第三話
風岡メグルをこの世界へ転送して、一度目の朝日が昇る。
彼女が寝付くことは一度もなかった。
頭を抱え、唸りながら寝返りをうつ。それを日が登るその時まで繰り返していた。
「あぁ、朝日が……。はあ……。」
頭までかぶっていた毛布から、目を覗かせて辺りを見回す。
そして何かを目にとめると、すぐにそれから視線を無理矢理切り離すように毛布に潜り込んだ。
潜り込んだ毛布の中で丸くなったり、また寝返りをうったり、そうこうしているうちに人影が隣のベッドからメグルへと近づいてきた。
「メグルさん! 朝ですよ! 早起きは健康と美容の鉄則ですよ!!!」
そう言いながら、メグルの潜り込む毛布を両手で掴み引き剥がした。
満面の笑みを浮かべるレイラを冷ややかな目で見ながら、メグルは上体を起こす。
「健康……は、まあその通りなんだけど。美容を語る前に目ヤニと寝癖を何とかしてきなさい。」
引き剥がされた毛布をひったくると、綺麗にたたんでベッドの上に寝かせた。
またレイラの方へと向き直すと、肩を掴み向かいのベッドに押し戻して座らせる。
そして枕元に置かれた手拭いを手渡し、手櫛で髪を梳かしだした。
手渡された手拭いで目の周りを拭き、それをまた枕元に戻すと、立ち上がりズイと歩み寄る。
「さて、メグルさん。護身術を学ぶ気になりましたか?」
胸の前で両手をぐっと握り、興奮した様子でメグルに顔を近づけた。
「う……またそれか……。そ、それより朝ごはんにしない?」
少したじろいだ後、鼻息を荒らすレイラのその鼻を指でつつき、握りこぶしを押し下げる。
「腹ごしらえですね? じゃあ食べ終わったら稽古をしましょう!」
押し下げられた握りこぶしを開き、そのままメグルの手を掴みぐいぐい引っ張る。
「あー……。分かったからそんな引っ張らないで……。」
器用に肘でドアを開け部屋を後にする。
手を繋いだまま階段を降り、うなだれるメグルを引きずるように宿から飛びたしていった。
「朝ごはんってあたしが言ったんだけど、どこで食べるつもり?」
ズンズンと進むレイラに引きずられるままだったメグルだったが、宿が見えなくなる程歩いた所で不意に口を開いた。
「席に着ければ飯屋か酒場にでもと思いますが……。いくらか買い溜めて、しばらく宿で食事をとる用意をしようかなと。」
メグルの問いに足を止めることもなく、幾度か視線を向けながら珍しくしりすぼみな語調で応える。
「席に着ければ、か。まああれだけ賑わっていればね……。」
そんな問答をしているとまた賑わう市場へと辿り着く。
昨日聞こえていた威勢のいい声の主達は皆漁に出ているようで、賑わっている様相とは裏腹に飛び交う声のトーンは落ち着いていた。
「これなら座れそうじゃない? 人は……いるけど、昨日程うるさくないし。」
「え、ええ。席は空いていそうですね……。」
明るい表情のメグルとは対照的に、レイラは少し表情をこわばらせていた。
二人がまず訪れたのは、メグルとレイラが出会った酒場だった。
「酒場……か。あたしお酒は飲めないんだけど、良いのかな。」
「それは気にしなくても大丈夫ですよ。ただ……。」
言葉を濁して酒場のドアを押し開ける。
すると聞こえてきたのは店員とおぼしき男の溜息だった。
「あんたか……。また吐かれると困るんだけどねえ。」
「う……。その節は大変ご迷惑を……。」
「下戸のくせに絡み酒なんて、他の客の事も考えてもみなよ。」
「うぅ……。本当に申し訳ない…………。」
投げられるヤジのひとつひとつに体を縮こませ、二人は後ずさるように酒場を後にした。
「…………うぅ、すみません。」
「ま、まああんな事があったお店だしね。切り替えて次行こう!」
肩を落とすレイラを励まし、今度はメグルが手を引いて歩き出した。
「そうだ。昨日食べた蟹? の……爪? の……。またあれ買いに行こうよ。」
「……そうですね、案内します。」
メグルの言葉により一層表情を暗くする。しかし、前を歩くメグルはそれに気付いている様子はなさそうだ。
「突き当たりを左に曲がると……。いえ、あの煙の立っている場所、の方が伝わりやすいですね。」
メグルの横に並び、少し遠方に立ち上る煙を指差してまた歩き出す。
そして大通りからいくつか小道に入った所で、煙の出処へ到着した。
「いらっしゃい。」
「爪串を二つ。それから干し魚と鯣も貰いたい。」
注文を聞き、店主は無愛想に串に刺された爪を網に乗せ、火にかけ始めた。
メグルが爪串なる物に気を取られていると、店主は店の奥へと入っていく。
そしてすぐに紙包みを持ってあらわれた。
「ほら、干物とイカ。」
乱雑に投げ渡された紙包みを確認して、レイラは懐の巾着から銀貨をいくつか取り出してカウンターに置いた。
「……お勘定はこれで足りるだろうか。」
「ああ。」
その銀貨をつまんで腰にぶら下げた皮袋に押し込むと、そのまま銅貨を二枚掴み、手を引き上げる。
「爪串と釣り銭。ほら。」
そう言うと銅貨と串を紙で包んでカウンターに置いて、タバコをふかし始めた。
「どうも……。」
店主は所構わず煙を吹き上げ、レイラはその煙から逃げるようにして店を後にする。
「なんだか、随分態度の悪い店だったわね。」
「まあ、ここはいつもこんな感じですよ。」
腰に手を当て憤りを露わにするメグルをなだめ、紙包みを腰の麻布袋にしまい、手を引っ張ってその場を立ち去った。
そしてまた大通りに戻り、奇怪な人形の飾られた店へと入っていく。
「はい、いらっしゃい。」
「干しぶどうと、塩を貰いたい。出来れば桃なんかも買いたいのですが……。」
「ぶどうと塩と、桃ね。はいはい。」
港街だけあって、どうやらここは輸入品店のようだ。
この街のどこにも似つかわしくない豪奢な装飾品から、絹で織られた反物、果物やコンパスなど先程の店とは大きく異なった様相である。
「わっ、これなんか綺麗じゃない? レイラもそんな汚ないローブじゃなくてこういうの着たら良いのに。」
メグルが手にしていたのは紅に染められた肩掛けであった。
「まあ、お目が高い。そちらはウシドの国から買い付けた最上級の反物でして、240リートと格安でご案内しております。」
「り、りーと? あ、そっか。日本円は使えないよね。ってそもそもあたし無一文じゃないの……。」
困惑の表情を浮かべ、すぐに落胆すると、メグルは手にしていた肩掛けを元の棚へ戻そうとする。
しかし、そんなメグルの言葉を聞いてか、今の今まで手をこまねいていた店主が血相を変えてメグルに詰め寄った。
「無一文だと!? ふざけるな! 金も無いのに商品に触るんじゃない!!」
そう怒鳴り散らすと、メグルから肩掛けを奪い取り、思い切り突き飛ばした。
「きゃあっ!?」
メグルは体制を崩し、そのまま尻餅をつく。
「なっ!? 乱暴はよして下さい! お金ならあります!」
メグルの前に立ちはだかるようにして店主と相対すると、巾着から取り出した小さな金貨をそのまま差し出した。
「おや! おやおやおや……! これは失礼いたしました。」
店主は金貨をひったくるように受け取ると、肩掛けを丁寧にたたんでレイラの手に押し付ける。
そして奥からもう一人の男が出てくると、干したぶどうと桃、そして瓶に詰められた塩を薄緑色の包み布に包んでそれも押し付けるように手渡された。
「……行きましょうメグルさん。」
空いている片手をメグルに差し伸べ、引っ張り起こすとすぐに店の外へと出ていった。
「いたたた。もう、なんなのよ。」
「大丈夫ですか? どこか怪我なんて……。」
「大丈夫よ。それにお金が無いなんて迂闊なことを言ったあたしにも原因が無いわけじゃ無いしね。」
レイラが手にしていた先程の布包を受け取り、また歩き出した。
「なんて言うか、その……。240りーと? って何円……じゃなくて、どれ位の価値があるの?」
メグルはレイラの手に残った肩掛けを指差して問いかける。
「どれ位、と言われると……。爪串が一本14レプト、と言えば伝わりますか?」
腰にくくりつけた麻布の袋を指差して答える。
それにピンとこない様子のメグルを見て更に付け加えて答えた。
「僕の……。僕の全財産が243リートと40レプトです。いえ、でした。」
「うっ……それはその……。ごめんなさい。」
「いえいえ……。」
頭を下げて陳謝するメグルを見ることもなく、レイラは肩掛けを眺め続けていた。
ふと、何かを閃いたように、たたまれていた肩掛けを広げメグルの肩を包みこむように掛ける。
「ちょ、ちょっと! そんな高い物をあたしに掛けてどうするのよ!」
「いえ、これはメグルさんに。でないと――」
驚いたようにレイラの肩を掴みかかったメグルの目をじっと見つめ、そしてゆっくり口を開く。
「――全財産が……。僕の全財産が浮かばれません。」
レイラの目は、まるで聖母のようだった。
「そうです、贈り物です。友人への贈り物のために僕の全財産は支払われたのです。」
「いやいやいやいや! そんな、全財産はたいた物なら自分で使わなきゃ――」
「お願いします! 贈り物のために使ったことにして下さい……。つい勢いで買ってしまったなんて…………。そんなの、そんなの、ただの間抜けじゃ無いですか!!」
そしてゆっくりと涙をこぼしながら、メグルの肩を揺さぶり始めた。
「売り言葉に買い言葉で有り金全部はたいただなんて、そんな恥ずかしい出来事は起きませんでした! 僕は大切な友人のために奮発して贈り物を買ったんです! そういうことに……。そういうことにしておいて下さい…………。」
その場にうずくまり、手応えのなくなった巾着を手でいじりながら懇願する。
「あー……。うん、大切にするね。」
「お願いします……。」
うずくまるレイラの肩を叩き、また大通りを宿へ向かって歩き始める。
それからしばらく経って、メグルは何かに気が付いた。
「あれって……。パン屋さん?」
「の、ようですね。僕も入った事はありませんが。」
大通りから少し逸れた小道に、パンを並べたショーウィンドウを見つけたようだ。
「せっかくですから、行ってみましょうか。」
「え……。お金……大丈夫?」
「…………せっかくですから!」
引き止めるような仕草をするメグルを引っ張り、小道のパン屋の扉を開けた。
「ごめんください。」
「はい、いらっしゃ……っ!!」
二人が中に入ると、そこには一人の老父が座っていた。
老父は二人の姿を見ると、驚いた表情を浮かべ、すぐにうつむいた。
「はぁ~、いい匂い。どれも美味しそうだね。」
「そうですね。すみません、このパンはいくらでしょう?」
レイラは数ある中から、かごにさされたバケットを指差して老父に尋ねる。
「それは、売れない。」
老父はうつむいたまま、声を震わせながら答える。
「そう、ですか。でしたらこちらは――」
「売れない! そのパンも、このパンも、みんなヴェルモンドのためのもんじゃ!」
青筋を立て、怒鳴り散らすと、ゆっくり立ち上がった。
「帰れ! 敵に売ってやるパンはここには無い! この街から出て行け!!」
椅子に持たれながらやっと立っているような状態で、老父は声を荒げ怒気をあらわにする。
「……失礼いたしました。帰りましょう、メグルさん……。」
「え、ちょっと待っ……。」
レイラは今までのどの時よりも強い力でメグルの腕を引き、店から出て行った。
「待ってよレイラ。痛いってば。」
「……すみません。」
メグルが手を掴み返すと、レイラは歩みを止めうつむいたまま言葉をこぼした。
「確かに酷い対応だったと思うけど。」
「メグルさん。貴女の目は、瞳は、何色ですか?」
くるりとメグルの方へ向き帰り、目をじっと見つめたまま問いを投げる。
「目の色? あたしは黒だけど……。」
「では僕の目の色は、何色ですか?」
ずいっと顔を寄せ、また問いを投げる。
「く、黒だけど……。どうしたの?」
「スクヴェルトの国民、ヴェルモンドの人々は、青色なんです。」
一歩、また一歩とメグルは後ずさる。
レイラは視線をメグルから街の方へ向け直し、物憂げな表情で言葉を紡いだ。
「人は、それだけの違いさえも受け入れられなくなってしまうんです。」
「どういう……。」
「スクヴェルトは、戦争をしています。隣国のヴィンクリット、メレーヴ、遠方のリリエスとの関係も芳しくありません。」
淡々と告げるように言葉をこぼし、またそれを紡ぎなおしてはこぼす。
レイラは独り言のように声を発し続けた。
「僕もメグルさんも、それらの国の民族とは特徴を同じくはしません。ですが、隣国ヴィンクリットの国民は総じて瞳の色が黒い。」
「だから、あたし達もそのヴィンクリットの人と同じように恨まれる、ってわけ? そんなのお門違いも甚だしいじゃない!」
憤るメグルをあやすように、レイラは優しく続けた。
「戦争とは、個人の喧嘩ではありません。誰が仇とか、誰の恨みとかではない。誰かが仇で、誰かの恨みがあるからというだけで誰でもない人を憎んだりするんです。」
「でも……。そんな事で……。」
「人を憎むことには理由があります。ですが、誰でもない、なんでも無い何かを憎んだり嫌ったりすることには理由も意味も存在しません。理不尽さに理不尽をもって抗っているに過ぎないですから。」
「……でも……。」
すっかり落ち込んだメグルの肩に手をかけ、ずり落ちかける肩掛けを直してまた優しく言葉をかける。
「メグルさん。僕も貴女も瞳が黒いうちはこの街では良く思われません。だから、理不尽から逃げ延びる術を持っていて欲しいんです。」
言葉を切ると、レイラは深く息を吸って、優しく微笑んでまた告げる。
「大切な、友達だから。」