝負内容はシンプルにしよう。僕を倒したら君の勝ち。倒せなかったら君の負け。バナナさんが勝てば、菖蒲は執行部に入って、僕は菖蒲との接触を金輪際しないことを誓う』
今日の昼休みに恵流と七色の間で交わした対戦の取り決めを録音していたようだ。
それを聞いた七色は、なるほどと理解を示す。
「どうやら、貴方を倒さなければならないようですね」
「その通り」
「ですが、これは決して油断をしているのではありませんが、貴方とあたしでは勝負にならないと思います。要の菖蒲は虫の息。無駄な抵抗はやめて、潔く負けを認めて頂けませんか?」
これ以上、あたしの気持ちを逆撫でする前に……そんな副音声を菖蒲だけは正確に汲みとった。
「の、のえる。もう七色は激おこだから、ここからは煽るなよ。絶対煽るなよ?」
「人聞きが悪いなぁ。僕は人を挑発した事なんて、この人生で一度もないよ」
「沢山してるからな! 俺のこの目がしっかりその現場を見てきたからなっ」
「相手が勝手に邪推したり暴発したりしただけだよ。僕には悪気はないのに、言葉って難しいね」
「白々しい! ほんとに、今回だけは頼む。後生だから」
自身の喉元に突き付けられた刀が夜光に煌めいているのに、圧倒的懇願だった。
これもある意味では命乞いなのかも知れない。
そこまでされて何も感じないほど恵流も鬼ではない。
「話し合いが済んだのなら、早く結論を出して下さい。こんな茶番は早々に切り上げて、布団に入りたいです」
「じゃあ、試しに戦ってみる? 君じゃ、勝てないと思うよ」
小さな声で「負けもしないけど」と付け足す。悪意に塗れた発言のチョイスだ。菖蒲は心の中で、のえるのばかー! と喚き散らす。
「ほぉぅ……」
七色の瞳が好戦的な色を帯びた。怒りと期待が綯い交ぜになり、アドレナリンがどぱーっである。
「堂々と勝てないだなんて言われたら引き下がれません。途轍もないほどの消化不良でしたし、都合が良いです」
菖蒲のアバターが光を散りばめて霧散する。あっさりと菖蒲にトドメを刺して、七色は恵流と対峙する。
恵流は鬼ではない。鬼ではないなら、何か。答えは出ている。
恵流は自他共に認める『ゲス』だ。鬼と喩えるなら、七色の方がよっぽど適役だろう。
ゲスは鬼ほど強くない。非力だからこそ、戦わずして相手の戦意を踏みにじる手段を取る。
「戦う前に、もう一つだけ良いかな」
「降伏の申し出以外なら構いません」
恵流はニッコリと微笑んで、中空に表示されている画面をタッチする。操作に応答したのはまたしても音声ファイルだ。
『「今日の夜に決着にしない?」「調整は可能です」』
音声は其処で途切れる。
「今のやり取りがどうかしましたか?」
「これ、録音した日付が昨日になってるんだよね」
恵流の小細工を察した一部の聴衆から非難の声が上がり始めた。
ここまで言われれば、恵流の仕掛けた言葉遊びに七色も気づかざるをえない。
「昨日中に貴方を倒せなかったあたしは敗者だと……そう、言いたいのですか」
ぴくぴくと眦を震わせて、震える声で尋ねる。恵流は笑みを絶やすどころからニパーっと太陽のように笑った。
「そうだね!」
その笑顔が、七色の内に眠る邪心を煽るのなんの。
「……っっう」
悪びれもしない恵流の様子に七色は喉元まで出かかった反論の言葉を飲み込む。
何を言っても、手痛い反撃を食らうのは自分だと判断して自制心を働かせる。
卑怯だと罵れば、ルールについてきちんと言及しなかった七色が悪いと返されるだけだ。
言葉通りに受け取るなら、恵流は何も間違ったことは言っていないのだから。
恵流の人間性についても噂だけではなく幾度もの対話で知っていた筈なのに、ちょっぴり不利な条件を付けられたくらいで七色は油断していた。
戦いなら勝てると、慢心していた。
「それで、結果は出てるけど、やっぱり戦うの? こう、むしゃくしゃしたからとか、そんな感じで。それって何だかとっても往生際が悪いよね」
ニコニコニコニコと人を喰ったような笑みを浮かべ続ける恵流に、七色は自らの浅慮に苛立つよりも、そちらの方が気に障る。
かと言って、ここで恵流の口車に乗せられて攻撃をしようものなら、不名誉な烙印を押されるかも知れないし、先程自らが告げた降伏勧告を翻す事になってしまう。
だが、七色側もこのままおめおめと引き下がるわけにはいかない。身一つならまだしも、七色の敗北は執行部の損失に繋がるからだ。
どう切り出すべきか。恵流の仕掛けた罠は卑劣だが、言質という強力な材料の柱に支えられている。
公正ではない。公正ではないが、恵流の口八丁を見抜けなかった七色にも落ち度がある。
場合によってはそれこそ往生際の悪い醜態を晒す事になる。
八方ふさがりかも知れない、と七色は思った。
「僕達の勝ちだから、敗者であるバナナさんには此方の要求を履行する義務が生じるね」
そう告げて、恵流は再び音声ファイルを再生する。
『「貴方が勝った場合は?」
「そうだなぁ。バナナさんには、僕達に協力して貰おうかな」』
協力……その言い方も狡猾だ。協力の内容については一切言及していなかった。
その協力が、長期に渡って効果を及ぼすものだとしたら、七色は実質的に執行部から去る事になるだろう。
菖蒲と恵流のチップが『今後、金輪際』接触を断つと言う物であった以上は、その条件に見合った要求をされたら文句を言えない。
「その協力の内容についても、事前にちゃんと聞いておくべきでした」
相手はゲスで評判の平野恵流。
これから何を注文されるのか、考えるだけでも悍ましい。
「別に、無理難題を突き付けるつもりはないから安心していいよ」
「それで……あたしに一体、どんな協力をさせるつもりですか」
「隔週のイベントが終わったら、僕達と一緒に"フラグナ"に潜って欲しいんだ」
フラグナ。それは非公式に"バグ"の認識を得たクエスト一つ残して、既にクリアされた第一設定世界の名称だ。
共に設定世界にログインするだけ。それは、七色の想像よりも遥かに易しい内容だった。
だが問題はそこよりも。
「は、はぁ。それで、期限は?」
「その一日だけ。一応、ズルをしたって自覚もあるし、このくらいでちょうど良いかなって」
その緩すぎる条件が、反って七色の不審を煽る。
しかし、七色にとっては好条件に変わりない。
「その程度で宜しければ、喜んで」
そう。その程度で済むなら安いものだと、この時の七色は安心すら覚えていた。
「ありがとう。やっぱりバナナさんは菖蒲の姉貴分だけあって器が大きいね」
それが間違いだったと気づくのは、まだ少し先の話。