『第一固有血海、血環の理』
辺りを包むブラッドミストは徐々に密度を増してゆき、視界いっぱい赤黒くなると洞窟の風景は次第になりを潜める。
離れにいるアテナと目が合うと、さすがの彼女も焦り始めて「月詠さん、こっちに来て私から離れないで!」と叫んだ。
私は頷くとすぐさま駆け出して合流し、互いに背中を預けて上下左右に視点を動かすと――
「アテナさん、ここって……」
「まさかこんな事になるなんてね」
洞窟の薄暗い景色は一転し、見慣れた筈の風景は見たことも無いような背景に装いを改め始める。
私達は今、何故かこの世とは思えないような場所に立っていた。それは地獄絵図のような場所だった。
プカプカとたゆたう小さな浮肉塊に立ち尽くし、外には血の海が溶岩のようにグツグツと煮え滾っており、万が一にも落ちればどうなるかわかったものじゃない。
そのまま成す術も無く、あーでもないこうでもないと戯言を叩き合っている内に、朱眼が空中に現れた。
「クックック……血環の理が創りし地獄海の深淵の淵へようこそ」
あの不気味な声が一体に響き渡る。が、何故かその言葉に違和感を覚えた。
訝しむような感覚を抱きながら背後を見ると、アテナもこちらを見ながら私と同じく頭に?マークを浮かべて微妙な顔付きになっている。
しかし今はとにかく、目先のあいつを倒さなければならないだろう。余計な詮索は後回しだ。
仕方なしにそのまま心に湧いた妙なわだかまりを残しつつ、私達二人は揃って朱眼を見上げていた。
警戒は解かずに背中合わせのままで得物を構え、不意打ちへの射撃対応はいつでも可能である。
「クックック……声も出せぬほどに怯えてしまっているのか? しかしそれも『血環の理』を発動させた故、仕方あるまいか」
私もアテナもやる気バリバリ全開なのだが、それでもボス様ともなれば人間なんて赤子当然とでも言いたいのだろうか。
朱眼が強く見開き眼力を込めるとブラッドミストからは無作為にクリムゾン・バットが湧き始め、耳に障る金切り声が多々折り重なり神経が逆撫でされる。
「んもう~! 何よこれ!」
「月詠さん落ち着いて、コウモリなんて近寄ってきたら叩き落せば良いから」
「クックック……何をゴタゴタ抜かしている。 まあ良い、使い魔達に守られし我に敵などおらぬ。 故にもう何も怖くない。 さぁ、彼奴等に怨恨を放て! クリムゾン・フィナーレ!」
朱眼は落ち着きながら淡々と話すアテナを睨むように見下し、使い魔たるクリムゾン・バットに命ずると、群れはその名の通りに真紅の津波となり私達目掛けて飛んできた。
羽ばたく音がさっきのコウモリの群れよりも明らかに圧く、旋風音を聞いてるだけで合計数も各個体の脅威度も格段に増しているのがわかる。
私は無作為な隊列を見据えてチョコバナナに矢を添えると、まず一閃を放つ。
「いっけぇぇぇえ!」
掛け声と共に放たれた矢は空気を裂いて突き進み、真っ赤な津波に正面からぶつかると僅かながら数匹を打ち落とすが、そのまま波は留まることなく押し寄せてくる。
思っていたよりも効き目が薄いことに驚き、冷や汗が頬を伝った。
「うっそ……てんでダメじゃん」
「そんなことないって、月詠さんナイスショット。 あれだけ遠くにいる敵の群れに一矢で数匹纏めて落とすとは、さすがだよ」
「そうかな?」
「矢は気にせずどんどん使って良いから! こんなとこで倒れる訳にいかないし!」
それもそうだ。状況は明らかに窮地だし、矢数をケチって戦死とかアホすぎる。
気を取り直して矢筒に手を伸ばし真紅の津波との距離を目測するが、既にクリムゾン・バットの群れは肉眼で個々が判別可能な程に迫っていた。
まじまじと見ればその体は並のコウモリよりも大きく、羽を除いてもスイカ程度の大きさはあるんじゃないだろうか。
だがそれは好都合である。大きな的なんて、ただ狙い易いだけだ。
「それじゃ、遠慮無く本気出すよ!」
私は矢筒から数本の矢を鷲掴んで、その全てをチョコバナナに添える。
弦を引き構えた段階でようやく私自身も添えた本数を把握することとなるのだが、その数およそ五本。
「群れて嬲るを仇とし、その群集全てに裁きを下します! 受けよ! 因果桜砲!」
言い終わると同時に構えていた五本全てを一斉に放つ。
これはかつて、私が五月蝿いハエを確実に仕留める為に編み出した遊戯……じゃなくて奥義だ。
放たれた矢は空を切り風を纏いながら突き進むが、纏う風圧がそれぞれの矢に干渉して方向をにわかにずらし、結果として終着点の定まらないランダム・ショットとなる。大袈裟に言っても所詮それだけなのだが。
ただ今のようにとりあえず打てば当たるような場面では好手となる。感覚としては点ではなく面積での攻撃と言う訳だ。
そして先程同様に真紅の津波へと正面からぶつかると、因果桜砲は狙い通りに大きく隊列の頭を崩して見せた。そして先頭が崩れれば後続は当然のように乱れ、そのままクリムゾン・フィナーレは決壊することとなった。
「月詠さん、今よ!」
「わかってる!」
手を休めることなくそのまま第二波、第三波と因果桜砲を繰り出し、数え止めた何度目かでついにクリムゾン・バットを殲滅して見せた。
射抜かれたバット達は血がはじける様に溶けると、そのまま落下して血の海へと飲まれていく。
ついに朱眼から取り巻きがいなくなり、気付けばブラッド・ミストも消えていた。やはりあの霧で使い魔を生成していたのだろう。だが霧無き今、最早源は無いのでこれ以上湧く心配も無い。
勝ち鬨とばかりにドヤ顔で朱眼を睨みつけ、予告ホームランみたいなポーズでチョコバナナを突きつける。
「さあ、次はあなたの番よ……ブラッドムーン!」
「ぐぬぬ!」
「え? 月詠さん、確かあれは血染めの月とかじゃなかったっけ?」
「そうだっけ? でも同じだしどっちでも良いじゃん」
「まあそうなんだけどさ。 はぁ、同じこと二回言われても困るんだよね」
「……まあね」
すると、朱眼は瞼を強く開いて困惑を隠せない様子で呟いた。
「え? 血染めの月とブラッドムーンって同じなの?」
「「え?」」
その言葉に私とアテナはこれまでにない脱力感を覚え、揃って端的な返しをするとアゴが外れたように口を開けて呆けてしまう。
ダークファンタジー全開のボスモンスターたる朱眼は今なんと言ったのだろうか。私はどうやら疲れているようで聞き損ねてしまったようである。
すっかり気が緩んでしまった私はつい朱眼に対して口を開いてしまった。
「えーと、あの……朱眼さん?」
「しゅがん? わた……わらわがか? 何で?」
「邪眼みたいな見た目なので……後、朱色なので」
「眼が朱色なので?」
「うん。 眼が朱色なので……」
「……そっか」
最終的に朱眼は黙り込んでしまった。その瞳は酷く虚ろになり遠くを見つめていた。
しかも何故か、あの貫禄めいた不気味な声色ではなく妙に弱々しくて消え入りそうな感じで、今にも泣き出しそうな雰囲気だ。
「いや、えーと……ブラッドムーンさん、で良いんだよね?」
「クックック……我こそはあまねく亡者達を統べる者、血染めの月・ブラッドムーンなり!」
「あれ? 月詠さん、なんかさっきと言ってること違うよね?」
「うん。 さっきは終着点がうんたらかんたらだったと思う」
アテナがすかさず突っ込んだので私もそれに乗っかると、朱眼はまたも黙り込んで遠くを見つめてしまった。
一体このボス様はどうしてしまったと言うのか。
「アテナさん。 なんかしまらないけど、ちゃっちゃと射撃して終わりにしちゃうね」
「うん、既にグタグタだけどよろしく」
私とアテナは揃ってジト目を朱眼に向けながら詰めに入る。
チョコバナナに矢を添えて朱眼の瞳を狙う私の前には、ファイアーブランド・スピアを構えるアテナ。念の為に警戒は怠らないが、なんだか最後にポーズを決めている気分になってしまう。
「一閃!」
そして矢を放った。
放たれた矢は真っ直ぐに空を昇ると虚ろな瞳のど真ん中へと突き刺さる。
――と、
「ふんぎゃー!」
先程と同様のなんとも間の抜けた悲鳴が発せられる。
朱眼は震えながら瞼をしきりに何度もパチクリさせると、地獄絵図のような背景はガラスが砕けるような音を立てながら割れた。
そして――辺りは元の見慣れた景色となり地底洞窟の風景に戻る。
「やった! 戻ってこれた!」
(月詠さん待って、まだ油断は禁物だよ。 それともう、小声に戻したほうが良い)
(あ、ごめん)
ハッとして私が視点を高くに戻すと、朱眼は眠りに入るようにゆっくりと瞼を閉じ、そして地面へと墜落した。
(こ、今度は大丈夫……だよね?)
(みたいだね。 月詠さん、なんともいえないけど、とりあえずボス撃破おめでとう)
初めの方こそ戦慄を覚えそうだったが、最後の方はなんだかあれな感じだった。でもとりあえず生きているので結果オーライだろう。それに何よりあんな得体の知れないモンスターを私の射撃で倒したのだ。これは大きな戦果だろう。
手に握るチョコバナナを見つめる。と、
「クックック……これで勝ったと思うなよ?」
「「えっ!?」」
突然の声に慄き、私とアテナは視線をすぐにそちらへと向けた。
朱眼は瞼を閉じたままゆっくり蠢くと、その幾重にも纏ったような真紅の繊維がほつれ始める。
少しずつ見え始める朱眼のコアはやはり白金色で、ついにその姿を表す。
それは真紅の羽衣を纏い、真紅の絹のような長髪をサラリと手櫛で踊らせ、白い素肌に金色の瞳をしていた。
外見年齢としては私と近そうだが、その割に不思議と妖艶な容姿をした女性だ。
ただ特徴的だったのが、右眼を眼帯で覆い右手は包帯を巻いていることだ。まさかさっきの射撃の影響とは思えないが。
「クックック……よもや人間如きわらわの姿を晒す羽目になろうとはな」
「そんな、倒した筈なのに! 私の矢をあれだけ浴びて生きてるなんて!」
朱眼は――彼女は、驚く私を気にする様子も無く、不敵に微笑みながら右腕の包帯をはらはらと解き始める。
一方アテナは黙ってファイアーブランド・スピアを構えると、固唾を飲んで彼女の様子を窺っていた。
「クックック……包帯の巻き方はもう覚えておらぬ故、もう後戻りはできんぞ?」
意味深にそう語る彼女だが、やがて包帯から晒された右腕には怪我や火傷らしき形跡は特に見当たらなかった。
一体なんだと言うのか。
しかし彼女の実力を私達は知っている。あの包帯にはきっと何かしらの呪術が施されていたのかも知れない。
先陣をアテナに後陣を私に据えると、すっかり慣れたスタンダードな陣形で警戒態勢になる。
「クックック……ではゆくぞ! 『第二固有血海、血王滅殺赤龍波』! 朱眼の力を舐めるでないぞよ!」




