二十九話「アテナ」
今朝の出発を間近に控えている私は、よく寝入っているクララを起こさないようにベッドから出ると、音をたてないよう静かな足取りで教会を出た。
山岳路を歩き、洞窟道を通り抜け、出口を越えれば麓の庭園地帯に出る。
途中すれ違った乙女達からは挨拶と送り言葉を貰い、普段よりもすっかり頭が覚めていた。
アルテミスのレプリカを両手で持ち、初めて会うアマゾネスのリーダーに程好い緊張感を抱きながら、約束の集合場所である正面門を目指す。
――荷物とかの準備は済ませといてくれるみたいだけど、本当にこの弓だけ持っていけば良いのかな?
昨日は皆が私とクララに気を遣ってくれたので、とても充実した時間を過ごすことができた。
遠征の準備をしてれたのはアテナとヴィヴィアン。指示を出したのはエリス様。道を示したのはナイチンゲール。スペシャルサンクスは乙女達。
立ち止まって後を振り返り、そびえる山岳の中腹にある教会へ感謝を込めて一礼をする。
――みんな、ありがとう。
そして前へ向き直ると、心を引き締めて「よし、行くか!」と自分に言い聞かせ、小走りに正面門を目指して行った。
正面門までは早朝のジョギングというほどの距離ではないが、顔を撫でる微風と口に入る新鮮な空気が冷たくて気持ち良い。
ペースを落とさすに進んでいると、やがて仮眠小屋とその向こうに人影が見えてきた。
シルエットからするに、アマゾネスが二人とローブを着た人が二人。それからこれからお世話になるであろう移動用の馬が一頭。
アマゾネスの二人は言わずもがな夜の守衛組で間違いない。ローブの二人、その内一人はきっとヴィヴィアンだ。つまり残りの一人が――アマゾネス長であるアテナだろう。
緊張と高揚が混じったような感覚を胸に抱きながら、一気にその場へと走って行った。
門前に到着すると若干の肩透かしをくらってしまった。
遠目に見えていた四人、その全員が私の知っている人物だったのだ。
まずはじめに、守衛をしていたアマゾネスの二人組みがシャマルとギブリだった。おそらくクララに次いで最も親交がある友達二人組。彼女達は私を見つけるなり足早に駆け寄ってくる。
「月詠さん、おはよ~!」
「ギブリさん、おはよう~」
「おはようございます月詠さん。 ん? どうしたんですか? なんだか気の抜けた顔してますよ?」
「あははははは……シャマルさんもおはよう。 二人の顔見てたら、なんだか安心して気が緩んじゃったみたい」
「それは良かった。 緊張しないでリラックスリラックス~」
「実はですね、月詠さんが今朝発つと聞いて当番を変えてもらったんです」
二人が私を見送る為にわざわざそんなことをしてくれたのかと思うと嬉しくてたまらない。
三人で照れ笑いをしていると、すっかり場が和んでしまった。
「おはよう、月詠さん。 今ちょっと手が離せないから、少し待っててね」
次にヴィヴィアン。
馬に装具と荷物を付けながら顔をこちらに向け、そのひっそりとした小さな声はシャマルとギブリを越えて私の耳に届く。
すると、何かを思い出した風な顔つきでシャマルとギブリも馬へと戻り、馬に荷物を括る作業を始めた。たぶん二人も手伝っていたのだろう。
私も何か手伝いたいのだが、さすがに見たことも無い装具やら何やらをこれから習えば余計に時間がかかってしまうので、大人しく待っていることにした。
そして四人目。
向かい合う馬のたてがみを撫でながら、その人は私を一目だけ見て微笑む。
ヴィヴィアンのお相手であるイケメン王子だ。亜麻色に近い金髪はうなじと耳たぶを僅かだけ晒し、影のある目鼻立ちが中性的で、長身痩躯のスタイルはコンパスのようでとても姿勢が良い。
王子は馬を構いながら頬をかいたり顔を俯かせたりと、絵に描いたような照れる仕草を見せていた。
さすがにこれだけの女性に囲まれれば、いくらエスコート慣れしてそうな王子といえども気後れするだろう。まあ原因を作ったのは私とクララだけど。
私も愛馬である彦星を世話していたので、馬の面倒を見るのが大変なことくらいは知っているつもりだ。だから王子にはちょっと申し訳ない気持ちが湧いてくる。
「ほら、早く自己紹介なさい」
ヴィヴィアンが肘で王子を小突いている。
そういえばヴィヴィアンの言う通りに王子とは何度か顔を合わせたことだけはあるが、言葉を交わしたことは一度たりともない。
一般的に男女間では殿方から名乗るのが礼儀かもしれない。でも体育会系の私としては、新参者のこちらから名乗るべきだと思ったので王子の元へと足を速める。
私が正面に立つと、王子は恥ずかしそうにはにかんだ顔を見せた。容姿とは違って随分とシャイな性格みたいだ。
「天乃神月詠と申します。 不束者ですが、幾久しく宜しくお願い申し上げます」
会釈と一緒に挨拶を済ませると、王子の隣にいるヴィヴィアンは申し訳無さそうに苦笑いをしている。
そのままヴィヴィアンに「ほらほら、あなたの番よ」と催促されると、王子は一歩だけ前に出ると私にお辞儀をして――
「はじめまして、私はアテナ・フリューゲル。 アマゾネスのリーダーです」
と、なんとも容姿らしからぬ内向的な感じの自己紹介をしてきた。
その言葉を聞いた私は、声と内容と二度の意味で驚かされる。
――お……女の人だったんだ。しかも今フリューゲルって言ったよね?
返す言葉を見つけられずに呆然としながら立ち尽くしていると、ヴィヴィアンがお腹を抱えて「ぷ……くくく」と笑いを堪えながらしゃがみ込む。
シャマルとギブリも空気で私の勘違いを察したようで微妙な顔をしていた。
しかし王子だけは――アテナ本人だけは、何も気付かないようで心底不思議そうに周りの人達の顔色に戸惑っていた。
「え? ちょっと何々? みんな何なの? ヴィヴィアン、私が一体どうしたって言うの?」
「くくく……あなた、本当にわからないの?」
「あーもう、だってさ、クララさんの魂約者でアルテミスの所有者なんだし、しかも弓の名手らしいじゃない。 いくら私だって緊張くらいするよ?」
「違うから! 違うから!」
「え~、それじゃ一体何だって言うの?」
「アテナってば本当に変なところで天然よね。 あなたじゃなくて月詠さんよ。 彼女が驚いた顔してるのに気付かないの?」
あのヴィヴィアンがこんな快活に笑うなんて。
今までは精霊とか妖精みたいな品の良い微笑みしか見たことがなったので、声を出して思いきり笑っている姿は初めて見る。
なんとなく厳かなイメージが強かったけど、今のヴィヴィアンは綺麗というよりも素直に可愛い。
「あ、わかった。 さては私がフルネームで名乗ったことでしょ? 確かにここでは訳ありの子が多いからね。 フルネームを名乗るのは――」
「んもう、ち~が~う~!」
いやそこも確かに含まれているけど。セカンドネームにも反応しましたとも。
でもそこは後で二人になったらじっくり掘り下げるとして、ヴィヴィアンが言っているのはそこでは無いだろう。
やがてヴィヴィアンは立ち上がって私の背後に周ると、そのまま「そ~れ!」と言いながらアテナの胸元目掛けて私の背中を押した。
「ちょ、ちょっとヴィヴィアンさん!」
視線はアテナの胸元に釘付けになる。
ゆったりとした黄土色のローブは着る者のボディラインを隠しているが、見るからにスタイルの良い麗人に限ってまさか絶壁の訳が無い。
そしてヴィヴィアンに押されるまま私の頭はアテナの胸元に押し付けられる。
「ヴィヴィアン、月詠さんに何するの」
「あはははは! 月詠さんわかった? アテナは王子様じゃなくてお姫様だから!」
顔が埋まって返事をすることができない。アテナは私の予想通りに立派で柔らかいクッションをしていた。
見た目も性格もスタイルも、全てがクララとは正反対である。
ヴィヴィアンの言葉でようやく理解したアテナは、溜め息を吐きながら私の肩を掴んで胸元から離す。
「月詠さん大丈夫? ヴィヴィアンが変なことしてごめんね」
「いえいえ、全然大丈夫です。 柔らかかったですし」
「そ……そう」
つい思ったことをそのまま口にしてしまうとアテナに微妙な苦笑いをさせてしまう。
傍らで立っているヴィヴィアンを二人してジト目で見つめるも、ヴィヴィアンは何処吹く風で笑いながらアテナの腕に抱きつく。
「あなたいっつもそうじゃない。 きちんとお話ししないと王子様に間違われるんだから」
「確かにそうかもね……。 髪、伸ばしてみようかな」
サラサラと微風に吹かれる前髪をいじりながらアテナがぼやくと、不意に長髪の彼女を想像してしまう。
うん、間違いなく似合うと思う。こういう中性的な麗人は長髪も短髪も似合うからインチキだと思うのは私だけだろうか。
美男美女がイチャイチャしているような光景を眺めていると、背後から肩を叩かれた。
「さて、月詠さん。 それじゃ馬の荷造りはお二方とギブリに任せて、月詠さんは仮眠小屋でお着替えをしましょうか」
後を振り返ると、白いシスター服を持ってひらひらと風に遊ばせているシャマルが立っていた。




