第六話
「ハッ……ハッ……ッ!」
風が揺らす木々の葉が擦れる音、ダンッと地を蹴る音、刃の空を切る音。そして一連の音から遅れて塞き止めた息を一気に吐き出す音。
踏み均されてなお青々茂る草花と、そこに横たわる朝日に照らし出されたのは二つの人影だった。
「お疲れ様でした……。護身術の稽古はこれで終了になります……。」
「ハッ……ハッ…………ハー……。」
組み合った互いの腕を解き、膝に手を付いて息を整えるメグルにそんな声をかけた。
「……それでは、メグルさん。お元気で……。」
レイラの出兵が決まったのは、わずか十三時間前だった。
風岡廻がこの世界に順応するきっかけとなった少女、レイラ。彼女と使徒が行動を共にしてから二百五十と二日。一つ目の分岐点を乗り越えた結果となったが、この選択は当初来たるはずの無い分岐であり、運命への逆行も想定しうる物となるべくして設けられた、使徒として乗り越えるべき障害となる。また、その事自体想定された筋書きの上で、また彼女自身の懸命な判断によって予定通り予定外の結果へと繋がった。
彼女自身を使徒として目覚めさせるという運命の始まり。
その命の運び屋はやはり目論んだ通り、避けられぬ運命をたどる事となるだろう。
日は高く上り、遠くに立ち上る煙と燃え上がる森の赤さにもほとほと無関心なヴェルモントの街で、メグルはいつか来た古い書庫へやって来ていた。
「母、海の、脚……下半身の……ああ、えーと。海の母……は海岸、下半身……下半分? だから? ……伸びる、えー海岸の下に伸びる……。」
この街に来てからもう八ヶ月以上も経つ。もちろんメグルには焦りや恐怖と言った感情の多くが芽吹いていて、それでも日本へと帰るために必死で生きるための食事と、死なないための術と、帰るための能力を得ていた。
まだ不完全と言うにも遠い、いくらか単語とそれが持ついくつかの意味を覚えたばかりだったが、それを習うレイラはもうこの街からいなくなってしまったため、何度も書き取った単語だらけの包み紙を持ってまた帰る手段を調べている。
「んん? 船着場の大きな動く木……。これおとぎ話じゃないの……。次は、えーと……大きな、父、海の母……。」
しかし、そうやってちまちまと読み進めるには時間の限界があった。その日の半分を使ってメグルが読み進めたのはたった三冊。うち一冊は数ページで読むことをやめた街の古い童話だった。
その次の日も二冊、その次は三冊、その次は二冊。二週間ほど経って日に五冊は読めるようになった頃、メグルはひとりの男と出会う。
「ちょっといいかい?」
「……あっ、え? あたし……?」
この街に来てからと言うものの、レイラ以外の人とは店員と必要なやりとりをするくらいで話しかけられたことなんかは初めてのことだった。
「最近よくここにいるようだけど、随分妙な様子で本を読んでいるよね? 君もあの傭兵と同じで外国の人だから言葉が分からないと言うのなら理解できるけど……。喋る方は流暢だし……。」
男は言葉を濁し、まるで機嫌を伺うかのような話し方をしていた。話しかけられた嬉しさ反面、メグルはその理由におおよその目星を付けて少し寂しい気持ちになる。
「ああ、えっと……。ち、父がここの言葉で喋るんです。それで喋る方は出来るんですけど、読み書きは習ってなくて……。」
少し下手に出るように丁寧な話口調で取り繕った。いつものような口調で話さなかった狙いはふたつ。ひとつはレイラに習ったとおり敵を作らないため。もうひとつは、男と自分を話の出来る同じ立場にするため。
得体が知れなくても、嫌われ者の目の色をしていても、魔女と呼ばれる者と一緒にいたとしても。目の前の男は勇気を持って話しかけてきたのだ。メグルはその勇気と、差別意識を上回る好奇心に期待していた。
「そうだったのか……。もしよかったら、俺に手伝えることがあると思うんだ。」
そんな期待に応えるように男からは緊張した様子が薄れ、メグルが望んでいた以上の返答が返ってくる。
「本当!? ありがとう、助かるわ。」
それを聞いて喜ぶメグルに男は手を差し出し、メグルもその手をとって頭を下げた。
「言葉自体は分かるんだよね。なら俺が読み上げるよ。」
そう言って男は積み上げられた本の山のてっぺんを取り上げ、すらすらと朗読を始めた。
「――そうしてヘルンベクの舟は港から港を行き来するようになった、と。これでこの山は終わりだね。」
ぱたんと本を閉じてそう言った。もう二十以上の本を読み終わっただろうか。男の助力もあって、今までとは比較にならない効率の良さで読み進めることが出来た。
「今日はもう遅いからここまでにしましょう。本当に助かったわ、ありがとう。何か返すことが出来るわけじゃないけど、お礼だけは言わせて。」
本の山を片付けながら、メグルは深々と頭を下げた。男も照れくさそうでいて、どこかバツの悪そうな顔をしながら抱えていた本を棚に戻す。
「いつか、爺さんのやってるパン屋に入っただろう? あれは俺の父親なんだ」
ふとそんなことを言われて、メグルの脳裏にその時に見たやさしそうなおじいさんの、冷たくて怖い目が浮かび上がった。
「爺さんは長いことこの街にいるから、ヴィンクリットとの戦争をずっと見てきた。だからヴェルモントの人たちの中でもとびきり人種に敏感なんだ。魔女だなんて言われているけど、君も傭兵の彼女もヴィンクリットの人間じゃないのは分かってる。」
それだけ話し終えると男は顔色を明るくしてまた手を差し伸べた。
「俺はコール。最初は親父の罪滅ぼしのつもりだったけど、話しかけてよかったよ。明日も手伝わせてくれないかな?」
向けられた笑顔と温かい言葉に、メグルもつい頬が緩んで手を握る。
「ありがとうコールさん。私はメグル。喜んでお願いするわ。」
ぎゅっぎゅっと何度か互いに手を握り合い、別れていった。
適当な食事と運動をして床に就き、そして日の昇る少し前に起きて体を動かし、日が高くなる頃書庫でコールと共に調べ者に没頭する。
そんな日々が十日も経つと朗読してもらうよりは早く読めるようになり、書庫の本を半分も読み終えた頃。
レイラの出兵から五十五日。日の出のすぐ後に市場へ向かおうとするメグルの元へ歓声と熱気が届いた。
気付けば立ち上る煙も、ごうごうと猛る炎も見なくなっていた。メグルはその歓声の意味を理解して、一目散に街のはずれ、海沿いから伸びる始めてこの街を訪れたときに通った森を目指す。
その途中何人もの兵士を見かけた。誇らしげに佇む者や町の人々に褒め称えられている者もいれば、つなぎ合わせた板金の鎧をそこらに放り捨てて泣きながら家族と抱き合っている者もいた。
そんな光景に胸を昂ぶらせながら、メグルは見覚えのある小さな背中を見つけた。
「レイラ! レイラッ!!」
切れた息で必死に叫ぶ。疲れきってその場に立ち尽くすメグルの目には、ゆっくりとこちらを振り返るレイラの姿があった。
「……メグルさん……。」
特別驚いたような表情を見せるでも、喜びをめいっぱい表すでもなくレイラは小走りでメグルのもとへやってきた。
「ただいま帰りました。息災そうで何よりです、メグルさん。」
薄っすらと浮かべた笑顔でレイラはメグルの両肩に手を置いた。
「おかえり……。おかえりレイ――」
メグルの言葉は湧き上がった歓声に掻き消された。
気付けばレイラとメグルの周りを取り囲むように兵士や市民の輪が出来ていた。
「ありがとう……ッ! ありがとうレイラ!!」
メグルが耳にしたのは意外な言葉だった。
二ヶ月前までレイラに浴びせられることがあったのは罵倒や差別の言葉で、最低限必要な会話をすることがやっとだったものだった。それが今は感謝と賛美の言葉に全て入れ替わってい
る。
「戦争ですから……。武勲を挙げたものには感謝と尊敬が一時的にもたらされるんですよ。僕のような嫌われ者でも。」
困ったように笑いながら、周囲の歓声に手を振って応える。ひととおり手を振り終えるとその手でメグルの手をつかみ、群衆を抜け出そうと走り出した。
「とりあえず落ち着ける場所へ行きましょう。僕も疲れましたし、メグルさんの調べ物についてもこれからの事を話し合わないと。」
引っ張られるままに人ごみを駆け出したそのときだった。
歓声の中から突然悲鳴が飛び出して、それはそのまま二人の下へ突進してきた。
「ッ! メグルさん危ない!」
その言葉で後ろを振り返ったとき、目の前には剣を振りかぶった男の姿があった。
ゆっくり、ゆっくりと眼前に迫る鈍い光にレイラの手の温度が急激に下がっていく感覚。
――ああ、これが走馬灯なんだ……。
ゆるやかに進む世界から離脱するように瞼を閉じ、口を真一文字に結んでそんなことを考えていた。
まるで無限に続くように感じていた時間が正常に流れ出した事を伝えるように、悲鳴や動揺の声がメグルの耳に突き刺さる。
男はどうなったのだろう。いや、自分がどうなったのだろう。指先までしびれきった体に恐怖しながら、閉じた瞼を持ち上げた。
目の前に広がっていたのは手を叩く人々と、短剣を握り締める自分自身の手だった。
絶賛の言葉や拍手の音を聞き続けてようやく一瞬の出来事を理解する。
「やって良かったでしょう? 護身術。」
「……まあ、そうね。こう言うものだとは思ってなかったんだけど……。」
朝夕五百を超えるレイラとの稽古によって、メグルの体は自然と動いていた。
群集の奥で取り押さえられている革の鎧を来た男を見つけると、少し複雑な顔をしながら護身術とは何なのかという疑問に行き当たった。
「まあ良いわ。それじゃ行きましょ――」
はあ、とため息をついてレイラの手を引いて歩き始めようとしたとき、メグルは今まで感じたことの無いような強い力で横から突き飛ばされた。
肩をかばうような形で両手を地面に着き、何事かとすぐに上体を起こす。
衆人の割れ目から上る細い煙と、火薬の匂い。そしてすぐにやって来た怒号を掻き分けて、メグルは倒れ臥すレイラの姿を見つけた。
「――レイラッ!!!!」
飛び交う怒号が先程の男へ向けられた物だと分かった。男がヴィンクリットの残兵だと言うことも聞こえてきた。
煙の正体が試作品の鉄砲による物だとまでは分からなかった。
気付けばレイラの傍に駆け寄り、手元にあったきれいな肩掛けを血の出ているわき腹に当ててレイラに呼びかけていた。
「~~~~~~誰かッ! 病院……お医者さんを呼んで……ッ?」
メグルの周りからは既に人だかりは遠ざかっていた。
「……ちょっと、だれか手を貸して……。」
向けられているのは歓声や賛美の言葉に変わっていたはずの冷たい視線だった。
もうほとんどの人の関心は取り押さえられた男が憲兵に連れて行かれるところの野次馬に変わって、兵士が数人とその半分ほどの市民が視線の片隅に捕らえている程度だった。
「なんで……! さっきまであんなに……。」
「……僕が傭兵だからですよ……。」
遠のいた歓声や賑わいにすら掻き消されてしまいそうな声でそう言うと、服の袖を引っ張った。
「お金を払えば、今日は味方……。でも明日は敵かもしれない…………。そんな僕を助ける意味なんて……彼らにはどこにもありません……。」
肩掛けを握り締めたメグルの手をそっとつかみ、レイラは柔らかな笑顔を浮かべた。
「そんな……そんなのって……。」
目頭と頬に熱を感じながら、ただ目の前で微笑うレイラの手を握ることしか出来なかった。
「これを、貴女に……。」
そう言って握られていた方の腕にはまっていた腕輪を外し、弱々しくメグルの膝へ置いた。
祈るようにその手を強く握り、悲鳴のように叫ぶ。
「嫌! 嫌よ……レイラ……。」
肩掛け越しの息遣いも、掴んだ手の温度も、メグルの心をひどく摩耗させた。
涙で霞む視界の中心に、噛みしめるように口を動かすレイラの姿を捉える。
「……ありがとうメグルさん……。最後に手を握ってくれる貴女がいて……。僕は――」
『――救世は達せられた。四十一の円転と運命の分岐はここに終結する。』
神鳴りのような大きな音が腹の底に響くと同時に、メグルのもとへ声が届けられた。
メグルひとりを囲うように地面に白い炎が奔り、やがてそれは彼女を焼き尽くそうとせんばかりに高く火柱を上げた。
「なにこれっ……!? この声……この感じ……あの時の……。」
かつてここにやってきた日に聞こえた声。そのことを思い出した時、メグルは手の感覚が無いことに気付いた。
ベチャッとぬれた布が落ちる音がした方をみると自分の手首から先が霧散し、レイラの手が肩掛けをつかんだまま地面についているのが目に付いた。
「なによ……なんなのよ……ッ!」
『救いの願いが成就された。命の運び屋は贖いの願いの救済へ向かってもらう。』
二度目の声が響くと火柱はより一層激しく燃え上がり、それに伴ってメグルの体の崩壊も早まっていった。
「ウソ……ウソウソやめてよっ!! レイラッ! レイラぁぁあっ!!!」
『不和を契って礎と為さん。それが流廻の運命なのだから……。』
手を伸ばすメグルの眼前には真っ暗な空間が広がっていた。
第一章『始まりの命』了