おじいさんのケヤキ
星屑による、星屑のような童話です。よろしければ、お読みくださるとうれしいです。
しかし今回、いったい「おじいさん」という言葉を何回使ったことでしょう――。えーと、数えてないので、わかりません!
そろそろ春も終わりという、そんな時期でした。
日増しに高くなる、お日さま。ほほに当たる、少し熱を帯びた風。
もう何十回も経験したであろう、そんな季節を肌で感じながら、セイキチという名のおじいさんが、杖を突き突き、新緑溢れる公園にやってきました。
とめどなく流れる汗を腕でしきりに拭いながら、公園の片隅の古ぼけたベンチに座った、おじいさん。その目の前には、立派なケヤキの木が一本、すっくと立っています。
おじいさんは、まるで永遠に時間が止まったかのようにじっと動かないで、見上げるように、しばらくその木を眺めていました。
しゃんしゃんしゃんしゃーん しゃんしゃんしゃんしゃーん
気の早いセミが、遠くで鳴き始めます。
すると、まるでその声が止まった時間を動かしたかのように、不意にセイキチじいさんが、杖にのしかかるようにして立ち上がったのです。
ケヤキの木へと、ゆっくりゆっくり近づいていく、おじいさん。
「元気じゃったか? わしは、もう八十才をとうに超えた――。見てのとおり、よぼよぼのじじいじゃ……。思えば、あんたとは長い付き合いじゃの」
おじいさんは、そのしわだらけの手でケヤキの木を優しく優しくさすりながら、目をつぶりました。おじいさんのまぶたの裏に、昔の出来事が映し出されます……。
◇◇◇
――セイキチじいさんは、まだ十才。小学校高学年の、夏休みの日のことでした。
まだ子どもだったおじいさんは、「おじいさんのおじいさん」に手を引かれ、このケヤキの木の前にやってきました。
まだここは、公園がつくられる前の世界。ケヤキの木の周りは、一面の草の原です。傍には、水面のキラキラと光る、小川が流れていました。
「セイキチ、このケヤキはなあ、もう百年生きとんじゃよ。すごいじゃろ」
おじいさんのおじいさんは、言いました。
「ふーん……じゃあ、この木はおじいさんのケヤキなんだね」
「うーん……まあ、そうじゃな。わしより、ずっと長生きじゃ」
子どものおじいさんが、麦わら帽子のひさしの下から見上げると、ケヤキの葉が春の暖かい風に吹かれたらしく、そよそよとなびきました。
これが、セイキチじいさんとケヤキの木の出会いだったのです。
それから、十年が過ぎました。セイキチじいさんは、二十才になっていました。
このとき、おじいさんの国は外国と戦争をしていました。おじいさんはそのとき大学生でしたが、国の命令で、兵隊にならなければいけなかったのです。
秋も盛りの十月。とうとう明日には、軍隊に入らなければいけない、という日がやって来ました。
「若い」おじいさんは、一面の落ち葉を、ぱりぱりと音を立てて踏みながら、とぼとぼ、力のない足どりで、ケヤキの前にやってきました。ケヤキの葉が黄色く変わったほかには、十年前と何一つ変わっていない気がします。
「……」
おじいさんが、黙ったまま、きらりと光るナイフのような刃物を、ポケットから取り出します。そして、ケヤキの木の幹に『生きて帰る』と、小さく角ばった文字で、刻んだのです。
それから、愛おしく、ケヤキの木を見上げたおじいさん。その目からは、幾筋もの涙がこぼれ落ちていきました。
そのとき、風もないのに、ケヤキの枝がさやさやと揺れました。それはまるで、おじいさんをはげましているかのように、おじいさんには思えました。
またそれから、四十年――。あっという間に過ぎ去って、セイキチじいさんは六十才になっていました。
その間、セイキチじいさんはあの戦争を生きぬいてこの国に戻り、懸命に働いたのです。
そんなおじいさんが、久しぶりにケヤキの木を訪ねたのはまだ冷たい風が残る、冬の終わり頃のことでした。一面の草原だった場所が、今では公園の一部。あの、眩しいほどキラキラと光った小川は、いくらあちこち見回してみたところで、どこにも見あたりません。
四十年も前に刻んだ字。それが、微かに残っているのを見つけると、おじいさんは懐かしそうに、ケヤキを見つめました。
「元気だったか、ケヤキのじいさんよ。オレの会社勤めも終わった。これからは、ゆっくりできると思うから、よろしくたのむよ」
おじいさんがそう言うと、ケヤキの枝は、不思議とざわざわ、揺れました。
◇◇◇
――まったく夢のように、時間は過ぎていってしまったもんじゃ――
長い長いトンネルのような思い出から、目が覚めたおじいさん。
そのとき、ふと、自分の横で、セイキチじいさんの名前を呼ぶ人がいることに、気付きました。
ゆっくりと目を開け、声のする方向に向く、おじいさん。するとそこには、透きとおったように白い肌をした高校生くらいの女の子が一人、立っていました。長い髪に切れ長の眼、絹のような艶のある白い布でできたワンピース――。
それが誰だか覚えがないおじいさんは、ゆっくり、首をかしげました。
「あんた、誰じゃ?」
「私は、このケヤキの木の妖精です。私も成長して、やっとこうやって姿を見せられるようになりました」
「この木は、じいさんの木なんじゃろ?」
「まあ! じいさんだなんて! いつだったか枝を揺らしてお知らせしたんですが、おわかりになりませんでしたのね……。私は女ですし、千年くらい生きられますから、まだ若い娘なんですよ!」
妖精は、可愛らしく、そして、少し怒ったような表情で、言いました。
これには驚いたセイキチじいさんでしたが、
「おお、そうじゃったか、そうじゃったか――。そうよの、木は人間なんかより、よっぽど長生きじゃ。これは失礼した!」
と言って、頭を下げました。それを見た妖精の娘は、顔をほころばせるように微笑みました。
それから、数時間。
若く美しい妖精と昔の話をたくさんして、楽しい時間を過ごしたおじいさん。
そのお話の中には、当然、楽しい話も、辛い話も、悲しい話も、色んな話が詰まっていました。けれど、そうやって話せることが、おじいさんにとって素晴らしい時間となったのです。
気がつくと、もう日が暮れそうになっていました。
「それでは、おじいさん。私はもう帰らねばなりません。またいつか、お会いしましょうね」
妖精は、慌ててお別れを言うと、陽炎のように、ゆっくり静かに、消えていきました。
公園のベンチに、深く腰を下ろしたおじいさん。
「――じいさんの木が、実は若い娘じゃったとはのう。まいった、まいった。あっはっは」
おじいさんの皺だらけの顔が、久しぶりに、笑顔でくちゃくちゃになりました。
ケヤキの枝が、やさしく、やさしく、揺れました。
〈おわり〉