第七話
「――聞けっ!!」
メグルが振り上げた拳を地面に叩きつける。
凄まじい衝突音と共に地面が陥没し、その衝撃がびりびりと地面を揺らした。
「えっ!?」
その出来事に驚いたのは、誰でもない本人だった。
自分の力でこんな出来事が起きるわけがないと、理解が追いつかずに放心する。
数瞬ののちに我に返り、辺りを見回して痩せた男の存在を探した。
だが、周りに広がっていたのはあの暗い空間ではなくのどかな雰囲気。ビルなどの建物は見当たらず、畑や林が見える。まるでどこかの田舎のようだ。
周囲を見回してもあの男の姿はなく、代わりに彼女のことを見ていたのは数人の男達だった。
目を見開いて茫然としているところを見ると、先ほどのメグルが地面を揺らしたシーンを見ていたのかもしれない。あるいは……。
男達の来ている服はみすぼらしく、その手には鍬や石包丁が握られていた。
その集団の真ん中に立っていた男が、手に持っている鍬をメグルの方に向けながら恐る恐る声をかけてくる。
「あんた、なにもんだぁ?」
その声は不信感と警戒心で満ちており、下手な回答をするわけにはいかないとメグルは唾を呑む。
「私は――」
と、そこまで口から出たところで言葉が止まってしまう。
状況も把握できていない彼女にそれに答える言葉はなく、そこから先が出てこないのだ。
メグルの様子に、男は訝しそうな目を向ける。
その視線を受け、メグルは慌てて言葉を紡ぐ。
「か、風岡メグル、日本人よ! 怪しいものじゃない……わよ?」
徐々に尻すぼみするその言葉に、彼女はますます不審がられる。さらに、別の男は石包丁を片手にジリジリと彼女に向けてにじり寄ってきた。
「よそもんか? こういう時は村長んとこさ連れて来いって言われとるでついてきてもらうぞ。」
「わかったわよ……。」
何を言ってもどうしようもなさそうであるためメグルはひとつ息を吐き、男に対して両手を上げるのであった。
前後を農具を持った男で挟まれたメグルは、溜息をつきながらも状況を把握しようと辺りを見回す。
彼女の周囲に広がるのは間違いなく田畑である。多くの人が農具などを手にそれぞれの作業に勤しみながら、メグルの方を不審そうな目で見ている。
一見すると日本の田舎のようにも見えるが、衣服などが見知ったものとは異なっている。
まるで歴史の教科書で見た昔の農耕民族の服のようだ。
「いくら田舎でもこんな遺物みたいな服は着てないわよね。またあたし変な場所に……?」
呟きながら周りを観察していると、後ろの男がおとなしくしろと言わんばかりに鎌をむけてきたため、メグルは黙って後ろに続くしかなかった。
10分ほど歩くと、彼女の目に飛び込んできたのは村だった。
家が立ち並んでおり、人の姿がちらほらと見える。
「村長んとこはもう少し先だ。 おとなしくついてくるだよ。」
男が念を押すようにそう言い、メグルを村の奥の方へと誘導する。
彼女の目に入ってくるのは、立ち並ぶ家々だ。
だが、その家もやはり彼女の見知ったものではない。簡素な木造で、茅のような素材の屋根だ。
やはり、教科書の中の世界に入ってしまったようで現実感がない。
疑問符を頭に浮かべながら歩いていると、ひとまわり大きな家の前で男が足を止める。
「ここが村長んとこだ。 あんたをどうすっかは村長が決める。」
男が目で入るように促したため、メグルはその家の門をくぐる。
家に上がると、ひとりの老人が座っていた。彼は、メグルの方を見ると目を細めて警戒した表情になる。
「座りんさい。」
メグルがゆっくりと老人の目の前に腰を下ろすと、村長と呼ばれたその男はメグルに問いを投げかけてくる。
「お前さんはどこの村のもんだ。面妖な服を着ておるからこの近くのもんではないな?」
メグルはその言葉に応えることができない。しかし、なにか言葉を返さなくてはまずいと考えると、言い訳じみた解答をする。
「あー、えっと、あたし、風岡メグル。遠くから旅をしてて……。偶然ここにたどり着いたの!」
苦しい言い訳だと思いつつも、作り笑顔を浮かべながらメグルは看破されないことを祈る。
村長の鋭い眼光がメグルを値踏みするように貫く。
メグルにはとても長く感じられた沈黙の時間は、数秒で終わった。
村長はニッと笑みを浮かべ、先ほどまでとは異なる敵意のない声でメグルに語り掛ける。
「いいだろう旅人よ。我らサリダ村はそなたを歓迎しよう。」
「えっ、あっ、ありがとう。」
こんなにもあっさりとこの理由が通るとは思っていなかったメグルは戸惑いながらもお礼を言う。
そんなメグルを見て頷くと、村長は彼女の背後に控えていた男に目配せをした。
「おい、今夜は宴だ。客人をもてなすぞ!」
村長によるその言葉に男たちは顔を見合わせながらも頷き、その準備に取り掛かるのであった。
「少し村でも見回りながら待っとってくれ。」
そう言われるがままに、彼女は村を少し見て回る。
村に立つ家々はやはりすべてが歴史資料館で見るような古い農村の家であり、家畜を飼っているところもあるようだ。また、ほぼすべての家に木製の農具が置いてあり、自給自足で生活していることがうかがえた。
1時間ほどたって少し日が傾いたころに、メグルは男に声をかけられる。
「村長がお前さんを呼んでこいってよ。」
どうやら宴の用意ができたようで、男に促された方へ進むと村長の家の前に多くの村人が集まっていた。
夕日が辺りを照らす中、村人たちはメグルに視線を向けつつも、彼女と目があうと顔をそらしてしまう。
そんな村人たちの中心にいた村長が、メグルを見つけて手招きをしてきたため彼女は彼のもとへと向かう。
メグルが村人の輪の中心に入ると、村長が音頭をとり始める。
「皆、旅人がこの村に訪れた! この運命に感謝し、彼女をもてなそうではないか!!」
その言葉に村人たちはワッと沸き、それぞれが小さなおわんで飲み物を酌み交わす。
しかし、不信感が拭い去れないのか彼女に話しかけてくるものはいない。
どうしたらよいのかわからずメグルが戸惑っていると、その横に村長が飲み物と食べ物を持ってやってきた。
「この村の皆は宴が好きでな。」
そう言いながら差し出されたものは、小さな楕円状の白い粒。メグルが日常よく目にしていたコメとほぼ同じような穀物だ。
「これは我が村の主食だ。ささ、食べてみんさい。」
穀物のたくさん入った皿を受け取り、メグルは困惑する。
「これ、食べるの……?」
「穀物は苦手かね?」
「いや、そういうことじゃなくて――」
彼女の手の中にある穀物は、紛うことなく“生”であった。
メグルは難しい顔をして手元を見つめる。コメに見えるものを生で食べるなんてありえないとい思考と、ここではこれが普通だから食べたら意外とおいしいのかもしれないという思考が彼女の中をグルグルと回る。
コンマ数秒でその思考を止め、言いよどんだ言葉を飲み込んで彼女は目の前にある生の穀物に手を伸ばす。
「い、いただきますっ!」
その白い粒をつまんで手に取り、左手を下に添えながらゆっくりと口元へ運んでゆく。口を開いて穀物を口に入れると、彼女は目を見開いた。そして、それをじっくりと噛む。カリッ、カリッと音が鳴り、彼女の口の中にジワジワと穀物の味が広がら……ない。
「味しない……。パサパサ……。 マズイッ!!!」
心の叫びがすべて叫びとなって漏れ出した。
唐突に大声を出したメグルに、村長は目を白黒させる。
「く、口に合わなんだか……?」
恐々と声をかけた村長の方にゆらりと振り向くと、彼の胸倉をガシッと掴んでメグルは彼に言葉を浴びせかける。
「あんたたちねえ、コメを生で食べるって正気なの? 馬鹿なの!? そもそもコメの魅力っていうのはあの炊飯器を開けた瞬間に蒸気と一緒にフワッと漂ってくる炊き立ての香りから始まるのよ! そしてその後しゃもじで優しく、それでいて大胆に激しく。解きほぐすように混ぜて茶碗によそう。そして、口に入れた瞬間を想像して期待を高めて席につく。そしてその白く輝く山をじっくりと見てから箸をとってひとつかみ。口に入れたら駆け抜けて行く芳醇な匂いを楽しんだ後に、炊き立ての柔らかさを感じながらじっくりと噛みしめるの。そうしたらだんだん口の中に広がるコメ本来の甘さに喜びを感じて飲み込む。それがコメの楽しみ方なの! それをよりにもよって生!? 味薄い! パサパサ! なにも薫ってこない!! こんな仕打ちはないわ! コメの魅力が半減……それ以下よ! あんたたちはコメを冒涜する悪魔だわ! このコメ殺し! 日本人の風上にも置けないわね!!」
そもそも今食べているものはコメではないが、彼女の脳内ではコメに変換されてしまったようだ。彼女の心にある長らく食べることのできていないコメへの思いが、このあまりにも無味乾燥な穀物によって爆発してしまったのだろう。そして、目の前にいる彼らは日本人ではない。
唐突な客人の剣幕に、村人たちは先ほどまでの喧騒を忘れたように黙り込み、辺りが静寂に包まれる。
辺りの静けさによって我に返ったメグルは村長の胸倉をつかんで持ち上げてしまってることに気がつき、慌てて下ろす。自分が村長を片手で“持ち上げた”という事実に首を傾げて、メグルは右手をじっと見つめる。
そんなメグルの仕草は気にせずに村長は咳をしつつ、苦しげな息を整えて尋ねる。
「なにか、気に障ることが……?」
「そうじゃないの、ごめんなさい。ちょっとしたホームシックみたいなもので……。ねえ、ここでは穀物を炊いて食べないの? あたし、穀物に火を通して食べないことに驚いたんだけど……。」
メグルがそう問うと、村長がその言葉に驚いて問い返してくる。
「おまえさんの村では火を通すんか!?」
「……やってみせるからなんか鍋みたいなものと火を用意して!」
このまま話していてもお互いがカルチャーショックに襲われるだけだとメグルは鍋と火の用意を要請する。
すると、村人のひとりが家から土鍋を持ってきた。
「計量はできないから勘でやるしかないわね……。」
ブツブツとひとりごとを言いながら、メグルは穀物を水場で研ぎ土鍋に入れ、水で浸す。
そんなメグルの行為は村人から見たら大切な穀物への暴挙であり、怪訝な目を向けつつひそひそ話をしている。
「はじめちょろちょろ中ぱっぱ……。赤子泣いても蓋とるな……。」
呪文のようにコツを表す言葉をつぶやきながら鍋を火にかけ、火加減を調節する。
しばらく時間が経ち、あとは蒸らすだけとなってメグルは額にかいた汗をぬぐう。
「中学校の野外活動でひとりでお米を炊く係やったのが役に立つとはね……。」
遠い目でかつての思い出を振り返って一息つく。
そして、蒸らすこと10分ほど。
「よし、できたわよ!」
メグルのその言葉に、村長が恐る恐るメグルのもとに近寄ってくる。
「ずいぶん時間がかかったな。」
「ちゃんとおいしいから安心しなさい。いくわよ?」
メグルが蓋をとると、鍋から噴きあがってきた蒸気が食欲をそそる匂いを運んでくる。
今まで嗅いだことのないその匂いに、村長が目を見開きながら吸い寄せられるように蒸気の先、土鍋の中へと目を向ける。
そこに広がるのは輝く一面の銀世界。
村長がゴクンと唾を呑みこむ。
久しぶりに嗅ぐご飯の匂いに陶酔しつつ、メグルは土鍋の中身をかき混ぜる。その動きに合わせていっそう強い香りが漂う。
「た、食べてもよいか……?」
もう我慢できないという目を向けられ、苦笑いしながらメグルは頷く。
村長は手に持っていた箸でご飯を掴み、ゆっくりと口に運ぶ。
食べた瞬間に口に広がる圧倒的な香りと旨味が村長の脳髄を襲う。噛めば噛むほどやってくる甘みは彼を刺激し、もっと食べたいという感情が支配する。
だが、それを抑えて彼は住民に告げる。言わねばならないと思った。
「神だ……。神によって手を加えられた真なる食物だ……。」
村長の幸せをかみしめているような顔を見て、住民たちは我先にと鍋に群がり、それを口に入れて歓声を上げる。
「えっ、ちょっと! あたしの分!!」
住民たちによって自分の食べる分を奪われたメグルが涙目になる中、住民たちが彼女を輝いた目で見つめてくる。
「な、なによっ……。」
その圧力に一歩後ずさったメグルに、住民が一斉に声をかけた。
「神だ! 神の所業だ!!」
ご飯を炊いただけで崇められ、メグルは呆然とするのであった。