1.
……――つるくん。――みつる君。
……――?
遠くで、俺を呼びかける声が聞こえる。聞き覚えのあるその声は、俺の記憶の彼方にあるモノで、十年以来に聞くその声は、あの時と同様にやたらとはずんでいる調子だった。
「みつる君、起きて――もうそろそろ、暗くなり始めるよ?」
「ん――……う、んん――?」
俺はまどろみ闇の中から、ゆっくりと目を開ける。自分の意志で行っているようであったが、一枚のフィルムが垂れ流されているかのようで、全て勝手に行われていた。
――そこには、顔だけノイズの入りこんだ少女がいた。
「おはよう。――と、言うには、結構遅いかな。このあたりで帰らないと、おじいさんたちに迷惑かけることになっちゃうよ?」
「う、ん――ねえちゃん……」
幼い声でそう答える俺は、彼女のその姿には言及することなく身を起こす。それもそのはず、本来の彼女の顔は、幼いころの俺はちゃんと知っているからだ。
だが、俺がその少女の姿で確認できるのは、十二歳前後であること。そしてこちらもところどころ不鮮明で、時には全身にノイズが走るが、その全身を真っ黒なゴシックドレスで覆っている程度でしかなかった。――まるで、何かに削り取られたかのようだ。
「みつる君、まだ眠そう。お水持ってきてあげましょうか?」
「――いいよ、ねえちゃんすっころぶし」
俺は、彼女の膝の上から頭を上げる。
「ひ、ひどいよみつる君!? 私、そんな風に言われる程毎日転んでないよ!」
「きのうおれがみてただけでも7かい、きょうはすでに5かいころんでるぜ? ねえちゃん」
「ま、まだ2回少ないよ!」
――そうだった。実に懐かしいことであるが、この目の前の少女は、いつも転んでばかりいた。廊下で、道路で、時には階段でさえも。いつも誰かが付いていないと、危なっかしくて仕方がない。
「さて、と――よっこいしょ……お、あ、たっ、ひゃっ!?」
「うわっ、ねえちゃ――ぶふっ」
――早速やりやがった。立ち上がろうとして、少女はバランスを崩し俺を押しつぶすように転んでしまう。小さな胸部だが、当時六歳だった俺にとっては大きな壁のようだった。
花のような柔らかな香りが、俺の顔面を覆い尽くす――。
「う、うう――」
「は、はやくどけってねえちゃん、おもい――ッ」
この目の前の少女は、別にやたらと注意力が散漫というわけではなかった。いや、時折そう見えることはあったが、ドジ、とまで言うほどではない。
この真っ黒な姿の少女は病弱だった。そのせいで、体力はないし足腰は弱い。どこかの資産家の娘と言うことらしいが、ずっとその別荘(それでも俺にとっては屋敷のようだった)にて療養を続けている。
俺がそんな少女と知り合ったのは、本当に偶然だった。その日は偶々具合がよかった彼女がお気に入りの薔薇園で過ごしていたところに、俺が誤ってボールを投げ込んでしまったのだ。
そんな出会いのきっかけがあって、こんなド田舎で互いに年の近い友人が居なかったこともあり、当時の俺と少女は、ほぼ毎日と言っていいほど、一緒に遊んでいた。
今日のこの日も、その薔薇園で俺達は遊んでいる。
「重くありませんよーっだ。私、これでも同年代の娘達より、ずっと小柄なんだから」
「どっちにしろ、おれよりもでけぇじゃねぇか。あーあ、おれもはやくおっきくなりてぇなぁ」
「みつる君なら、すぐになれるよ」
「あしたか?」
「そ、それは流石に急だけど――そうだね、今の私と同じくらいの歳になったら、多分ずっと大きくなってると思う」
「――ねぇちゃん、なんさいだっけ?」
「私は14歳だよ」
「あと8ねんかぁー、なげぇなぁ」
「ううん、8年なんてあっという間だよ?」
「だといいんだけどなぁ。――そのころになったら、とうちゃんやかあさんみたいな、りっぱなけんきゅうしゃに……」
「それはちょっと、気が早いんじゃないかな――もう後、10年くらい必要かも……」
その少女は、俺の頭を苦笑いしながら撫でてくる。俺より高い身長で。
「――そんなにまてねぇよ」
「え?」
「だって、ねぇちゃんはからだがよわいんだろ? はやくしないと、ねぇちゃんは――」
彼女は今まで何度も死にかけていると言う話を聞いたことがあった。だから、もし今度同じようなことがあったらと思うと――当時の俺は気が気でなかったと思う。
それだけに、両親のような守護精霊の研究者に早くなりたいと思っていた。守護精霊は、まだまだ不明な点の多い存在だ。それだけに、彼らの力を借りることができれば、彼女の体を治してあげることができるかもしれないと思っていたからだ。
「ふふふ、そんなに焦んなくても大丈夫だよ」
ねぇちゃんは、上品に微笑んだ。幼い俺はそれにどきりとするが――当時の様子を見る今の俺は顔が確認できないためどうにも言えない。
「私はそう簡単に死んだりはしないよ。なにせ、みつる君がこの先、どんなヒトになっていくのかがとっても楽しみだから」
ねぇちゃんは、優しく微笑んで俺の頭を抱きしめた。やや青白くも、陶器のように美しい手が、穏やかに俺の後頭部を撫でる。
「だから、私は絶対にそれまで死んだりしない。それで、あなたの見つけ出した方法で助かって見せる。そのためには、何としてでもそれまで生きてなきゃ!」
俺の人生で最初の友達とも言えるねぇちゃんが、胸の前で拳を作る。十五歳に見えないその体躯で強がりながら。
♦ ♦ ♦ ♦
「げほげほっ、げほっ――」
「ねぇちゃん、しっかりしろっ! だいじょうぶかッ!?」
部屋に充満する煙の中、幼い俺は自分よりも体の大きい少女を支えながらも励ました。彼女は口元を押さえながら膝をつき、大きく咳込んでしまう。
幼い俺の中で、今の俺は顔をしかめる。この日、この別荘と言う名の屋敷で、火事が発生した。出所は倉庫だった。古びた配電が、埃が原因でショートを起こして近くの木箱に火をつけ、気が付いたら手が付けられない状態になっていたことを後で聞いた。
「ねぇちゃん、ほらっ、立って――ッ」
「う、ん――」
俺は何とかねぇちゃんを立たせ、その場所からの脱出を試みる。火は屋敷中に燃え広がっていると言うのに、ねぇちゃんの部屋から出ることすらできていない。
この日、俺は再び倒れたというねぇちゃんの元に、お見舞いに来ていた。そんな中、突然起こった火事。体の具合を考え動かしたくはなかったが、今はそんなこと言っていられない。
「そ、そうだ、ねぇちゃん、ふく! ふくのそでをくちに!」
「げほっ、うん――」
煙を吸いこまぬよう、俺達はそれぞれ自分達の袖でマスクを作り、部屋を出る。これでも、屋敷には頻繁に出入りしているため、道順はそれなりに頭に入っている――ハズだった。
扉を開けた先は、真っ暗だった。
「――っ、なんだ、これ……ッ」
「――っ、……」
廊下中に煙が充満し、俺達の視界はそれに覆われてしまっていた。これでは、ほとんど前が見えない。その上、目に激痛がはしる。
「――落ち着いて、みつる君……」
「ねぇちゃん――」
「もっと姿勢を低くして、息の量は最低限にして――」
「う、うん――」
幼い俺はねぇちゃんの言う通り、身をかがめる。すると、少しは視界がマシになった。目が痛いのは相変わらずだったが。
そうして、俺達は出口を目指して進んだ。ねぇちゃんの部屋は三階。しかも、出口からは遠い位置である。脱出が困難を極めることは明らかだった。
「みんなはいったいどこへ――」
「…………」
こんな火災が発生していると言うのに、助けに来るヒトたちは誰もいなかった。この屋敷には、常に最低三人の使用人が控えているはずなのに、一人として様子を見に来るヒトはいない。
「き、きっと、皆さんは助けを呼んでるんだよ――だから、安心して?」
「う、うん――」
ねぇちゃんの声に俺は励まされ、心細さから目を背けることに成功する。そうだ、ここのお屋敷にヒトたちは皆優しいヒトばかりだ。きっと、このままでは奥にいる俺達を助けるのが難しくて、別の方法を考えているに違いない。
違う。そんなことはあり得ない。
今現在の俺は知っている。あの時、屋敷に確かに使用人はいた。規定道理、三人の彼らはここに居たのだ。しかし、火事が起こるや否や、全員逃げ出してしまっていたのだ。
しかも、彼らは俺達が屋敷の中にいることを知っていた。薔薇園や外に行くには、使用人の詰所のようなところを通らねばならず、病弱なねぇちゃんが何かあったときのために、電話が通じていて、そこには常に誰か一人いるようになっていた。
電話は詰所に通じない。回線が火事によって切れてしまったのかもしれないと、ねぇちゃんは言っていた。あの時の俺はねぇちゃんの言葉を信じていたが、今になってみればそれも怪しいモノだった。なにせ、使用人たちは既に逃げていたであろうから。
「――っ、熱……ッ」
「こ、こっちはだめだ、ねぇちゃん――っ」
時間をかけて階段を降り、一階に降りた俺達は、最短ルートで出口へと向かった。しかしながら、そこには炎の大蛇が横たわっており、どう頑張っても通れる気はしない。
「裏口、裏口から――げほッ、げほッ」
「あ、ああ――」
先ほどから、ねぇちゃんの衰弱が激しい。元々体力が無いと言うのは分かっていたが、それにしたって様子が変だ。
額には暑さによるもの以上の脂汗が浮かび、顔は煙の中ですら分かるほど青ざめ、支えている彼女の体も、いつにも増して重く感じる。
…………。
俺はねぇちゃんを支えながら、裏口の方へと回る。途中、窓を割って外へと出ると言うことも考えたが、息も碌に吸えず、そのせいで力を込めることすらできない貧弱な俺達では、それもかなわなかった。
そうしてかなりの時間を費やして逃げ道を探していたが、裏口にも火の手は回ってしまっていた。そもそも、最初の時点でかなり火が広がっていた様子があり、通れる道も限られている。
「みつる、君――薔薇園……」
「薔薇園!? 薔薇園に行けばいいのか!?」
ねぇちゃんが俺の隣でこくりと頷くのを見て、俺はまた道を変え、いつも遊んでいる薔薇園へと向かった。
薔薇園に、外への出口はないはずだ。しかし、きっとねぇちゃんは考えがあって、俺にそう指示を出したに違いない。そう思い、俺はいつものルートを通って薔薇園へと向かった。
薔薇園やそこへ続く道は無事だった。屋敷との渡り廊下が燃えるモノで構築されていないこの場所なら、火の手もさすがにここまでは回ってきていない。
高い柵のせいで外に出ることは難しいが――ここならばいくらでも助けを待つことができるだろう。
「や、やったよねぇちゃん! ここなら、しばらくは――」
「げほっ、ごほ、がほっ――ッッ」
ねぇちゃんが口を手で押さえて、大きく咳こみ始めた。
「ねぇちゃんッ!? ねぇちゃんだいじょうぶかよ!?」
「う、ん――私は、大丈夫……」
「――っ、ねぇちゃん、ちが……」
少女の押さえた口から、赤い血液が滴り落ちていた。その量は、尋常ではなく、土の地面にぽたりぽたりとシミを作る。
「すこしも、だいじょうぶじゃ――」
「い、いいか、ら――もう少し……」
ねぇちゃんは弱々しい足取りで、それでも半ば強引に進もうとする。俺も、そんなねぇちゃんを支えるために、移動に合わせ歩きだした。
――そうして、俺達は黒薔薇が咲いている場所へとたどり着いた。
「――……」
「――で、ねえちゃん、あとはなにをすりゃいいんだ?」
「ここで、いいよ」
そう言うと、ねぇちゃんはゆっくりとその場に腰を下ろす。体を支えていた俺と共に。
「――綺麗、だね」
「ねぇちゃん、そんなことしてるばあいじゃ――おれ、どうすれば……っ」
ねぇちゃんは、ぐったりとした様子でしなだれかかってくる。一体突然、どうしてねぇちゃんが苦しみだしたのか、俺にはわからない。このところ、少し元気ないなとは思っていが、その前まではとても元気だったのだ。
「ここで、私と一緒にいてくれればいいよ。それ以外、私には何も――げほげほっ、がっ」
咳き込んだねぇちゃんの口から溢れた血が、黒薔薇に付着して赤黒く染める。なぜだ、どうしてこんなことに?
思えば、今屋敷の出入り口は火が完全に回ってしまっているが、早くに気が付くことができたのならば、今頃外へ脱出出来ているのではないだろうか? そして、それができていたならば、ねぇちゃんは助かったのではないか?
「み、つる、君――」
「――っ」
「ごめん、ね――?」
「な、なんだよ、なにあやまってんだよ――っ」
「嘘、ついてた――私、本当はもう、時間ないこと、知ってたの……」
ねぇちゃんは申し訳なさそうに笑って見せた。だが、その表情も無理して作っていて――、
この時初めて、ヒトに裏切られたということを知った。
「今まで、何とか薬で、引きのばしてたけど――そろそろ、限界だった、のかな……?」
「そんな――」
ねぇちゃんが、たびたび薬を服用していたことは知っていた。薬を飲むということは、それがなくては体に不調をきたすということ。もし俺が、あの普段は子供を省みない両親たちに死に物狂いで懇願したら、何らかの手を講じてくれたかもしれないのに。のんきに将来なんか見ていたから――、
「そんな、顔、しないで――? この先が長い君を火事から助けることができた、私はそれで、充分満足なんだから……」
「ふ、ふざけんなよねぇちゃん、おれにたすけられるつもりなんだろ!? それまでしなないんじゃなかったのかよ! ここでしんだら、ねぇちゃんがうそつきになっちまうだろ!?」
「いいよ、嘘つきでも――あなたが、例え一時でも、喜んでくれたなら……」
何でこのヒトは、こんな満身創痍の状態でも、笑っていようとしているのか。それができるのか。――ただ一つ分かってしまったのは、それが俺の見る、彼女の最後の表情なのだろうということだ。
「一つ――」
「な、なんだねぇちゃん、なんでもいってみろ!」
「一輪、その薔薇、を、頂戴――」
「――っ、わかった……ッ」
どうすればいいのかわからない俺は、ねぇちゃんの言葉をしっかり聞いて、その指示に従うことしかできない。俺は言われるがまま、目の前の黒薔薇らか、一輪一番よさげな花を取ろうとする。
「――っ、たっ……」
薔薇の棘が指に刺さったが、俺はそれにも構わず花を取った。一番大きくて、一番艶やかで、美しい黒薔薇だ。
「頭に――」
ねぇちゃんの意図をくみ取り、その言葉を言いきる前に俺は彼女の髪に一輪の黒薔薇を刺した。それは飾られた途端に髪飾りとなり、真っ黒なゴシックドレスに身を包む色白の少女の美しさに適合する。
「みつる君――」
「つぎは、つぎはなにすりゃいいんだっ!」
「私、きれい、かな――?」
「ああ、キレーだよ! せかいじゅうでいちばん、どこのだれよりもキレーだ! おれのおよめさんにしたいくらいだ! いや、むしろいますぐけっこんしたい! ねぇちゃん! いや、あやね! やこう あやね! おれとけっこんしてくれ!」
幼い俺が、数少ない語彙を絞り出して、全力でその美しさを褒め称える。過去を見る俺には彼女の全体像をノイズのせいで知ることができないが、何故だか、「ねぇちゃん」がとても綺麗であることはとてもよくわかった。
柔らかく優しい、最後の微笑みと共に。
「――ねぇちゃん……?」
俺は腕の中の少女に呼びかける。
「ねぇちゃん――おい、ねぇちゃん……ッ」
何度も、何度も呼びかける。
「ねぇちゃん、おい、しっかりしろ、ねぇちゃんッ!」
何度も、何度も――しかし、それに対して返事が帰ってくることは、二度となかった。
――もし、
もし俺が、この時彼女の願いを叶えなかったら、「ねぇちゃん」は、まだ生きていられたのかもしれない。
俺が――ねぇちゃんを、殺した。




