三十四話「朧月(前)」
これは記憶だ。
寝ている私が思い出している記憶。お爺ちゃんとの思い出。かつて過ごした在りし日常。
小学生になって間もないある休日のことである。
神社の敷地内にある空き地で、私はお爺ちゃんから弓の指導を受けていた。
一本の木の枝幹に五円玉を糸でぶら下げ、そこ目掛けて射的するだけのシンプルな内容だ。神社で五円玉を的にするなんて、今にして思えば随分と罰当たりものだが。
その木からおよそ三十メートル離れた位置に立ち、背に手を伸ばして矢筒から一矢掴むと、弓に添えて弦を引く。
遠くの五円玉を睨みつけながら引く手を僅かだけ震わせていると、背後からお爺ちゃんの声が聞こえてくる。
「まずはこのくらいの距離で必中させねばな。 矢数は湯水の如くあるから遠慮無くやりなさい」
「うん!」
「『うん』ではない。 返事は『はい』じゃ」
「……はい!」
答えて気概を改めるも、吹き付ける微風が五円玉を微動させ、矢を放つ瞬間が見切れずに判断が鈍ってしまう。
そのまま固まっていると少々強めの言葉がかけられた。
「どうした? 何を躊躇っているんじゃ? 流鏑馬で馬に乗っとる時は、こんな程度じゃすまんぞ」
「はい!」
当たる外れるは置いといて、まずは放って距離感や風の強さと方向を測らないと始まらない。
ベテランの弓手ならば目と肌でそれらを感じることができるとお爺ちゃんは言っていたが、駆け出しの小学一年生では感覚も何もあったものじゃないだろう。
ツバをごくりと飲み込み、矢を放つ。
ただこの一射が将来への一歩となり、今の私の礎となっているのは間違いない。
放たれた矢は空を切り五円玉にみるみる近付くと――端っこをかすめた。軽やかな金属音が鳴らされると、五円玉は振り子のように大きく左右に揺れる。
そして矢はなおも進み、やがて立てかけた畳に深々と突き刺さった。
「ほお、初めてにしちゃ上出来じゃのう。 月詠、今のはきちんと狙えたのか?」
「んーん、偶然だよ。 まずは距離感と風のいたずらを見定めようと思ってたんだけど」
「良い心がけじゃ。 そうやって一矢放つ毎にきちんと考え、無駄のないようにな」
「うん!」
「うん?」
「あ……はい!」
「はっはっはっ! 月詠は良い子じゃのう!」
お爺ちゃんは快活に笑いながら、しわくちゃの大きな手で私の小さな頭をもみくちゃにした。
私もされるがままに両目を閉じながら元気に笑っていた。こんな風にわしゃわしゃとおかっぱ頭を撫でられるのが大好きだった。
だった――今じゃもうすっかり過去形だ。
でも、十年の時を越えてお爺ちゃんが旅する世界に私は来た。
だけどもお爺ちゃんを追いかけて良いのだろうか? クララの病が治った後、はたしてクララは旅路に出れる元気な体になるだろうか?
もし万が一、後遺症とかが残った場合は旅を諦める必要があるもしれない。そうなってしまった時、私はどうするのだろうか?
わからない。その時になってみないとわからない。
とにかく今はクララの為に頑張らなきゃ。
クララともっと話したい。もっと知りたい。もっと触れたい。
その為に、今は頑張らなきゃ――
☆ ☆ ☆
「……ーん。 月詠さーん。 もう起きるよ~!」
「ん……あれ? ここ何処ですか?」
アテナの呼び声に起こされると、私は首を動かして辺りをキョロキョロ見渡す。
気付けばすっかり寝入っていたようだ。
「って……ご、ごごごめんなさい!」
まず目に入ったのは、アテナの背中にできていた小さな世界地図だった。
作成したのはもちろん私。人様の背中にヨダレを垂らしながら寝入るとは、恥ずかしいばかりだか随分と爆睡していたらしい。
慌てて自分の口を左袖で拭きながら右袖でゴシゴシとアテナの背中を拭く。
「ん? あー気にしないでいいよ。 そんな珍しいことでもないし、じきに乾くでしょ。 そういえばさっきのが初めての戦闘だっけ?」
言いながらアテナは手綱を引いて馬を止める。
目の前には幅広い滝が見え、水がカーテンのようにゆるやかに流れて綺麗な虹を作り、その下には底が見える程澄んでいる泉ができていた。
霧はすっかり晴れてぽかぽかとした日和が気持ち良く、穏やかに奏でられる水音が清々しい。
「んー、正確にはルーン・ベアが初めてですかね」
「そういえばそっか。 ルーン・ベアが初戦闘だなんて、今となっちゃ良い経験したねーって感じだろうけど、実際どうだったの?」
アテナがこちらに振り返って額の汗を拭うと、その仕草がまたなんとも爽やかだった。
後光を背に微笑むアテナのスマイルはやはり中性的な美少年の如しである。見ていると妙に恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。
「あの時はクララが囮をしてくれたからなんとか……でもクララじゃなかったらどうなっていたか、正直解ったものではありません」
「そうだね。 たまたまクララさんの体質が吉と出たらしいけど、正直アマゾネスでも落命していたと思うよ」
話を続けながら私達は馬から降りると、アテナは荷台も解き始めた。
慣れた手つきで要領良く降ろすとそのまま装具も外して手綱まで解く。そして馬にニンジンを食べさせながら、たてがみを優しく撫でて話しかける。
「ここまでありがとう、もう行って良いよ」
馬はそそくさと食べていたが、アテナが離れるとそのまま何処かへ颯爽と走り去ってしまった。
「えぇ~! ちょっとアテナさん、これからどうするんですか? もう帰ることもできませんよ?」
「安心して。 普段あの子は森で生活してるけど、呼べばまた協力してくれるから」
「ほ……本当ですか?」
「まあ聞いただけじゃ信じられないよね。 野生と人間社会を行き来するなんて、最初は私だって信じられなかったもの」
「誰が飼い慣らしたんですか?」
「アマゾネスにサイサリスっていう子がいるんだけど、会ったことあるかな?」
「へぇ~。 サイサリスさんが飼い慣らしてるんだ。 確かに動物とかに詳しいとは思っていたけど」
「彼女が言うには、飼っているんじゃなくてお友達みたいだよ? だから自尊心を傷つけると人前には出てこないって」
「か……かわいい!」
「ん? 月詠さん、何か言った?」
「いえ、あんな年齢不詳のサイサリスさんからそんなメルヘンな言葉が出てくるなんて。 見た目通りすぎて、かわいいなぁって」
「年齢不詳か……あはははは! 確かにね!」
アテナはサイサリスを思い出したようで、納得した様子で無防備に笑いだした。
こんな時でも無駄に美少年スマイル。素性を隠したまま外に出れば多くの乙女が恋焦がれること間違いなしだろう。
――こんな風に笑うんだ。
心から笑うアテナを見るのはこれが初めてだ。
そういえばヴィヴィアンがあんなに心底から笑っていたのも今日初めて見た。
二人とも見た目が彫刻像みたいに整っているからどことなく近寄りがたいイメージが先行していたけども、それはそれで彼女達の本質から目を背けていたことになる。
アマゾネスリーダーや大修道女の補佐といった立場でも、こんなに素直に笑える彼女達ならば仲良くやっていけそうだ。
ヴィヴィアンに至っては既にキスしちゃってるしね!
「サイサリスさんって顔つきは幼いのに、その……発育の方が」
「いやいや月詠さん、サイサリスちゃんは実際に幼いんだよ? まだ十四歳だし」
「じゅ、じゅうよんですと! 十四歳であのメロンサイズですか! これは将来が恐ろしい!」
「月詠さんもそこに反応するんだ。 私的にはバストサイズより、落ち着いた雰囲気とか動物学の方が関心すると思うけどなあ」
「そういうのもありますけど、それだけじゃないですよ。 十四歳で門番の守衛って……正直どうなんですか? そんなに人手不足なんですか?」
「あー心配いらないよ。 サイサリスちゃんは年齢が年齢だから昼間だけだし、それに彼女が危機を叫べばアマゾネス部隊より早く森のお友達が駆け付けたことがあるからね」
「お、恐るべし十四歳……」
「でしょ? だからバストサイズより、そっちのが恐ろしいよ」
アテナの言うことももっともだが、やはりあのサイズで十四歳は脅威的だ。普通に私より大きいし、乙女達の中でも指折りではなかろうか。
しかしそうなると、クララはサイサリスを見る度にどう思っていたのだろう。顔つきだけなら同じ年齢に見えるのに、身体つきは正反対。同じ山でもかたや絶壁、かたや谷間。涙なしでは語れない。
「さて、それじゃそろそろお昼にしようか。 月詠さん火打石は使えるかな?」
「すみません、サバイバル的なのはからっきしで……」
「そっか。 それじゃセミ・アマゾネスの時に教えるから、月詠さんは泉の中で泳いでる鮎を捕まえてくれる? 鮎の塩焼きにするからさ」
「りょ~か~い!」
シスター服の手足部分をめくりシューズを脱いで泉に入ると、ひんやりとした冷たさがとても気持ち良く、手の平で水をすくうと一口だけ飲んだ。
「おいし~い!」
「月詠さん、私の水もきちんと残しといてよ~?」
「あはは! 飲み切れる訳ないじゃないですか!」
やがてバシャバシャと鮎と鬼ごっこを始め、時には逃げられ、時には転び、幼い時に家族で行ったキャンプが思い出されてとても楽しい一時となった。
あの頃はお父さんが焚きつけで、お母さんはフルーツを切り、お爺ちゃんと二人で川で鮎を捕まえた。そして食べ過ぎでお腹を壊して帰宅したらお婆ちゃんに怒られた。
懐かしい。またあんな風に家族五人で笑える日が来て欲しい。
しばらくするとパチパチと音が聞こえ、見るとアテナが火起こしを終えたようだった。
そのままアテナと他愛のない話を続けていると、私達は同い年だということがわかった。つまりアテナはクララとも同い年なのか。
「へぇ~! 私達同い年だったんですね!」
「そうみたいだね。 だからそうとわかった以上、敬語は禁止!」
「え~、いやでも、急には難しいですよ」
「はい禁止だよ~!」
「んもう、アテナさんのいじわる!」
「そうそう、いい感じいい感じ。 私はさ、互いの家族関係とか神器云々は置いとくとして、月詠さんとは何でも言い合える仲になりたいんだ」
「私と? 何でですか?」
「はい、ですかは禁止」
「むぅ……何で私と?」
「何て言うかさ、まず何より気が合うと思ったから。 それと月詠さんは気付いてる? この教会に来て、フルネームで名乗る人って今まで何人いた?」
言われてみれば確かにとてつもなく少ない。それこそ私とアテナとエリス様だけだ。クララでさえセカンドネームは聞いていない。
訳ありの乙女が集う黄昏の教会では、様々な事情を抱えているのでファミリーネームを話そうとしないし、またそれを察しているので聞こうともしない。
だから私だって無理にクララから聞こうとは思わない。もちろん知りたいけど時期があるだろうし、それを判断するのはクララ自身なのだ。
「私とアテナさんとエリス様だけ……」
「そのとおり。 みんな事情があるから仕方ないんだよね。 私もヴィヴィアンのことを深くまで知っている訳じゃないし」
焚き火の中に草木や枝を投げ込むアテナの表情が少しだけ曇っている。
まるで私とクララの関係を見抜いているかのような雰囲気だった。もしかしてアテナとヴィヴィアンも似たような間柄なのだろうか。
アテナを見つめていると、自ずと私達は視線を絡ませていた。
「だから、ね? 上手く言えないんだけどさ、私と月詠さんは名乗れる者同士なんだし、他とはちょっと違う特別な仲になろうよ」
そういうことか。
つまり、私とアテナは堂々と白日の元を歩ける者同士だから手を取り合おうとのことだろう。
もちろん大歓迎だ。断る理由なんてない。
「はい!」
「はい?」
「あ……うん!」
ハッとした私の顔を見つめているアテナがクスクスと含み笑いを浮かべると、何故か私までつられておかしくなってきた。
気付くと私達は互いを見つめながら声を揃えて元気に笑っていた。




