シュレーディンガーの猫 〜推理好きな下女が事件を解決〜
スラムの埃っぽい空気は、今日も私の肺を満たしていた。
カミラ、それが私の名だ。
この澱んだ街で生まれ育ち、今は貴族の館で下女として働いている。
私は学ことが好きだ、しかしスラム育ちゆえ学校には行けず、独学で物理を学び、その奥深さに魅了されていった。
ニュートンの法則、量子力学、相対性理論…それらは私にとって、世界を解き明かすためのパズルであり、最も心を揺さぶられる趣味なのだ。
知られれば、異端児としていじめや陰口の対象になる。だから、ひたすら隠し続けている。
ある日、事件は起きた。仲の良かった下女仲間のリリーが、裏庭で無残な姿で発見されたのだ。
その知らせは、私の心を深く抉った。リリーは、いつも笑顔を絶やさない、ひだまりのような存在だった。
彼女の無残な死は、私の心に黒い塊を落とし、復讐の炎を燃え上がらせた。絶対に犯人を突き止めてやる。その日から、私の日常は一変した。
リリーの死から数日後、同じ館で働く下女の一人が突然姿を消した。その翌週には、また一人。不穏な空気が館中に立ち込め、貴族たちの間でも囁きが飛び交うようになった。
そして、最悪の事態が訪れた。私は、警察に事情聴取されることになったのだ。
「カミラさん、あなたはリリーさんと親しかったと聞いています。そして、彼女の死後、立て続けに人が消えている。何か心当たりはありませんか?」
刑事の鋭い眼差しが、私の全身を射抜く。私は、震える声で答えた。
「いいえ、何も…」
確かに、リリーの死体を発見したのは私だった。そして、失踪した下女たちとも、少なからず接点があった。
状況証拠は、私を犯人だと指し示しているようだった。しかし、決定的な証拠がないため、私は解放された。
館に戻ると、周囲の視線が突き刺さった。遠巻きにされる。誰もが、私が犯人ではないかと疑っている。孤独感が、私の心を締め付けた。
そんな中、一人の男性が私に近づいてきた。
「君、大丈夫か?」
彼の名は、アレン。
スラム出身だと言っているが、その立ち居振る舞い、言葉遣い、そして何より纏う雰囲気が、上流階級のそれだった。隠しきれない育ちの良さが、彼の言葉を嘘臭く感じさせた。
しかし、彼の瞳には、偽りのない悲しみが宿っていた。
「俺の友人も、この館で働いていたんだ。だが、彼は数日前に失踪した。もしかしたら、君の仲間たちと同じ事件に巻き込まれたのかもしれない」
アレンの友人が失踪したという事実が、私の中で彼への警戒心を和らげた。
彼は、私と同じく、大切な人を失った人間なのだ。私たちは、互いの目的のため、手を組むことになった。
最初の現場検証は、私にとって冷静な観察の場となった。リリーの死体があった裏庭には、争った痕跡があったが、目立つ外傷は少なかった。しかし、足元に残された僅かな土の乱れに、私は奇妙な違和感を覚えた。
「これは…慣性の法則が働いた結果にしては、不自然すぎる」
アレンは私の独り言に首を傾げたが、私は構わず思考を巡らせた。
一般的な争いであれば、体が投げ出されたり、引きずられたりする際に、土にはもっと明確な跡が残るはずだ。
だが、ここにあったのは、まるで何かが急激に停止し、その衝撃が地面に伝わったかのような、限定的な窪みだった。
「リリーは、何らかの物体にぶつかったか、あるいは何かに強く押し付けられたのかもしれない。その際、彼女の体が急停止し、その運動エネルギーが地面に伝わった…」
私の推測は、事件の様相を大きく変える可能性を秘めていた。
アレンは、持ち前の情報収集能力を活かし、失踪者たちの共通点を洗い出した。
彼らは皆、裏口から街に出た形跡があったこと、そして、それぞれが何か「秘密」を抱えていたこと。
一方、私は、館の内部事情や下女たちの人間関係に詳しく、アレンが集めた情報と照らし合わせながら、事件の糸口を探した。
捜査を進めるうちに、私たちはある事実にたどり着いた。
失踪者たちは皆、貴族の館の「裏帳簿」に関わっていた可能性がある、ということだ。裏帳簿は、貴族たちが不正な取引や蓄財を行っていた証拠であり、それが明るみに出れば、彼らの地位は失墜するだろう。
「もし、この事件が裏帳簿に関わっているとしたら…犯人は、貴族たちの誰か、あるいは彼らに雇われた人間かもしれない」
アレンの言葉に、私は背筋が凍る思いがした。貴族に逆らうことは、スラムの人間にとっては死を意味する。しかし、リリーの無念を晴らすため、私は引き下がれない。
失踪した下女たちの部屋をこっそり調べていると、一人の部屋の窓枠に、小さなひっかき傷を見つけた。
それは、ごく僅かなものだが、私には見逃せなかった。
「この傷の深さと形状…まるで、何か硬いものが、かなり高速で擦れたような跡ね。摩擦力にしては強すぎるわ」
私は以前、スラムで捨てられていた壊れた小型ドローンを修理したことがあった。
その経験から、高速で移動する物体が接触した際に生じる物理的な痕跡を、ある程度予測することができたのだ。
「誰かが、この窓から何かを投げ込んだか、あるいは何かが高速でこの窓にぶつかったのか…いずれにせよ、それはただの偶然ではないはずよ」
アレンは、私の言葉に驚きを隠せないようだった。
「まさか、そんな小さな傷から、そこまで読み取れるのか?」
私は微笑んだ。
「傷跡は、嘘をつかないから」
そして、私たちが得た情報と物理的な証拠を突き合わせる中で、ある推測が浮上した。失踪者たちは、裏帳簿の秘密を「運び出す」ために、ある特別な方法を使っていたのではないか、と。
ある日、アレンのスマートフォンが鳴った。
「…見つかった? どこだ!?」
電話を切ったアレンの顔には、安堵と同時に、深い苦痛が浮かんでいた。
「俺の友人だ。発見されたらしい。病院にいるって」
私たちは、急いで病院へと向かった。病室の扉を開けると、そこには、変わり果てたアレンの友人の姿があった。
彼は、ひどい怪我を負っており、意識は朦朧としている。彼の頭部には大きな包帯が巻かれ、顔色は土気色だった。
「…誰、ですか…?」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように、私たち二人の心を切り裂いた。事件の真相は、彼の記憶の中に封じ込められている。しかし、彼が意識を取り戻し、記憶が戻るまで、私たちは何もできない。
彼の怪我を診た医師は、首を横に振った。
「頭部に強い衝撃を受けたようです。おそらく、力積が大きすぎたのでしょう。この状態では、記憶が戻るかどうかは…」
物体に作用した力と時間の積が、運動量の変化をもたらす。彼の頭部に加わった衝撃は、脳に回復不能なほどのダメージを与えたということだ。
入院した友人の姿を見つめながら、私は唇を噛みしめた。事件は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。この事件の裏に隠された真実とは何か? 犯人は一体誰なのか?
そして、失われた記憶の先に、何が待っているのだろうか? 私は必ず解き明かす。
〜つづく〜 わけない




