第7話「怒りを忘れた国」
農場の朝は早い。まだ空が紫に染まり、ひんやりとした空気が肌を刺す。土の匂いとわずかに残る焚き火の香りが混ざり合い、遠くで鶏の鳴き声が聞こえた。ゼントはノゾミの寝顔に布団をそっとかけ直し、荷車の取っ手に手をかける。
王都へ向かう道は、冬の土が固く、音を吸い込むようだった。 荷台には今朝収穫したばかりの根菜と葉物野菜。品質は上々。にもかかわらず、最近は卸値が伸び悩んでいる。
「また、安く買い叩かれるんだろうな……」
王都の市場は、今日も静かだった。 人はいる。だが、誰もがそそくさと歩き、値段を見ては立ち去る。 買い物というより、通り抜けるだけの場所になっていた。
通りの隅、老婆が焼いた芋を並べていた。陽に焼けた顔。しわの深さは、長年の労苦を物語っている。
馴染み客らしい男が声をかける。
「やあ、ばあさん、調子はどうだい」
「じいさんが逝ってから年金が半分になったからねぇ。この焼き芋の機械だけが財産だよ」
「このにおい、すきっぱらに効くんだよなぁ。つい買っちまう」
「値段上げてないのかい」
「あげたらとたんに売れなくなったからねぇ。前の価格に戻したよ」
「やっていけるのかよ」
「まぁ、売れ残れば自分で食べればいいしねぇ」
「年金は増額されてんのか? こんだけ取られてんだから、年金も上がってんじゃないのか」
「上がってないねぇ。まぁみんな我慢してるしねぇ」
「焼き芋買ってやりてぇけどよ……あ、そうだ。干し魚と交換でどうだい」
「おお、ありがとうよ。助かるよ」
「じゃあな」
通り過ぎかけたそのとき、ゼントは足を止めた。
(……売上税って、公平な税だと思われてる。金を多く使う者が多く払い、少ない者は税も少ない。社会の仕組みとしては、理にかなっているように見える) (それに、税金は年金や治療所、水道の整備、防衛費に使われてる。炊き出しだってあるらしい) (でも……) (使うたびに削られるこの仕組みは、逃げ道がない。じわじわと生活を絞られていく) (この構造自体が、人を黙らせてるんじゃないか)
——でも、それでいいのか?
自分は、芋を作れる。多少の無理がきく。家族が飢えることもない。 けれど、この老婆は?
売って、税を取られて、また仕入れて。手元に残るのは、干し魚数匹ぶんの利益すら危うい程度——ほとんど何もない。 明日の仕入れにすら迷うような暮らしのなかで、「我慢」はどこまで続くのか。
(“自分だけじゃない”と我慢する。それが、この国の空気なんだ) (誰かが声を上げようとしても、その空気が押し戻す。みんなが黙っていれば、それが正しいことにされてしまう) (そんな静けさの中で、本当の問題は誰にも見えなくなる)
老婆がぽつりとつぶやいた。
「……昔はこのあたりも、もう少し賑やかだったんだけどねぇ。みんな、どこいっちまったのかねぇ」
このまま黙っていていいのか——。 誰かに話したかった。誰かに、考えをぶつけてみたかった。
ゼントは考えた末、ヒロじいの家を訪ねた。売れ残りの野菜を手土産に、何か答えを求めて。
「ヒロじい、売上税のことを考えてたんだ。 例えば、みんなから15%ずつお金が消えていくとする。 そのあと、また取引すれば、また15%消える。 でも、もしその消えた分が全部どこかに戻ってくるなら……問題はないってことになる」
ヒロじいは、じっと聞いていた。
「……だが実際は戻ってこない」
ヒロじいが立ち上がり、引き出しをがさごそ探り出す。
「ようやくそこに気づいたか……わしはもうずいぶん前から、それを王に嘆願しておったわ。待っておれ、ええーっと、どこにやったかの……」
「じーじ、これ?」
「おお、これじゃ、ありがとう。これじゃよ。忘れんように直しておかんとな」
「ヒロじい、見せてくれ」
ヒロじいの手には、一枚のくしゃくしゃになった紙があった。娘の手で丁寧に伸ばされたらしい。 そこには、「売上税に関する意見書」と書かれていた。
かつてヒロじいが王に嘆願したものらしい。
── 売上税のメリット:安定した税収。徴税の簡素化。負担の“公平性”。
── 売上税のデメリット:経済の冷却効果。逆累進性。中小商店への過重負担。出生率の低下。
ヒロじいは、売上税の“本質”を見抜いていた。
(やはり、この税は経済を冷やし、縮小させる。そして、人口すら減らしていく……) (破滅的なシステムじゃないか……) (放っておけば、この国は静かに崩れていく。なら——)
「……もっと早く、わしが何かできておればのう……」
ヒロじいの言葉に、ゼントは言葉を失った。 王に嘆願しても届かない。そもそも、嘆願書は王のもとに届いていなかったのではないか——そんな現実を見せつけられたようだった。
どれだけ努力しても、仕組みそのものに吸い取られる。声を上げても届かない。
どうやっても勝てない。俺たちは、最初から勝者になれないルールの中で、ただ動かされるだけの——勝てないゲームのプレイヤーなのか?
ゼントの胸に、かすかに熱を帯びた思いが浮かんだ。
ずっと感じていたもやもや――この国を縛る“仕組み”の正体。それを、誰にでもわかる形で、目に見えるようにできたなら……。
「……ヒロじい、本当に、ありがとう」
ヒロじいは何も言わず、頷いた。 窓の外では、淡い曇り空が広がっていた。