第五話
使徒風岡廻を世界へ派遣してから二十時間余り。世界への順応は見られるが未だ己の役目を遂行しようという兆しは見られない。
しかし、事の進捗への障害は現在確認できておらず、また彼女自身役割の拒否や管理系統への逆行など使徒の権利を放棄する動きは見せていない。無論現時点の彼女にその力も無く、幾らか入れ知恵をされたとしても気付く段階にはあるまい。
救世を求む者には救済を、唾棄すべく悪にも加護を。
全を以って不和と為さん。この世界においてはそれもまた彼女の運命なのだから。
ぴんっと弦を弾く軽快な音が何度か続き、それから暫くするとメグルの呆れ声が木々を抜ける風の音と共に葉を揺らす。
「護身術……じゃなかったっけ? 木の枝に紐なんてぶら下げる暇があるなら護身術なんて無くてもいいと思うんだけど。」
「あはは、これは物のたとえに使うだけですよ。どういった心構えで、相手のどんな攻撃を如何に対処するか。そのひとつの指標をあらかじめ立てておこうかと思いまして。」
思っていたものと違う状況に拗ねたようなメグルをあやしながら、レイラは二本の枝の間に括り付けた糸をまたぴんと弾いた。
「僕たちのような武人……戦うための訓練をうけた人同士の戦いは、言うなればこの張った糸のような物です。風に吹かれても、指で弾いても張り詰めたまま。ですから……」
喋る事を止め、懐から取り出した小さなナイフを張られた糸へとあてがった。すると、あっさりと糸は断ち切られ、だらりとぶら下がる格好になる。
「決着は一瞬。どんな要因であれ張り詰めた気は簡単に千切れてしまいます。もっとも、多い人数で斬りあうことになる戦争の場になれば話は変わってきますけどね。」
切れた糸を枝からほどくと、今度はメグルの吊り下げた糸へナイフを向けた。
「気を張ると言うのは相手を倒す為には大事なことですが、生き残る上では邪魔者以外の何者でもありません。集中を広い範囲で保ち続けるのは難しいですからね。ですから護身の際にはこの糸になる気持ちで構えることが大切なんです。」
「この糸って……。風で飛んで行きそうだけど本当に大丈夫?」
吹き上げられて枝に巻きついた糸を伸ばしながら、メグルは訝しげな視線をレイラへと送った。
「大丈夫です! ほら、こうやって刃物をあてがっても全然切れる気配は無いでしょう? まともに相対しないという姿勢こそ重要です。」
「ふーん。まあそれとなく覚えておくわ。」
「それにほら。力いっぱい振りぬかれた刃物にだって――」
枝葉を抜ける風の中にひと際鋭い風切り音が奔る。その時、メグルは飛び去っていく一筋の白い線を視界の端に捉えた。
「――あっ…………。」
「……そう。結構あっさり死んじゃうのね、あたしは。」
「いえっ……。い、今のは加減を間違えたと言いますか……。」
「………………」
「ごめんなさい……。」
俯いて若干涙目になりながら謝るレイラに、メグルは小さくハアッと息を吐く。
「まあ、いいわよ。こうならないようにいろいろ教えてね。」
「はいっ! 任せてくださいメグルさん!!」
護身術の鍛錬が始まって数時間たったところで、メグルが地面に倒れ込む。
「レイラ……あたし……もう……無理……。」
ぜえぜえと息を吐きながらレイラに訴える。その様子を見て少し苦笑いしたレイラは、手ぬぐいをメグルに手渡す。
「では、今日はここまでにしましょうか。今日教えたのは空手での護身術で、すべての基本ですね。ですが、正直これを使うことはあまりないと思います。」
「じゃあ、なんでやったのよ……」
「先ほども言いましたが、これは全ての基本です。メグルさんに護身術の心構えをその体で感じてほしかったんです。張りつめた糸ではなく、風によってそよぐことのできる糸になっていただくために。」
「確かに、なんとなく姿勢……くらいはわかったかも……。」
「その姿勢を忘れずに望めば、護身術はすぐに身に付きますよ。頑張りましょう、メグルさん!」
風岡廻が戦闘訓練を始めた。役目を果たす上で都合が良いことであり、事の進捗としては良い一歩である。彼女には為してもらわねばならない。いや、為すことになるだろう。それが彼女の運命なのだから。
「すいませんメグルさん…。少し用事があるので、今日は護身術の訓練はできそうにないです。」
朝起きたメグルは、レイラにそう声をかけられたため宿屋でひとり考え込んでいた。
「そういえば、ここが何て名前の場所かは分かったけど、どこにあるのかとかわかってないわね……。すっかり忘れてたわ。今日は少し調べものでもしようかしら。」
そう呟いて立ち上がり、部屋から出ようとしたところでその動きを止める。
「こんな格好だとさすがに目立ちそうだし、もらった肩掛けも高いものみたいだから、うかつに着てると強盗とかにあったら大変ね……。レイラのローブ借りようかしら……。」
ジャージの上からローブを纏い、メグルはヴェルモンドの街に足を踏み出した。
「調べものをするなら聞き込みよりも図書館かしら…。レイラも日本を知らないみたいだったし……。」
目的地を定めてはみたものの、図書館の場所を知らないことに気がつき、辺りに聞けそうな人がいないかを探す。しかし、目の色によるものか、誰もメグルと視線を合わそうとしない。
しかし、聞かなければ始まらないと意を決し、近くにいた女性に声をかける。
「すみません、この街に図書館はありますか?」
女性は怯えたような顔をしつつも、「突き当りを左に、それから真っ直ぐです…。」と答え、逃げるようにその場を離れた。
「……しんどいわね。」
何度か経験したことであるが、この国の冷たさを感じて少し心に来るものがあった。
女性に聞いたとおりに道を進むと、図書館というよりは書庫のようなとても古い建物があった。あまり整備は行き届いていないようで、柱や梁の傷や埃が目立つ。
「なにかめぼしい資料みたいなのがあればいいんだけど……。」
中に入って、本棚の間を歩きつつ、情報を手に入れられそうな本を探始めた。いくつかの本を手に取ってサッと目を通し、すぐに本棚に戻す。その動作を数回繰り返した後にバンッと本を閉じる。
「そういえばここの言葉なんて読めないじゃない!!」
思わず叫んでしまってハッと口に手を当てた。周りにいた数人の視線がメグルを刺すように集まり、少し申し訳ないような気分になりながら図書館の隅の方に移動してメグルは少し考え込む。
「言葉は同じ日本語なのに文字は読めないのよね……。」
レイラに文字も教わろうということを決め、収穫がなかったことに少し落ち込んだような重い足取りで書庫を出ようとした彼女の背に、ひそひそ話が降りかかってきた。
「あれってこの街に来てる傭兵だよな?」
「なあ、こんな話知ってるか?ローブを纏った魔女の傭兵がいるって噂。」
「それってもしかして……。」
「黒眼の魔女なんて雇って本当に大丈夫なのか?」
少し気になる噂に、つい立ち止まってしまう。
「魔女……って何のことかしら……。」
その呟きによって少し視線が向いたような気がして、面と向かって何のことかと聞くわけにもいかず自然体を装うような形で図書館を出ることになった。
宿屋に向かって移動しつつ、メグルは今日何度目かわからない思案顔となった。
「メグルさーん! ただいま戻りましたー!!」
メグルが宿屋についてしばらくすると、レイラが戻ってきた。
「おかえりレイラ。仕事の話はどうだったの?」
「最近のヴィンクリットは沈黙しているようです。このままでいてくれれば僕の出番なんてこないんですが……。」
レイラはひとつ溜息をついて腕を組む。彼女としてはあまり出番を望むわけではないようだ。
「もっとも、これが僕の仕事ですのであまり出番を望まない訳にもいかないんですけれど……。でも、やっぱり平和なのが一番だと思います。」
物憂げなレイラにどんな声をかけていいのかわからずにメグルが沈黙していると、少し慌てたような表情で話し始める。
「あっ、そういえばメグルさんは今日なにをしていたんですか?」
「図書館でなにか情報を集めようとしてたんだけどね……。あたし、ここの文字読めなかったわ。レイラ、今度教えてくれない?」
「話せているのに読めないのも変な話ですね……。でもわかりました。護身術と並行してお教えします!」
と、そこまで話したところでメグルはふと帰り際に聞いた噂話を思い出した。
「そういえば、今日図書館の帰り道に『ローブを纏った魔女の傭兵』みたいな話を聞いたんだけど、これってレイラ?」
その指摘にレイラは少し動揺したような表情を浮かべる。何かを言おうとしては口を閉じるのを繰り返す。数回それを繰り返した後にレイラは声を発した。
「……僕の出身であるマガは魔術の伝わる村です。父も母もそして僕も、その力が使えます。」
「魔術ってことは火を出したり海を割ったり雷を落としたり……」
「ああ、いえ。そういうものではなくて、そうですね……。どちらかというとまじないのようなものです。退魔など、そのような感じでしょうか?」
「ふうん、便利なのかよくわからないわね。」
「あるに越したことはないですよ。実際私も……。あ、そうだ!」
突然話を止め、ふと思いついたように自分の荷物の中をまさぐり、ふたつのものを取り出す。
その手には柄に宝石の埋め込まれた短剣とペンダントがあった。
「これをメグルさんに渡そうと思っていたんですよ。護身術をするのに武器は必要ですので。」
「高そうだけどいいの?」
先日、全財産に近い金額を失ってしまったレイラに対する気遣いであったが、彼女はそれを笑って受け流す。
「大丈夫です。この短剣は昔使っていたものなので。明日からはこれを使った護身術の練習をしますので是非使ってください。あとは、このペンダントも。」
レイラの手にあったペンダントはメグルが見たことないような色をしており、差し込む夕日を幻想的に反射していた。
「綺麗ね。でもなんで装飾品なんてアタシに?」
必要性がわからないといったような顔でレイラに疑問を投げかける。そんなメグルの顔を見て、大した理由ではないのですが…。と前置きしつつ話し始める。
「ほら、僕も同じものをつけているんですよ。子供のころに貰ったお守りみたいなものです。同じ石を見つけたので、メグルさんにも同じものをつけてもらいたくて作ってみました。ダメ……ですか?」
少し上目で見つめられて、メグルは釈然としない表情ながら短剣とペンダントを受け取る。
それをつけるのを見届け、レイラは満足げに頷く。
「似合ってますよ、メグルさん。お揃いですね!」
レイラの嬉しそうな笑顔に応じるようにメグルも笑う。
「そういえば、この宝石のお金はどうしたの?」
「今日、前金をいただいいたのでそれで!」
「それ、ここから先の生活は大丈夫なの……?」
戦禍の足音はまだ遠く、普段と変わらぬ日常に包まれながら、ヴィンクリットの夜は静かに更けていった。
風岡廻を取り巻く状況は確実に前進しつつある。このまま進行すれば問題は生じないだろう。問題など生じるはずもない。手を出す必要性は皆無である。このまま観察を続けよう。
分岐点は確実に近づいている。