三話「アルテミス」
私の胸でお姫様抱っこされているクララが語りかける。
「あれはルーン・ベア! 魔力を帯びて魔法を使えるようになったクマで、あのクマは自分の四肢を強化する魔法を使ってるわ!」
教えてくれるのはとてもありがたいのだが、正直いってクララが何を話しているのか訳がわからない。
懸命に状況の説明をしてることはわかるけども、時と場合が相応しくなさすぎる。
夜の帳に包まれた森の中で四肢を光らせながら二足で走るクマとの追いかけっこをしていなければ是非とも掘り下げたい話題なのだが。
どうにもこの状況は色々とどうかしている。しかしとにかく今は逃亡あるのみだ。
――どうしよう、どうしよう……
焦燥感だけが先走る。
駆け出してまだ間もないのだが、クマの足音はどんどん大きくなり近付いてきているのがわかる。このままでは早々に捕まってしまう。
何処かに何かないものか。一秒でも良いから時間が稼げそうな何かを見つけようと辺りを見回してみる。
そうして遠くばかりをみていたのが仇となった。
不注意極まることに足元に何かがぶつかると、全力疾走そのままの勢いで私はつまづき、抱えていたクララを投げ出して派手に転んだ。
カエルみたいに突っ伏して倒れる。
されどもめげている暇は無い。そのまま顔だけ起こしてクララへ話しかける。
「んっ……ごめんクララちゃん」
話しかけるも私同様に突っ伏しているクララから返事は無い。
クララは顔をだけ動かすと虚ろう瞳を涙で濡らしながら、小刻みに震える手をゆっくりと動かして私の上辺りを指差す。最早それが何を示唆しているのかなんて明白すぎている。
私がつまづき転んで今に至るまでほんの数秒だったと思うのだが、獣の足音はもう聞こえない。
耳を澄ませば背後からは実に野性味が溢れる息遣いが聞こえてくる。
「………………」
黙して背後を見上げれば――ルーン・ベアが立ち尽くしている。
クマの足元と私の足元の間にはクララの包み物があり、私はどうやらこの包み物に足元を掬われたようだ。
意外にも直ぐに手は下されず、クマは私の全身をご馳走でも見定めるように眺めると、勝どきとばかりにあの凄まじい咆哮をあげた。
ほぼ零距離でそれを聞いてる私は、恐怖のあまりに全身を大きく震わせ心には絶望を芽吹かせた。
これまでにどんな困難が壁となり立ち塞がろうとも『諦める』なんて選択肢は無かったのだが、今回ばかりはさすがにどうしようもないだろう。
きっと数分後にはクマの胃袋でクララと一緒に仲良く永遠におねんねだ。もう家には帰れない。
そうなれば私の最後を知った両親は悲しむし、お婆ちゃんだってそうだ。 お爺ちゃんは――
――そうだよ。 私、お爺ちゃんに話したいことがたくさんあるんだ! 弓道の全国で優勝したこと、ここ数年の流鏑馬は私がやっていること、諦めないで頑張ってたらお爺ちゃんに負けないくらい上手くなったんだって、話したいんだ!
まだだ、まだ終わりはしない。終わらせてたまるものか。手足だって動くし腰だって抜かしてない。全身五体満足に動くじゃないか。
こんな訳のわからない場所で訳もわからないクマに食い殺される最後なんて真っ平ごめんだ。
やがて咆哮を終えたクマが四肢の模様を一層に強く光らせる――時に閃いた。ほんの一秒ばかり時間が稼げる案を。
具体的には足元にあるクララの包み物をクマに投げつける。そうすれば反射的に払い落とすような仕草をするはずだ。そしてそれは壊れるにしろ転がるにしろ大きな音が発せられる。これでその音にクマが一瞬でも気を取られれば一秒は余裕で稼げる。
その瞬間にクララを連れて極力音をたてずに暗がりへと逃げ込む。
これでいこう、というかこれしか選択の余地がない。策と呼ぶには乱暴で付け焼刃にすらなってないが、何もしないよりはましだ。
そうと決まれば膳は急げとばかりに上半身を起こし、クララの包み物へと手を伸ばす。
しかし見ていたクララは私の考えを読んだのだろう。
「それに触っちゃだめぇーっ!!」
と、背後からクララが叫んだ。
クララには申し訳ないがこのまま投げ飛ばそう。この瞬間には私達の運命が掛かっているのだ。
左手で掴んだそれはクララが持ち運んでいただけあって見た目以上に軽い物だった。ただ妙に手に馴染むような感覚を抱いたのだが、気にするより早く投げつける。
それはルーン・ベアの頭を目指してみるみる近付くと、予想の通りにクマはそれに対し片手で弾いた――のだが。
その瞬間、まるで金属でも砕いたかような炸裂音がすると共に、ルーン・ベアの全身の体毛が逆立ちそのまま数歩後ずさった。
高くまで弾かれたそれも空を泳いでいたがやがてクマの背後へ着地すると、あの弦を弾くような不思議な音色をやたらに奏でながら地面を滑る。
――あれ?
予想以上に効果覿面でこっちが驚いた。
そのお蔭ですっかり呆けてしまい、私は完全に逃げるタイミングを逃してしまった。
クマはすぐに向き直って機嫌悪そうに大きく咆哮すると改めて私を睨む。
終わった、そう思った。
時間が止まったような空気に包まれてクマを見上げている時だった。
突然、私は何かに跳ね飛ばされて地面を転がる。
驚きながらも起き上がって元の場所を見ると、クマの前にはクララが立っていた。腰が治ったらしいクララが私を庇うが為に己が身をクマに差し出したと言うのか。
現状の把握すら儘ならずに見続けると、こちらを見て安らかに微笑むクララへ腕を振り下ろすクマ。
そのまま見取ることなど到底できる訳もなく、思わず顔を伏せて強く目を閉じた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
自分の発した悲鳴にも似た叫びが森に響く。
もう駄目だ、私はついにクララを助けることができなかったのだ。
ついさっきまでは結婚しようなんて冗談話をしてたのに。くちづけまでした仲なのに。初めての相手だったのに――
どうしてこんな……
「月詠さん、しっかりして!!」
やりようのない感情に包まれていた最中、クララの声が私を現実へと引き戻す。絶命したはずのクララがこんなにもハキハキとした声で私を励ますなんて普通に考えればありえない。
おそるおそる覚悟を決めて目を開くとそこには――仁王立ちをして堂々とクマを睨みつけるクララがいた。
クマは片腕を薙ぐように横へ払うと、クララは軽やかに後退してそれを避ける。
涼しそうな顔で余裕を見せるクララが嘲るようにクマへ微笑むと、クマは呻りながら丸太のような両の豪腕を振り上げ――クララ目掛けて力任せに大地へと叩きつけた。
大きな音と同時に地面は抉られて砂があちこちに飛び散る。
やがて砂塵が薄まり晴れてくると、そこには可愛く「ケホッ」と咳き込むだけのクララがいた。両手の平で首元を仰ぎ面倒臭そうに土煙を払っている。どうやら傷一つ負っていないようだ。
その後も豪快に攻め続けるクマだが爪は空を切るばかり。全ての攻撃を紙一重で避けるクララの姿には風情すら感じられる。
ひらり、ふわり、はらり――まるで落ち葉が風に吹かれるように。
「私はもう大丈夫。 だから月詠さんはそれを持って逃げて」
クマの猛攻をあしらいながら話すクララだが、ここに至ってなお包み物を気にしていた。
されども最早何も言うまい。
クマを相手取るクララに危なっかしさは感じられない。なればこそ恩人に言われたとおりに包み物を持って速やかに助けを呼びに行くのが最良かもしれない。
足早に動き出してそのまま包み物へと向かう。
「ありがとう、月詠さん……」
しかしクララみたいなシスターにあのような身のこなしができるとは。
舞踊みたいなやり取りに見惚れながらもクマを迂回して包み物の元に着く。これが何かは知らないが恩人への恩返しだと思えばお安い御用だ。
両手でそれを持ち上げると、さきほど抱いた妙に馴染んだような感覚の正体に気付く。
あの時は忙しない状況だったが今ならばこれが何なのかよくわかる。
しかしだからこそ私はこの包みの中身が非常に気になった。掴んでいる形状からすればおよそ推測に間違いは無いだろうが、ならばあの不思議な音色やこれを弾いたクマが痺れるように後退した理由がわからない。
「それ持って逃げて。 私は良いから……」
包み物に気を取られていたが、動き続けるクララの声からは意外にも覇気が失われていた。呼吸を乱して肩を上下させている。
考えてみればごもっともかもしれない。クララの動体視力は確かにアスリートも真っ青なレベルかもしれないが、そもそも運動神経と体力は別物だ。
今の状況から察するに、こんな夜更けでは私が助けを連れてくるまでの間、クララが持ち堪えるとは到底思えない。
だから私は承諾も躊躇いも無く、この包みを解くこととした。
「ちょっと月詠さん、何してるの! 早く……あなただけでも逃げてよ!」
苛立ちと呆れを交えたように叫ぶクララだが、むしろその言葉は私をこの場に留めるのに決定打となった。
やがてついに解かれた包みのその中には――
「綺麗――」
そこには三日月状をかたどる金糸の弦を備えた黄金色の弓があった。
大きさは私が普段使っている和弓とそんなに変わらず、構えればぼんやりとした光を纏い、枝垂れ花火のようなきらきらと輝く粒子を降らせている。
まるで小さくしただけの本物の三日月みたいだ。
備わる弦は蜘蛛の糸のように伸縮性と柔軟性に富み、それを引けば弓幹は大きくしなる。
そしてその弦を弾くとハープのような澄んだ音色を奏でた。
まるで神話の世界にありそうな弓に触れていると、窮地にもかかわらず恍惚としてしまう。
「お願いだからその『アルテミス』を持って早く逃げて!」
その言葉に見惚れていた心が引き戻される。
クマに踊らさせているクララは顔色が悪くなる一方で速やかな救済が望まれた。
『アルテミス』と呼ばれた弓を持つと、次いで近くに転がる自分の荷物へと駆け寄り紙袋の中から『破魔矢』を出す。その本数は三本。
私は一本だけ掴み取るとそれをアルテミスに添えて構える。
矢先が尖らずとも不安は感じない。アルテミスのしなり具合と引かれる弦の伸縮性から考えれば、十分すぎる威力で放たれるはずだ。
――この一撃で仕留める。
生き物なんて狙うのは初めてだけど大丈夫だ。流鏑馬だけでなく他の三騎射に似たような練習もしてきたから、不規則に動く的にだって当てる自信はある。
しかし気負いと焦りから緊張が生まれ、中々射ることができない。
手一杯そうなクララが私の構えに気付き、驚いた表情を見せるがすぐに頷いて表情を引き締める。まさかこの場に『矢』があるとは思わなかったのだろう。
クララは躊躇う私に力強く眼差しを向けると、誘うようにウインクをした。
――途端に胸の辺りが熱くなって体の底から力が湧き上がる。
アルテミスを握る手、矢と弦を引く手、双方に力強さと温もりを感じる。まるで誰かが一緒にいるような――弓道を始めた頃、お爺ちゃんが背後から一緒に引いてくれたようなあの感じだ。
決意改めて一層に強く弦を引くと、ついに私は威声と共に矢を放つ――
「破邪一閃!!」
掛け声と共に放たれた矢は光を纏って粒子を散らしながら流星のように直線を描く。
威声に反応したクマが案の定こちらを振り向くと、狙い通りに矢は眉間へと当たる。光る矢は砕けて磁器が割れたような音をたててきらきらと散っていった。
そしてルーン・ベアは弾かれたように頭を仰け反らせると、一緒に足元もふらふらとさせて四肢からは光る模様が消えた。
かろうじて私に向き直るも、ぐらりと前へ傾きそのまま倒れて大きく地面を揺らす。
――森は眠ったように静まる。
いつの間にか頬を伝っていた汗を優しく流れる微風がさらっていった。
やがてクララがこちらに来て私に寄り添うと、二人してじっとクマを窺う。
小枝を拾ってクマの鼻をつんつん突付くが、突っ伏したクマが目覚める気配は感じられない。
私達は目を合わせるなり勝利を確信すると飛び跳ねて喜んだ。
「「やったぁ~っ!!」」