2.
♦ ♦ ♦ ♦
「――おい」
俺は着替えようと、運動場隣の更衣室に入ろうとして、足を止める。
「どうしたの宿主。着替えるんじゃないの?」
「その通りだ。じゃあなんで、てめぇは男子更衣室に入って来ようとしてるんだ?」
すると、ロサは小首を傾げて見せた。
「俺は男。お前は一応女。この意味が分からないわけじゃないだろ?」
「銭湯では小さなお子様は、親の性別に合わせた更衣室に入る」
「しっかり分かってるじゃねぇか!」
「だから、宿主も気にせず着替えるといいよ。私はその間、ずっと眺めてるから」
「そんなんだから、俺はお前に外で待ってろって言うんだ――」
俺としても、小さな女の子の前で着替えるのは――全く何も思わないわけでもないが、それでも、別に大して気にするつもりはない。しかし、こいつの俺を見る目は、どこか邪悪なモノを含んでいるように思えるため、俺の本能が警鐘を鳴らしているのだ。
ちなみに、似たようなことはこれまで何度もあった。トイレとか、風呂とか。少なくとも見た目はお年頃の少女なのだから、気にはするべきだと思う。
「宿主。なら、いい方法がある」
「――?」
「私も、そこで着替えれば問題ない」
「まずそれ以前にお前の着替えはない」
駄目だ、この守護精霊。まともに見えて、あらゆる口実で俺の近くから離れようとしない。
「――私、宿主の守護精霊。だから、離れるわけにはいかない」
「言っておくが、守護精霊は自らの魂の在り処である宿主から離れようとも、別に死んだりはしないからな?」
「私をその辺の汎百の守護精霊と一緒にしないでほしい――」
「何を――?」
「私は、宿主から5m離れると死んじゃう」
「汎百の守護精霊より明らかに劣っていると思うのは俺だけか?」
そりゃまあ、確かに全ての守護精霊に同じ特性が当てはまるとは言いきれない。彼らにはそれだけ、いまだ解明されていない謎がある。しかし、俺の寮の部屋の中で、ロサは5m以上の距離を取ったことは何度もあり、要するにそれはまごうことなく嘘である。
「宿主の、けち――」
「お前、けちの定義を間違えてないか?」
そう言うと、ロサは頬を膨らませて不満そうな顔をした。はやくも、返す言葉が見つからないらしい。やがて――、
「もういいっ。着替えで困っても手伝ってあげないっ」
ロサは俺に背を向けてむくれてしまった。――が、割と頻繁にこういうことは起こっているので、しばらくしたら機嫌が直っていることだろう。
俺は外にロサを置いて、ロッカーのところに着替えのジャージが入っている袋を置いて制服を脱ぎ始める。昔は服の下に体操服を着て登校したものだが、今となっては着心地が苦しいため行っていない。
「――?」
しまったな。着替えの入った袋の中身を見た俺は、思わず顔をしかめる。ジャージの下半身部分を置いてきてしまったようだ。
「――? 彩無、どうしたんだ?」
「――別に、何でもねぇよ」
俺は灰に、ぶっきらぼうにそう答える。なんとなく、こいつに忘れ物をしたと言うのが癪であったためだ。
「もしジャージ忘れたんなら、俺の予備を貸すが?」
「お前のはどう考えてもサイズが合わねぇよ」
筋骨隆々で背の高い灰 世詩也のジャージは、見るからに平均的な男子高校生のサイズである俺には合わない。あんなズボン履いたら、胸の下まで埋まってしまいそうだ。
「ちょっと出てくる」
「へあ? お、おう」
こう言う時、学校の寮に住んでいると楽だ。忘れ物を取りに行くことになっても、許可さえもらえばすぐに持ってくることができる。
俺はすぐに制服を着なおして、更衣室を出る。あと25分もある。ジャージを持ってくるには充分な時間だ。
「宿主――?」
「ちょっと寮に忘れ物取りに戻ってくる」
「――っ、私もついてく」
「好きにしろ」
男女をわきまえる場でなければ、守護精霊であるこいつが着いてきてはいけない理由などない。更衣室を二人で後にし、教師に許可を取ってから寮に戻る。
――が、
「――無い、な……」
寮に戻ってジャージのズボンを探すが、どこにも見当たらなかった。
いつもジャージは、クローゼットの端にあるボックスの中に、夏場に使う半袖の体操服と共に入っている。しかしながら、モノの見事に予備も含めたジャージの下は見つからなかった。
と言うか、昨日準備したときには確かに袋の中にいれたはずだった。ボックスの中に予備が残って居たのも確かに見ている。よって、入っていないと言うのは明らかにおかしい。
「…………」
普通で考えれば、何者かが俺の寝ている間に持ち去ったと言うのが妥当だろう。しかしながら、ただの男子高校生のジャージをわざわざ忍び込んで持って行くヤツはいないだろう。大体、百歩譲ってそんな奇特な奴がいるとしても、夜間はぱっちり目覚めているロサがいる。だから、気が付かないはずが――、
俺はふと思い、ロサの方を振り返った。
「――っ」
まて、なぜ今顔をそらした。
「ロサ――」
「しっ、知らないっ、ジャージなんて知らないっ」
「まだ俺は何も言ってねぇよ」
「み、見れば、何さがしてるか分かる、よ――っ」
確かに、そう言われればそうかもしれない。しかし、今の言葉で確実に動揺したのは、恐ろしく分かりやすかった。まったく、どういう意図の元にそんな事をしたのか。
「ロサ、ジャージの場所がどこにあるか教えてくれねぇか?」
しかし、ロサは何度も首を横に振った。
「だ、だって、絶対怒るもん」
「正直に言ったら、俺は怒らねぇよ」
「――本当?」
「ああ、約束する」
「え、っとぉ、私のスカートのな――」
俺はロサの頭にげんこつを食らわした。手で押さえていたのか、スカートの中からジャージの下が落ちてきた。
まったく、このアホ精霊は――ッ!
♦ ♦ ♦ ♦
「おーっ、ようやく来――どうした?」
「何でもねぇよ」
俺は適当に灰に悪態をつき、列の自分の場所に割り込んだ。
既にほとんどの生徒が並んでしまっているところへ遅れて到着すると言うのは、どことなく恥ずかしいモノだと、その時俺は思った。あからさまに拗ねた顔をした子供が隣にいるときは、なおさらだと思う。
「それでは、これより競技会を始めたいと思いまぁす。各生徒の皆さんは、事前に回る順番が伝えられていると思いますので、そちらへと移動してくださいねぇ」
男女混合の生徒の点呼が終わってから、赤いジャージを着用した天摩教師が前に立ち全体にこれから行うことを伝えてくる。振り分けは、先日手渡された番号によって決まっており、今前で言われた通り、一つの競技が終わったら隣の競技へと移ることになっている。
「さて、行くぞ、ロサ」
「――ぷいっ」
ロサはまるで反抗期の子供のように、不服そうな態度で顔をそらした。確かにジャージを隠すなどと言う行動はワケが分からなかったが、殴ったのは少々やりすぎだったかもしれない。
何しろ、これから行われる競技会は守護精霊が前提のモノだ。自身の精霊との交流を深めるだけでなく、その能力を確かめると言う意味を含んでいるため、働こうとしなければ当然意味がない。
「俺と彩無は、最初は障害物走からだったな」
「灰、お前もか?」
障害物走の場所に並ぼうとすると、一足先に灰が並んでいた。こう言うのにやる気を出す奴は多いわけで、ロサの歩調に合わせてたどり着いた俺は、まっすぐ向かっても、当然少しで遅れることになる。
「お互い、頑張ろうぜ!」
「お前と一緒だとやる気失せるな」
「なんでだよ!?」
悲壮な顔をする灰を尻目に、俺は今ひとたびロサに目を向けると視線が合った。――すぐに目をそらされてしまうが。
「次、どうぞ!」
「お? 俺の番か。よもぎ、今日はよろしく頼むぜ――ッ」
競技担当の教師に呼ばれ、ハードルや平均台などの設置された、50mを三重に折り返すコースのスタートラインに灰は立つ。筋骨隆々の肉体に体操服がぴっちり張り付いている。一人だけ、明らかに高校生らしからぬ体つきであるため、まるでこいつのみ今から軍の訓練を行おうとする隊員みたいだ。
――その一方で、その肩には明らかに大きさにそぐわない小さなハムスターが一匹。この場に立っているだけでも違和感があるのに、ことさらそれに拍車をかけるように、ミニチュアの体操服を着こんでいる。……不覚にも、あのよもぎの姿は可愛いと思った。
「位置について。よぉーい――……」
「――ッッ、」
「ドンッ!」
「――ッッッ!!」
合図と共に、灰が全力で走りだす。大柄な体躯のこいつが駆けだした瞬間、周囲で小さく驚嘆の声が上がった。
「ほっ、ほっ、ほっ」
と言うのも、筋肉の塊でとてつもなく大きく感じるのに、動きが鈍いと言うことは決してなく、とてつもなく機敏かつ俊敏な動作を灰が見せていたからだ。その上、巨体でそんな素早い運動をするモノだから、離れた位置で見ていてもとてつもない迫力を俺達は感じた。
「ふぅ――……って、なんだ? なんでこんなに静かなんだ?」
モノの見事に、俺達は灰の障害物走に見入っていた。守護精霊とか関係なしに、素晴らしいと言う他ない。教室で窮屈そうに自分の席に納まっている姿は、伊達ではなかったようだ。
「あ、えっと――守護精霊の力は感じられましたか?」
「え? あー、うーん――正直、分かりません」
「でしょうね――」
教師も、そもそもの灰の基本スペックに圧倒されているようだった。守護精霊の力無しに、ここまでの動きを見せた人間を見たことが無いのだろう。むしろ、灰本人が単体で守護精霊の補助有の人間と同等の力を発揮していた可能性も――。
「え、えっと、次どうぞ!」
頭の中でいろいろ試行を巡らせているうちに、今度は俺が呼ばれた。別に見世物というわけではないのだが、あんな特殊工作員みたいなやつの後だと、非常にやりにくい。
まあ、結果はロサの活躍次第か。
「行く、ぞ? ロサ――」
「ぷいっ」
「…………」
俺はロサに呼びかけるが、綺麗に顔をそらされてしまった。マズい。これはマズい。完全に、働こうと言う気が感じられない。
「大丈夫ですか? 準備が完了されたら、名前をお願いします」
「あ、はい――」
俺はスタートラインに立ち、教師に名前をつたえる。俺の方は、いつでも準備はよかった。しかし、ロサは完全に拗ねてしまっていて、一緒にラインに立とうとすらしない。
「位置について。よぉーい――……」
「――ッッ、」
「ドンッ!」
「――ッッッ!!」
仕方ないので、俺は自分ひとりでこの場を乗り切ることにする。別に、今回のこれが成績にかかわってくるわけでもないので、不真面目にでもしていない限り、注意されることはない。そもそも、これは生徒が守護精霊がいかなる力を持っているかを、そしてその使い方を、自分で調べるための行事なのだ。
あいつの能力は既に見ている。だから、今更こんなものは大してやる意味がないのだ。
これくらいの障害物走、俺一人でクリアしてやる。