第十三話
混乱し、逃げ惑う人々。
その中でひとりの少年が弓を構えていた。
その視線の先には、逃げる人々を襲う瘴気を纏った巨猿。目の前にいる人間をその腕で薙ぎ払い、叩き潰す。
少年は息を乱しながら巨猿に狙いを定めている。
だが、体勢を低くして人を襲う巨猿に当てるためには、村人の間を縫って射るしかない。
――動け、動けっ!
自分の体に指示を送ろうとするも引いた弦を離すことができない。
彼の体を縛るのは、自分の矢が村人を殺してしまうという恐怖。
だが、少年が躊躇っている間にも巨猿は次々と走る人々を殺戮する。
そして、巨猿の剛腕が走っていた少年の母を捉えようとしていた。
――ダメだ……。射たないと……。
母親の背後に迫った巨猿はその腕を、彼女を標的にするように振り上げ――
「射てよおおおおおおおおっ!!」
少年の自身に対する叫びは、激しい雨音に溶け、虚ろな目は巨猿の腕の下に広がる血だまりに向けられている。
激しい雨に打たれながら射てなかった弓を地面に落とす少年を、刀を持った男達が追い抜いて巨猿に向かっていった。
少年の目の前は霞み、その体は誰かに抱えられて巨猿がどんどん遠のいていった。
「っ!?」
ゲンジは布団を跳ね上げて勢いよく起き上がる。
――久しぶりにこの夢か。
額いっぱいの汗を拭い、フンと鼻を鳴らして彼は顔を洗いに川へと向かった。
メグルがこの世界に滞在し始めてから7ヶ月ほどが経ち、何度も何度もゲンジと共に猿との戦いに身を投じるうちに、メグルはあることに気がついていた。
メグルが一体の猿と相対している。互いに目を合わせて様子を窺う。
一見膠着した状態であるが、気圧されていたのは間違いなく猿の方であった。
しびれを切らしたようにメグルに向けて一歩を踏み出した猿の動きを見てから、メグルも動き出す。彼女の方に全力で飛んだ猿の動きを冷静に見て、殴りかかってきた腕を、斜めに体を捌きながら取る。そして力任せに体を捻りながら地面に猿の背を叩きつけた。
そして、起き上がろうとした猿の首元を斬りつけて絶命させる。
その時、メグルの正面の茂みから新たな猿が飛び出してきた。
それは子猿のようで、親を殺されたように猛り狂ってがむしゃらに突っ込んでくる。
「子どもっ!? ゲンジ!!」
ゲンジの今の位置と技量を考えると充分子猿を撃ちぬけるだろうと考えて、彼女はゲンジの方に視線を移す。
だが、ゲンジは少し斜めに移動して射線を広くしようと動く。
その間にも、すばやい子猿がメグルの方にグングンと近づいてくる。
間一髪、メグルに子猿の手がかかる直前に射線を通したゲンジの矢が子猿を捉えて絶命させる。
力尽き地面を滑る子猿の土埃を腕で避け。ゲンジの方を改めて見る。
「危なかったあ……。」
「悪い。」
素っ気なく答え、倒した猿を村に運ぶ用意をするゲンジを後ろから見てメグルは複雑な顔をする。
以前にもこういうことはあった。
普段は動く猿の瞳を射抜けるほどの精密な弓の腕を持っているにも関わらず、メグルが射線の一部に入っている場合はそれがたとえ射抜くためにベストなタイミングであっても彼女を射線から外す為に動くのだ。
そのためにメグルが余計に危険に晒されることもあった。その度にメグルはそのことに苛立つよりも、“らしくない”という感情が先行するのであった。
ある夜、ゲンジが夜警の任務に就いておりイワオの家には彼とメグルだけであった。
食事をしながらメグルはふと彼にゲンジのその癖について聞いてみた。
すると、イワオは少し苦い表情になりつつ語り始めた。
「我々が巨猿に襲われて前に暮らしていた村を追われたという話はしたな。その時、その巨猿と最初に相対したのはゲンジだった。村人が逃げるのを縫って射たねばならなかった。当時のゲンジの腕でもそれは可能だっただろう。しかし、あいつは躊躇った。射てなかった。そして、あいつの目の前で多くの人が蹂躙された。その中にはワシの妻。つまり、あいつの母親もいた。」
メグルは、ジッとイワオの目を見てその話を聞く。
「目の前で母を殺され、呆然とするあいつを逃がしつつなんとか撃退には成功したが、あいつはそれから射線に仲間がいる時に矢を射てなくなった。」
「そんなことがあったんだ……。」
「ああ。だが、それができなければならない時は必ず来る。その時はメグルよ、どうかあいつに発破をかけてやってほしい。」
そう言うイワオの目は真剣で、メグルは自信なさげとはいえ、しっかりと頷く。
「わかったわ。できる限り……やってみる。」
メグルのその答えに、ゲンジは満足したように破顔するのであった。
――その数日後、夜警をしていた村人が木々をなぎ倒しながら何かが迫ってくるのを目撃した。
木々の間から夜闇よりも黒い瘴気がわき出すように噴出する光景に、村人は声を荒げる。
「奴だ! 奴が来たぞおおおおおお‼」
その叫びに反応し、村の家々に火の明かりがつき始める。
示し合わせたように逃げる準備を始める者や、迎撃の準備を始める者。その対応は早く、メグルもゲンジにたたき起こされて眠い目を擦って村の中央に集まっていた。
「皆、奴がまた襲撃してきた。今度は負ける訳にはいかん。」
イワオはそう言うと村人の顔を見回して、その闘志に満ちた顔に満足げな顔をする。
「我々の手で今度こそは村人を護る。だが奴は強い。故に、若者達は退避する者たちの護衛について欲しい。」
その言葉に、ゲンジが声を荒げる。
「親父! 俺はあいつと――」
「いかん。」
それをイワオが静かに諫め、釈然としない表情のゲンジに語りかける。
「奴への対処法は、前に撃退した我々がよく知っておる。大丈夫、夜が明ける前には終わる。お前たちはそれまで戦えぬものを守ってくれ。」
それは村長でもある父親からの命令。ゲンジは釈然としないながらも頷く。
そして、メグルの方を見て続けて語る。
「メグル、ゲンジと共に村人たちの護衛を頼む。」
「わかった。」
メグルも頷き、いまだ不服そうな顔をするゲンジと村人と共に村から離れた川辺に避難しするのであった。
夜明けまであと2時間。
メグル達は村から30分程の距離にある川辺に集まり、周囲を警戒しつつイワオの帰還を待つ。
幸い、夜明けまでに猿による襲撃はなかった。
しかし、巨猿との戦いに向かった村人はイワオも含め誰一人帰ってこなかった。
「メグル、様子を見に行かないか?」
しびれを切らしたようにゲンジが呟く。
「でも、ここでみんなを置いて行くわけにもいかないじゃない。」
メグルは、怯えた表情で身を寄せ合う村人を眺めてゲンジをたしなめるようにそう言う。
その答えにゲンジは小石を軽く蹴って不機嫌そうな仕草をする。
すると、村の方角にある茂みからガサガサと何かが近づいてくるような音が聞こえた。
メグルは短剣を構え、ゲンジは弓に矢をつがえて臨戦態勢をとる。
次第に音が近づいてきて、茂みから飛び出してくる。
「あっ!?」
その姿を見てメグルは思わず声を上げた。
現われたのは、イワオと共に巨猿の討伐に向かった村人達であった。
火傷のような傷や、引っ掻かれたような傷を負った者も多いが、まだ戦える者も多い。その様子を見て、メグルは巨猿との戦いに決着がついたと思い、その顔に喜色を浮かべる。
だが、すぐにその顔ぶれの違和感に気付く。
イワオがいないのだ。
「ねえ、イワオさんは……?」
メグルが不安そうに尋ねると、戦いに出ていた者達はみな、目を伏せて悔しそうに俯いた。
数秒の沈黙の後に、村人のひとりが絞り出すように話す。
「ヤツは以前よりも強かった。我々では致命傷を負わせることができず、その攻撃で多くの物が負傷した。その様子を見た村長が、俺たちを逃がしてひとりで……。」
絞り出すようなその言葉を聞いて、ゲンジがボソッと呟く。
「バカ親父……。」
ゲンジは弓を肩にかけて歩き出す。
その様子を見てメグルは思わず声をかける。
「ゲンジ、どこ行くの!」
「決まってる。あのデカいののところだ。」
固い決意の籠ったその声に、メグルは引き留めるという考えが起きなかった。
代わりに思い浮かんだのはイワオとの会話。
――あいつに発破をかけてくれよ。
今がその時なのかもしれないと感じ、メグルも短刀を鞘に納めてゲンジのあとに続く。
「みんな、ここまで来たばっかで申し訳ないけど、戦えない皆を守ってあげて。」
「メグルとゲンジはどうするんだ?」
村人の問いに、ゲンジとメグルは意図せず声を合わせて答える。
『アレと戦ってくる。』
息の合ったその言葉にメグルはニッと笑い、ゲンジは小さく鼻を鳴らした。
そしてふたりは歩みを進める。
目指すは村。そこでひとり戦うイワオを助けるために。
村へと向かう道中、無言で歩くふたり。その沈黙を破ったのはメグルであった。
「ねえゲンジ。」
呼びかけられてゲンジは疑問の色を目に湛えつつ振りかえる。
「なんだ。」
「ゲンジさ、あたしが射線にいるとき射つの躊躇うでしょ。」
「……そうか?」
その言葉に動揺はなかったが、いつものような即答ではなく不自然な間があった。
「数か月一緒に戦ってるんだからわかるわよ。今日はあたしがいてもちゃんと射ちなさいよ。あんた弓の腕はいいんだから。」
そう言ってゲンジを抜いて歩き出したメグルの背中を無言で見つめ、ゲンジはまた歩き出すのであった。
茂みに身を隠し、ふたりは巨猿の様子を窺う。
村の様子は散々だった。家は壊され、倒れた燭台から燃え移ったのか燃えている家も多い。
そんな村を悠々と歩くのは巨猿。
「あいつだ……。」
ゲンジは怒りを押し殺したような声音で呟く。巨猿に目を奪われているゲンジとは対照的に、メグルはイワオの姿を探すように村全体を見回す。だが、どこを見ても巨猿以外の姿はない。
「ゲンジ、イワオさんがいない……。」
「親父ならどっかで隠れてるだろ。大丈夫だ。」
小さな声でやり取りをするふたりであったが、巨猿は何かを感じたように顔を上げて周囲を窺い、メグル達の方に赤黒く光る眼を向け、その広角を引き上げた。
「気づかれたっ!」
ゲンジはそう叫ぶと、メグルに手で散開の合図を出し、茂みを出て駆け出す。
メグルもすぐに短剣を抜いて茂みを出て駆ける。
メグルのゲンジの姿を確認し、巨猿は吼える。その声は一帯に反響してふたりの耳を打つ。
あまりの声量に思わず足を止めたメグルに向けて巨猿がその3メートル以上はあろうかという巨躯で飛びかかる。
「っ!!」
咄嗟に横に転がり、彼女を引っ掻こうとするように振り下ろされる腕をかわす。
そしてすぐに立ち上がり、着地したばかりの巨猿の腕に体ごとぶつかるように短剣を突き立てる。
その刃は腕に刺さるものの、巨猿は少し呻くのみでその腕をブンと振る。
「きゃあっ!!」
投げ飛ばされるようになったメグルは受け身をとりつつ地面に着地する。剣は手元にあるが巨猿の様子を見ると効いたとは言えないようだ。巨猿の体には村人達との戦いで受けたであろう傷も見られるが、どれも大きなダメージにはなり得ていないようだ。
「思ったより、でかいわね……。」
巨猿を見上げ、そう呟くメグルの傍にゲンジが駆け寄ってくる。
「大丈夫か。」
「うん、受け身とれたし問題ないわ。」
メグルの返事に頷き、ゲンジは続ける。
「俺は回り込む。」
「じゃあ、なんとか攪乱だけでもしてみるわ。」
短い言葉で最低限のやりとりをして、ゲンジは背後に回るように動き、メグルは少し震える足を抑えつつ真っ直ぐ巨猿に向けて駆ける。
巨猿は逃げるように動くゲンジを一瞥するものの、向かって来るメグルに相対する。
徐々に縮まる距離。巨猿は丸太のような腕を振り上げてメグルを迎え撃つ。
そのまま振り下ろされた腕をメグルは小さくターンして避ける。最低限の距離で避けた故に、彼女を掠めるように巨猿の腕が通って地面に当たり、大地を揺らす。
少しへこんだ地面を見て、メグルは少し冷汗を流す。
「こんなの当たらなきゃいいんだから……!」
避けた勢いのまま、メグルはすれ違いざまに巨猿の脇腹を斬りつける。しかしその手ごたえは薄く、すぐに振り返って巨猿の動きをじっと見る。
「ずいぶん厚い……。」
首を狙うという思考も浮かんだものの、その巨体を鑑みてその考えを頭の隅に追いやる。そして猿の背後から木々にまぎれ、恐らく自分の後ろに向かっているであろうゲンジのことを思う。
「あいつに決めてもらうしかないわね……。」
体に傷をつけたメグルを睨む巨猿を睨み返し、冷汗を流しながらメグルはそう呟くのだった。
木の上からジッと狙いを定めるゲンジはいつもより荒くなる息を抑えようと深呼吸を繰り返す。
そんな中で、彼は違和感を持っていた。巨猿が瘴気をまとっていないのだ。このままでは終わらないと感じつつ、ゲンジは弓を引き絞ってメグルとにらみ合う巨猿の目元に向けて引き絞った弦を離して矢を放った。
空気を切り裂きながら飛ぶ矢。顔に向けて正確に飛ぶそれを、巨猿は腕を掲げて妨げた。
「チッ!」
ジロッと巨猿に見られ、ゲンジは再び木々にまぎれて次のポイントを探すのであった。
ゲンジの矢が受け止められたのを見て、メグルはすぐに巨猿に向けて走り出す。
腕によって死角になっている左側から巨猿の懐に走り込み、胸元から腹部にかけて大きく切りつける。先ほど脇腹を斬った時とは違う巨猿の悲鳴を背に一気に駆け抜けて、すぐさま振り返って様子を伺うと、巨猿は動きを止めていた。怪訝な顔をしつつも好機と見てメグルは再び駆け出す。
その瞬間、生暖かい風が彼女の肌を撫でる。生暖かいにも関わらず、彼女の体はブルッと震える。
思わずメグルは足をとめ、巨猿を見た。
木の上でジッと様子を見ていたゲンジもその風を感じ、厳しい顔をする。
ふたりの見つめる先で巨猿の周りに集まるように風が吹き、それがだんだんと黒く、昏い瘴気を運んでくる。
ピリピリと肌を刺すような雰囲気の変化にメグルは唾を飲む。
止まったメグルに対して、ゲンジはすぐに動き始めていた。
瘴気を集める巨猿の斜め前からその眼に向けて矢を放つ。
だが、巨猿はその腕を振り上げて先程のようにその矢を防ごうとする。
先程との違いは、その腕に絡みつく瘴気。それは腕に刺さりそうな矢の勢いを止め、見当違いな方向へと弾き飛ばす。
腕に瘴気を纏った巨猿は嗤うようにその広角を上げてどこまでも響きそうな咆哮を上げるのだった。
「ホアアアアアアア!!!!」
木々が震える中、巨猿はゲンジがいる方向めがけて腕を振るう。
すると、瘴気の塊が彼めがけて飛来する。
「クソッ!」
咄嗟に木から飛び降り、地面を転がる。
燃える村と我が物顔で立つ巨猿、それを見上げる自分。いつか見たような光景にゲンジは歯を食いしばる。
「ゲンジ!」
心配したようなメグルの声に、彼女の方を見て頷く。
「倒すぞ。」
メグルに言ったのか、自身に向けて言ったのかわからないような声量でそう呟き、彼は再び立ち上がった。
大丈夫そうなゲンジの様子にホッと息をつき、メグルは巨猿の方を見据えて飛び出す。
自分の剣では致命傷を負わせられないことを彼女は悟っている。
「ゲンジ!あたしが隙を作るからいつもみたいに1発で仕留めなさいよ!」
その言葉にゲンジが反応したのを見て、メグルは飛び出す。
そんな彼女に気がつき、巨猿は腕を振るう。すると、鞭のように伸びた瘴気が飛び出してメグルに向けて襲いかかる。それを、ステップを踏んで避けると、猿に肉薄し、体勢を低くして地面を滑るようにしながらその刃を巨猿の右脚、人間のアキレス腱の位置に走らせる。
確かな手応えに応えるように、巨猿は悲鳴を上げて腕に纏っていた瘴気を散らしながら、手を地面につける。だが、体を捻ってすぐさまメグルを殴り飛ばそうと拳を振るう。虚をつかれたメグルは、咄嗟に腕を交差させてクリーンヒットを免れようとする。何かが破裂したような激しい音と共に、巨猿の拳がガードを固めたメグルに叩きつけられ、彼女はあっさりと吹き飛ばされる。
地面を転がり、木に衝突。息を強制的に吐き出され、メグルは大きく咳をする。
「痛っ……。」
ガードをしても体の内側まで浸透してきた衝撃。そのあまりの痛みに立ち上がれない。
ゲンジは、メグルが殴り飛ばされる光景を見て息を詰まらせる。
そして、矢筒に手をかけるもここでハッとした表情に変わる。3本しか矢が入っていないのだ。
「あの時っ……。」
瘴気塊を避けるために木から飛び降りた際に落としてしまったようだ。
巨猿がメグルに追撃をしようと立ち上がり、その体に瘴気を再び纏いつつ、ゆっくりと立ち上がれない彼女の方に近づいていく。矢を射ようか迷った彼は、矢に手を伸ばした手を止めてメグルに向けて走り出す。
避けようと立ち上がったものの、足がうまく動かない彼女に迫る拳。紙一重のタイミングでゲンジは突き飛ばすようにメグルと共に地面に倒れこむ。拳は彼のすぐ側の地面に叩きつけられ、掠めた瘴気がゲンジの脚を炎のように焼く。
「うっ……。」
彼の顔が苦痛に歪んだのを見てメグルは慌てたように声を出す。
「ゲンジだいじょ―――」
「隙、作るんじゃなかったのかよ。」
メグルの言葉を遮るように放たれた痛みを感じさせないゲンジの声で、メグルの顔が落ち着きを取り戻す。
「言われなくても作るわよ!」
自分の上に覆いかぶさっているゲンジを押しのけてに立ち上がり、巨猿に再度向かっていく。
それを見送って立ち上がり、ゲンジは矢を弓につがえて巨猿に狙いを定める。
自分に向けて吼える巨猿に臆しそうになる心を必死に抑えつけつつメグルは走り、巨猿が腕を振って縦横無尽に放つ瘴気の鞭を避けながら、隙を作る方法を考える。
先ほど斬りつけた右脚を引きずっている様子を見るに、左脚も同様に斬りつけられれば大きく動きを止められるはず。
そう考えて、メグルはゲンジの方に目配せし、指で上を示す。
目が合ったゲンジはその仕草を見て、立ち上がって腕を振るう巨猿の顔面目掛けて矢を放つ。
「グオォッ!!」
うなり声を上げて、その矢を避けるために瘴気の鞭の一部を飛来する矢に向かわせ、目線もそちらにやった巨猿。
その動きの隙を逃さず、メグルは地面を強く蹴って瘴気の鞭の隙間をくぐり抜け、巨猿の脚元に踏み込む。そして、先程と同様に左脚の筋の付近を斬りつける。
「グッ!?」
短い悲鳴を上げて巨猿が再び地面にその手をつく。
だが、巨猿は右腕を軸にしつつ左腕でゲンジに向けて瘴気の塊を放つ。
ゲンジは舌打ちをして、脚の痛みを堪えつつ横っ飛びして避ける。
――この猿の動きはだいぶ小さくできた。あとはあの腕だけなんとかすれば…!
しかし、その腕には瘴気がまとわりつき、とても触れられるような状態ではない。触れたら、先ほどのゲンジや村人のように火傷のような傷を負うことになるだろう。
一瞬、踏み出しを躊躇したメグルであったが、すぐに巨猿の後方から左側に駆け、渾身の力で蹴り出して左腕に肉薄する。
そのメグルの体にまとわりつこうと濃い瘴気が蠢き、メグルは覚悟を決めたように歯を食いしばる。
「あたしだって、やれるんだからっ!!」
そのメグルの叫びに呼応するように、彼女の提げているネックレスが光り輝いて目前に迫っていた瘴気を消し飛ばす。
「やあああああああっ!!」
瘴気のなくなった腕に向けて短剣を突き刺し、勢いのままに地面に押し倒す。
「ホオオオオオオッ!!」
必死に腕を上げようとする猿の二の腕を突き刺したナイフを抑えつけて、メグルはゲンジの方を見る。
――射って……!!
その視線の先のゲンジは、弓を思い切り引き絞ったまま、生気のない顔で硬直していた。
メグルが巨猿の腕を組み伏せている。
今が好機。今なら眼孔を射抜ける。
頭ではわかっている。だが、体が言う事を聞かなかった。
巨猿の顔面の側にメグルがいて、少しでもズレたら彼女に当たる。それが分かってしまった時点で、ゲンジの目の前は初めて巨猿と相対したあの日のものに変わっていた。
自分の方に向けて逃げてくる村人。巨猿に追われる母。
そんな幻視の中で、ゲンジの腕は弓を引き絞った状態で鍵がかかったように止まってしまった。
「射てよ……!射たなきゃあの時と同じじゃないかっ……。」
状況の理解は出来ている。それでも思い通りに行かない体。
こんなのどうしようもないじゃないか、動かないんだから。そんな諦念が、彼の視界を暗く閉ざす。向かってくる村人や母親の幻視も徐々に閉ざされ、彼の目の前が真っ暗に――
「射ちなさいよっ!バカゲンジッ!!」
なろうとした瞬間、暗い視界の中に光が瞬く。それは徐々にその輝度を増して、ゲンジの目の前にある暗闇を打ち払う。
明るくなった彼の視界に飛び込んで来たのは、巨猿の腕を思い切り抑えつけながらゲンジに視線を送るメグル。必死の形相で、彼女は叫ぶ。
「あたしに色々言っておいてできないなんて許さない!アンタの腕なら大丈夫なんだから、なにも心配せずに射ちなさいよ!射てええええええええっ!!!」
その様子に、ゲンジは指先まで血が巡ったような感覚になる。
冷えた体に温度が戻り、息を思い切り吸って、狙いを定める。
目線を少しメグルの方にやって小さく頷くと、彼女も少し広角を上げた。
彼女の拘束から逃れようと巨猿が力を思いきり入れた瞬間、彼は強く引き絞った弦を放し、矢を放つ。空気を切り裂く音を立てながら飛翔する矢は巨猿目掛けて鋭く飛び、深く、深くその左眼孔に突き刺さる。
それを確認する間もなくゲンジは最後の矢をつがえ、すぐさま放つ。それは寸分の狂いもなく巨猿の右眼孔に突き刺さり、悲鳴を上げる間もなく巨猿の体の力が抜け、絶命した。
巨猿の纏っていた瘴気は溶けるように消え、森の中はシンと静まり返る。
「やった!!」
汗まみれで拳を握り、喜ぶメグルと大きく息を吐いて弓を下ろすゲンジ。
メグルはゲンジの方に歩み寄り、彼に向けて手を掲げる。
彼も同じように手を掲げ、ハイタッチをする。
パンッと小気味よく鳴った音の後、少しの間を開けてゲンジが呟く。
「村は酷いな。」
「ほとんど壊されてるわね……。」
ゲンジはメグルに背を向けて村を見回す。すると、倒壊した建物のガレキが動く。
まだ敵がいるのか、とふたりは身構えたものの、そこからゆっくりと出てきたのは傷ついたイワオであった。
「っ!親父!!」
ゲンジがそちらに駆け寄り、イワオは笑顔で、駆け寄ってきた息子の肩を叩く。
「イワオさん、よかった……。」
イワオが生きていたことに安心して少し笑顔を浮かべつつ、ふたりの様子を眺めるメグル。
その脳裏に、久しぶりに聞くあの声が響いた。
『浄化の願いは成った。命の運び屋は直ちに帰還してもらう。』
短い言葉と共に、メグルの体は光に包まれて目の前のふたりの姿も霞んでいく。
「えっ……待って!」
まだお別れを言ってない。そう言おうとしたが、彼女の視界は完全に光に包まれ、この世界から姿を消した。
「ハッハッハ!よくぞふたりであいつを倒したものよ!」
笑いながら肩をバンバンと叩くイワオになすがままにされつつ、ゲンジは考える。
――あいつがいなかったら、俺はまた同じことになっていた。
どこから来たのかもよくわからない根性なしと思っていたメグル。共に戦う中でその成長を見て、最後は助けられた。
――礼くらいは言わないとな。
イワオに背を向け、メグルの方へと振り返る。
「メグル――」
振り返った先には誰もおらず、ただ壊れた村があるのみであった。
「っ……?」
呆然と立ち尽くすゲンジ。木々の間から朝日が差し込み、強い風が彼の頬を撫でた。
「メグル……。」
ゲンジの小さな呟きは風に乗り、森の中に吸い込まれて消えていった。
光から解き放たれたメグルの目の前に立つのは、細いあの男。
「運び屋、ご苦労であった。願いは成就し、世界は救済された。」
「アンタ、ほんと問答無用ね。少しくらい話させてくれたっていいじゃない。」
「感傷は不要。悠久の時に於いては些事に過ぎない。」
淡々と言う男に、メグルは小さくため息をつき、地面に座り込む。そこでふと猿に殴られた身体が痛くないことに気がつく。
――こいつがなんかしたのかしら。
ジトっと男を見ていると、彼が口を開く。
「運び屋よ――」
またすぐにどこかに飛ばされるのかと、少し身構えるメグル。そんな彼女の耳に、思いがけない言葉が飛び込んできた。
「元の世界への帰還を望むか。」
「……え?」




