第十四話
その問いは、メグルにとって予想だにしないものであった。
それこそ、どこかの世界に置いてきたような。
だから、聞き間違いでないことを祈りつつ、彼女は男に聞き返す。
「今、なんて……?」
そんな彼女を感情の籠っていない目で見つめつつ、男は淡々と答える。
「元の世界に帰りたいか。」
その答えは、先ほどメグルが聞いたものとたしかに同じであり、彼女の胸は否応なく高鳴る。
しかし、だとしたらなぜ目の前の男は自分に戦いの訓練をさせたのだろうか、という疑問も生じる。
自然の中で、野生と戦いながら過ごした日々。その後にこの提案をするというのは、理にかなっていないように思う。
「帰りたいわよ、当然。」
だが、多少の疑問を持ちつつも彼女は男の言葉にそう応じる。
「ならば、送り届けよう。かつて存在していた世界へと。」
男が手を掲げ、掌をメグルに向ける。
彼女は、それを遮るように、やはり腑に落ちない疑問を投げかける。
「なんで今あたしを帰そうとするのよ。なんのためにあたしはあそこで戦ったのよ。」
──力を育ててもらう。
そう言ったのは目の前の男であったのに。
彼女の問いかけに、目の前の男は迷うことはなく答えた。
「運命の前において些事は切り捨てられる。これは、運び屋の運命なのだから。」
これ以上の質問は許さないとばかりに男の掌が輝き、メグルの周りを白い炎が包み込んで、彼女は何度目かの浮遊感に包まれた。
目も開けていられないような眩しさから解き放たれ、メグルはゆっくりと目を開ける。
その目に飛び込んできたのは古びた神社。どこか見覚えがあるような気がするその佇まいに、彼女は必死に記憶を探る。
「あっ、町外れの……!」
そして、思い出した。ここは、幼い日に彼女の祖母と遊びに来たことのある神社だと。
思い出した途端にここでの思い出が浮かび、帰ってきたという実感が彼女の胸に去来する。
「家に帰らないと。よくわからないことになってもう1年半くらいよね……?お母さんなんていうかしら……。」
あまりにも長い期間家を開けていたことに一抹の不安を感じつつ、メグルは神社を出ようとする。
──ガサッ!
「っ!!」
歩き出した彼女の背後で音を鳴らした茂み。その音に驚き、警戒し、彼女は腰につけてある短剣に手をかけてそちらに素早く体を向ける。
茂みから現れたのは、野良猫。恐らくこの神社に住み着いているのだろう。
メグルはホッと息をついて短剣から手を離す。
「そうよね。ここにあの猿はいないんだから、こんなに警戒しなくてもいいんじゃない。」
と、そこで今さっき無意識に手を伸ばした自分の腰に巻かれている短剣の存在を思い出す。
こんなものを大っぴらに見せつけていたら間違いなく警察のお世話になることだろう。
少し考えて、彼女は腰の低い位置に布で固定していた短剣を、ジャージの内側、つまり懐に隠れるように巻きつけた。
「まあ、これでなんとかなるわよね……。」
神社から出る前に気づいてよかったと思いつつ歩き始めたその時、首筋を刺すような視線を感じて再度振り向く。
だが、そこにあるのは今にも崩れそうな神社のみで、人影も、先ほどの野良猫の姿もなかった。
気のせいだろうと、メグルは改めて歩き出し、神社を出た。
──そんな彼女を神社の陰から見つめる人影。
擦り寄ってくる黒猫を撫でながら、獲物を見つけたように、喜ばしく、艶めかしく、しかしどこか無邪気な、常人が見たらゾッとするような笑顔を浮かべるのだった。
懐かしい地元の風景。
1年半以上にわたって異世界を転々としていた彼女にとっては、それは心落ち着くものであった。
走る車、スマホを見ながら行き交う人々。以前ならば鬱陶しいとさえ思っていたかもしれない風景も、今の彼女にとっては暖かな安らぎすら感じてしまう。
そんな中を、駅を経由し、自宅の方へ歩いて行くメグルは他人から見ればやや挙動不審にも思える行動をとっていた。
「っ!!」
例えば交差点。そこから普通に出てくる車。自転車。その接近してくる音に過敏に反応してしまう。例えば道端。背後から迫ってくる知らない足音。何か物が落ちる音。道路から聞こえるクラクション。ブレーキ音。信号が青であることを示すメロディー。コンビニの入店音。散歩する犬の鳴き声。周りから感じる音。気配。
全てが野生と戦う森で鍛えた感覚を刺激する。
その度に小さくまたは大きく反応してしまう彼女は、街の中で浮いた存在であった。
街を歩く人は、怪訝な顔をしながらメグルを見て、追い抜いていく。
なんだか取り残されたような気持ちになったメグルは、近くにあったベンチに座り、大きく息を吐く。
「なんでこんなに気を張ってるのよ、あたし……。」
その必要はないとわかっていてと、染み付いた感覚が離れない。
ズレた感覚が戻らない。
メグルはもうひとつ息を吐く。
空がどんよりと曇り始めた。
「だめだめ。あたしは家に帰るんだから。」
頬を両手で軽く叩いて気合を入れてメグルは立ち上がる。
あまり様子は変わらずも、先ほどよりは慣れた足取りで彼女は歩みを進める。
そして、地元の駅前にたどり着いた。
「やっとここまで来たわね……。」
久しぶりに見る景色に観光地にでも来たようにしばらく見回してしまう。
本屋にでも寄ろうかと思ったもののお金なんて持っていないことを思い出したメグルは、また来ればいいと思い、再び歩き出した。
その直後、彼女は背後から足音を殺しながら、しかし漏れる含み笑いは殺せずに忍び寄ってくる数人の存在を感じる。
その数人の気配が極大に達しようとした瞬間、メグルは思い切り振り返る。
『げっ……。』
メグルと、その肩に手をかけようとして動きを止めた2人の女子──髪も染まり、化粧はしっかり。まさに"今どき"という言葉がしっくりくる。──が、互いに顔を見合わせて嫌な顔をした。
流れる沈黙を破ったのは、背後から寄ってきた女子のひとりだった。
「やっほ。珍しいじゃん、アンタがこんなとこいるなんて。」
「……。まあ、いろいろあるのよ。」
メグルは、嫌そうな顔をしながらふたりから目をそらす。高校の同級生。それも苦手だった部類のふたりと出くわしたのだ。
そんなメグルの様子を面白そうな顔をしながらふたりは語りかけ続ける。
「てか、アンタも大学っしょ?確か嬰區行ったって聞いたし。」
「それが高校のジャージで駅前うろつくとかマジうけるんだけど!」
自分たちの服と、メグルのジャージを見比べ、嘲るように、下品に笑う。
そして、笑いながらふとなにかに気がついたように彼女に近づき、ニオイを嗅いで再び爆笑する。
「てかあんたそのジャージ臭っ!!何そのニオイウケる!!」
「うわ、ホントだ!なにこれ、動物園が腐ったみたいなニオイする!ウケるわ!」
「どんだけ洗ってないの?てかどんなことしたらそんなニオイつくのよ。くっさいわ~~。」
メグルは、なにかを堪えるように奥歯に力を入れる。彼女はここ1年半、洗濯はできるものの、洗剤等はない世界を生きてきた。そんな中を共に過ごしたジャージの状態など、語るまでもないだろう。
そのことを指摘し、なにがおかしいのか腹がよじれるように笑う2人組の意識をそこから逸らそうと、メグルは彼女らに質問を投げかける。
「あんた達は今何してんのよ。」
その質問の意図は、この駅前で何しているのかということであり、それを聞いたらとっとと別れたいという算段であったが、ふたりの脳内では、最近どんな生活をしているのかとなり、ふたりは最近の近況について語り始める。
「アタシら?アタシらも大学生に決まってんじゃん。アンタよりはレベル低いけどね。」
「今サークルでダンス始めたんだよアタシ達。イイ感じっしょ?彼氏もできたし大学生活エンジョイって感じ!」
『ねー!』
近況を楽しげに語り、顔を見合わせて笑うふたり。メグルはふたりのことが苦手であったが、その笑顔はとても眩しく見えた。女子大生としての生活を楽しんでいるであろうその姿が。
「そう……。」と沈んだ面持ちで応えたメグルに対して、先ほどの彼女がした問いを聞き返される。
「そういうアンタはなにしてんの?サークルとかさ。」
その質問に対する答えを彼女は持っていない。しかし、まさか異世界を転々としていたなどと答えられる訳もない。だが、なにかを答えるべきだと感じ、ここ一年半でしたことを思い返してみると、最近では野生の猿との殺し合い。その前は魔王討伐。炊飯と応急処置の教示。そして護身術。
やはりこの世界で、この年齢の少女がやることでは無いと思う。
少し考えた上で、メグルは質問に答えるために口を開く。
「あたしは、そう。最近は武道とかを少し。」
その言葉が予想外だったのか、ふたりは驚いた後に再びニヤニヤとメグルにとって嫌な笑みを浮かべる。
「へぇ……。あの教室で大人しかったアンタが武道なんてやってんだ?」
「マジで!?ウケる~。」
そして、ひとりがメグルの方に1歩を踏み出しながら言う。
挑発するように、小馬鹿にするように。
「じゃあ護身術とかできるんでしょ。襲われた時にどうするか見せてよ。こんなふうに襲われた時にさあ!!」
敵意に満ちた、刺のある口調でそう言って、メグルの腕を掴もうと右手が勢いよく伸ばされる。その様子を、もうひとりの女子はやはりニヤニヤ笑いを崩さずに見ている。ふたりは、高校時代運動ができる方であった。少なくともメグルよりは。その印象を持ちながら、慌てる彼女を見たいのだろう。
だが──
「っ!!」
パンッと左手で軽く、伸ばされた腕を払い、右足から女の正面に踏み出す。そして、右手は腰に、腕を払った左手は喉に目にも留まらぬ速さで当てられた。自然な、澱みのない動きで。
メグルの動きにふたりが反応したのは、全てが終わった後だった。
『えっ……?』
「あっ……。」
何が起きたのかわからない様子のふたりと、咄嗟に自分の体が動き、知り合いの首に手をかけ、あまつさえ短剣がそこにあったとしたらそれを抜きさえしていたであろうことに気がついたメグル。
双方呆然という様子であったが、メグルが慌てて手を離す。
「ご、ごめん……。」
申し訳なさそうに目をそらすメグルを、悔しさや苛つきを内包したような眼差しで睨みつける。
そして、シラケたような口調で言い合う。
「なーにマジになってんの。そういうのないわー。」
「ほんとないわー。」
メグルは下を向き、グッと唇を噛んでふたりの声をやり過ごそうとする。
下を向きながら彼女は思う。体が自然に動く。自然に動いてしまう。
このふたりと彼女の間にある差は、この決定的な差が生まれた要因は、当然のように知れているのだ。
どんよりと厚い雲に覆われた空から、雨粒が落ちてくる。
徐々に強くなるその雨に、ふたりは慌てたように「雨やばいじゃん!」「カラオケでもいこ!」と言い合い、メグルのことなど忘れたように走り去っていく。
予報にはなかった雨に、駅前を歩く人々も小走りになりながら、立ち止まり、俯くメグルの横を通り過ぎていく。
雨に打たれているのを感じながら、メグルは考える。
ふたりとの間に出来てしまった差。そんなものは、もう、"住んでいる世界が違う"としか言えないじゃないかと。
過ごした環境が違う。経験が違う。吉事が、凶事が、押し付けられた運命が違う。1年半。短い様で、長い。決定的な差が生まれる、大学生の1年間。
彼女達が入学した頃、メグルは護身術を学んでいた。彼女達が新しい環境に慣れ始めた頃、メグルは友との悲しい別れをしていた。彼女達が大学生を楽しみ、青春を謳歌していた頃、メグルは野生の中で戦っていた。
そんな差。感覚の齟齬。メグルはこの世界と“噛み合って”いない。
自分にも、彼女達のような生活があったのではないか。知らない世界と戦う日々ではなく、あんな明るい生活が。遠くなっていく同級生の背を横目に見て、メグルは大雨に打たれながら歩き始める。
ふたりとは逆方向に、俯きながら。




