第四話
朝日はだんだんとまぶしさを失い、窓からは潮風が吹き込んで、喧騒もほどほどに熱を帯びて絶え間なく。
今ひとつ靄のかかった情景をその咀嚼音から浮かべて、ただ思うまま。目の前の蟹爪に食らいつく。
歯を立てたとき、それは意思を持った弾力と無機質ながら鼓動を感じさせる確かな噛み応えとなって立ちはだかった。
パリパリッ、と犬歯がキチン質を突き崩す音はそのまま殻の崩落を合図する。
ほのかに暖かいその身からわずかに漂わせるだけだった磯の香りも、ダムの決壊とともにドッとあふれ出して。
鼻腔をくすぐる猛烈な匂いについ咽てしまいそうになりながら、抗いの心を牙にのせる。
繊維を噛み千切るたびふつふつと湧き上がる悦楽に呑まれ、幾度と無く繰り返される咀嚼のうちにやがて小さくなる殻の感触をいとおしむ間も無く、一口、また一口と食を進めるほかに無い。
ふと、目を瞑ったとき。僕は息苦しさから呼吸を思い出した。
なんの事は無い一息の吸気であったが、それがダムから流れ出した激流に火を放った。
噛み磨り潰された旨みと匂いの塊は、容赦なく口内を埋め尽くす。
目を開けたときにはすでに激流は飲みくだされ、次なる一口を求めていた。
食を得ると言う快楽に溺れた心は堕落の一途をたどる。
僕の左手は意識に関係なく、一本の酒瓶へと伸びて行く。
食の悦には、遠からず酒の悦を求めると言うものだ。
しかし突然、目の前に電流が走った。
眉間に衝撃を受けて、僕の意識は悦びの渦から引きずり上げられた。
「朝からあたしにゲロかけるつもりかしら?」
「う……。その節は本当に……。」
目の前には修羅の姿があった。
傭兵としてスクヴェルトに雇われ、ここヴェルモンドに滞在を始めて二週間ほどたった頃。僕は酒場で一人の少女と出会った。
出会い頭に酔い絡んで、胸に嘔吐するという考えられる中でも酷い出会い方をした彼女の名前はカゼオカメグル。茹で上げた陸蛸の様な、煮潰した赤豆の様な。赤茶色の一風変わった着物をまとった姿をしている。
なにが一風変わっているかと言えば、貴族が履くような細身の股引の様に見えて、その実これと言った飾りもなしにそれどころか腰の辺りに大きな穴が二つも開いている上に、帯の一つもしていなかったり。
これもまた街にいる人々とも、僕とも違って立派なつくりをしているのに襟一つ見当たらない、胸に良く分からない文字らしき物が記されたこれは外套とも肌着とも違って。かと言って一概に服と言ってしまって良いのかすら分からないほど丹精に織られた衣類を被り。
足元をよく見れば、驚くことに靴まで丹精に織り込まれているではないか。靴と言って差し支えないのだろうか、それは草履の様に締め紐まで付いていて。随分と足の形からかけ離れた大きさで、底には分厚い革だろうか? 手触りがよく、恐らく滑り止めとして付けられているのだろうか無数の凹凸と、それに伴い高い摩擦力を持っている。
彼女自身はその姿を『タダノジャージニスニーカー』と称していたが、どうやら名称が付くほどに彼女の国では普遍的な、もしくは尊敬される装束なのかもしれない。
彼女もまた僕のように異国から流れてきたようだが、この国の事について一切情報を持っていない様子だった。
そんな彼女と僕は行動を共にしていた。
理由は二つ。とんでもない無礼の詫びではないが、街を案内して説明するため。
もう一つは、余所者同士一緒にいたほうが都合の利く場面が多いため。
スクヴェルトは戦争のせいか、人種に対して敏感な面がある。瞳の色が青でない者。特に隣国であり最大の敵国として存在するヴィンクリット国民の多くに見られる黒い瞳は嫌悪や差別の対象となりやすい。
それについて先程、つい熱くなって説法のように長々と聞かせてしまったせいだろうか……。
「あの……。いえ、なんでもないです……。」
メグルさんの表情が強張ったままで、非常に話しかけ辛い。
傭兵であると身分を明かした後でも……。いえ、まだ知り合って一日しか経っていませんが、変わらずに接してくださった数少ない方なので…………。
つい口を出てしまったあの一言で引かれてしまったのでしょうか? 付け上がり過ぎていたのでしょうか……?
ある意味当然と言えば当然ですが、一日やそこら寝食を共にした程度で……ああ、まだ半日ほどしか経っていませんね……。
それっぽっちの間柄であんな事を言うのはやはり図々しかったと言うかなんと言うか――
「あのさ、レイラ……。」
「は、はいっ!?」
不意を突かれて声が上ずってしまう。
ふとメグルさんの方を見やれば、随分真剣な表情でこちらを見つめているではありませんか。
「えっと、この街……。この国の事、詳しく教えてくれないかな?」
出てきたのは、意外な言葉でした。
「この国の事……ですか。先程お話したとおり、あまり気持ちのいい話ではありません。それでも――」
「教えて。いやな話かも知れないけど……。あたしは今ここにいるんだから。」
不躾な配慮など一蹴するように、メグルさんの目は強迫にも似た意思を訴えかけてくる。
だから僕はそれに堪えなければいけないような気がして話をはじめた。
「……分かりました。では先ずこの国の建国にいたるまでを――」
「いや、そこまでは聞いてないから。」
「それによって、特に隣国であり強大なヴィンクリットとの関係がこじれ、今に至ったわけです。一時は手を取り合った両国ですが、やはりと言いますか技術力に優れるヴィンクリットがどうしても優位に立ってしまい、不平等貿易を強いられたこの国の民、特に商人や買い叩きの憂いに遭う漁師からの不満の声が大きくなってしまった訳です。」
「身に付けた力を振りかざす方もだけど、ここの人たちだってその恩恵にあずかってるわけなんだから。多少の不平等だって受け入れるべきじゃないかしら?」
話も一通り済むと、メグルさんは呆れたように頬杖を付き、紙包みの中から桃を取り出して一口かじる。
「~~~~っ!? なにこれしょっぱ? 辛……いや、すっぱい!? ちょっと! この桃腐ってんじゃないの!?」
そしてすぐに吐き出した。
「おかしいですね……? 見た目は悪くないんですが……。」
すぐに僕も一口かじって、言っている意味を少し理解する。
「ん~……。確かに少し漬かり過ぎと言うか。でも港町だけあって、いい塩を使ってますね。」
「塩ぉ!? あんたたち桃に何してんのよ……。」
ここでようやく、言葉の真意を理解した。
彼女にとって、いや彼女の国には桃を塩漬けにする文化は無いようだ。
だとすると……。
「メグルさん……。生の桃を食べるんですか……?」
「まあ煮てジャムにしたり、ケーキと一緒に焼くことはあるけど……。基本的に果物は生で食べるものじゃない?」
「うわぁ……。」
「何よその顔……。」
食の事情に違いはあれど、ただすっぱくて渋くて、種に毒のあるようなものを生で食す文化があるとは……。
「まあ桃のことはどうだっていいのよ。今朝も言ってたけど、目の色だけで襲われたりするものかしら?」
「え? え、ええ。それだけ人種に対する差別は深く根付いてしまっていますから……。」
メグルさんの食べ残した桃を受け取って、少し喋っては一口かじり。そうやって結局丸々食べきってしまいました。
「ならなんでローブで顔を隠さないわけ? 直接目を見られることが無ければ、少しは違うんじゃない?」
そういって指を服で拭うと、余りの腰掛に被せてあった僕のローブをひょいと持ち上げて指差して見せた。
「……それでは不審者として憲兵に連れて行かれますよ…………。やましいことが無いなら、身元は明かしておくに越しません。密偵の疑惑を一度でも持たれたら、この街で何をするにも面倒になりますから。」
「なるほどねぇ。となると。」
「となると?」
なにか深く考え込む様な表情を止めたと思ったら、突然窓の外。遠くにゆれる水平線を穏やかな目で眺めだして……。
「あたしが一番危ないって事じゃない……。」
「そう、なりますね。」
僕はただ愛想笑いを浮かべるほかに無かった。
「はあ。護身術って言うのもあながち大げさなことじゃなさそうね。」
「そうです。それに僕と一緒に行動していれば、敵ではなく『他所から来た嫌われ者』程度には扱ってもらえますから。」
「それ、全然うれしくないからね。そんなに笑顔で言うことじゃないから。」
「あはは……。」
大きくため息をつくと、顔をピシャリと叩いて立ち上がり伸びをする。
「あーもう! 護身術でも何でもやってやるわよ!」
「その意気ですよ。メグルさん。」
こうして、僕はしばらくメグルさんと行動を共にすることとなりました。
分岐点まで、残り四拾壱。