第2話「見知らぬ記憶と売上税」
——また、あの夢だ。 今日も、誰かの記憶をなぞるような感覚で目が覚めた。
薄暗い小屋の天井を、じっと見つめていた。 外はまだ夜の名残が色濃い。鶏の声すら聞こえない。 けれど、体の感覚でわかる──もう、起きなければいけない時間だ。
目が覚めたのに、体が動かない。夢の中の景色が、まだ脳裏にこびりついていた。
見知らぬ部屋。知らない机と椅子。 無機質な声と、まぶしい白い光。まるで太陽のように光る板が、天井に張りついていた。
それは、何度も夢に出てきた、あの「場所」だ。けれど今朝は、やけに細部まで鮮明だった。
「……いつもより、はっきりしてたな」
ゼントはつぶやいて、のろのろと上体を起こした。 のどが渇いている。いや、口の中が乾ききって、張りついているような感じだ。 妙にリアルな感覚が、夢と現実の境目をあいまいにしていた。
「……やっぱり、あれは“誰かの”記憶なんだろうな」
何度も見るその夢。 他人の目で、他人の時間を追体験しているような感覚。 内容はいつも断片的なのに、朝になると奇妙な感情だけが残っている。
だが、今日の夢の“続き”は思い出せなかった。──まあ、今日は“空振り”か。
青年は苦笑しながら布団をたたみ、靴を履いて外に出た。 ひんやりとした朝の空気が、土と草のにおいを運んでくる。
ああ、ここは現実だ。自分の畑がある、あの世界とは違う。
腰に鍬をかけて、畑へ向かう。今日も、同じ日常が始まる。 野菜を育て、土に触れ、朝露に光る畝を歩く。 そして、ときおり夢で得た不思議な知識を、現実の農に生かす──そんな暮らし。
夢の中の誰かは、今も別の世界で生きているのだろうか。
そう考えた瞬間、畝の縁の小石につまずいて、ぐらりと体が傾いた。
「っとと……気を抜くとこれだ」
青年は自嘲気味に笑って、鍬を地面に突き立てた。 朝の光が、畝の先でまぶしく揺れていた。
◇
畑には、朝露がきらきらと輝いていた。 夜明けの冷たい空気のなかで、若葉の先に宿ったしずくが、まるで宝石のように揺れている。
青年は、軽く息を吐きながら鍬を手に取った。こうして土に触れる時間は、昔から好きだった。
「……今年も、いい土のにおいだ」
ひとりごとのように呟いて、ふっと笑う。
まずは根菜の確認。乾く前に収穫しておきたい。
鍬を入れると、すぐに柔らかい土がほろりと崩れる。 小さな芋が、顔をのぞかせた。
「……よし、いいサイズだ」
丁寧にかごへ移しながら、ふと空を見上げる。 朝日が東の空にうっすらと差し込みはじめていた。
この静けさ、この確かさ。 何も起こらない、いつもと同じ朝。
青年はかごを畑の縁に置くと、空の水桶を手に取った。 少し離れた井戸のそばにある木製の装置──夢の中の記憶をもとに作った、自動散水器。 滴るような魔力も、複雑な機械もない。 ただ重力と水圧、そして簡素な歯車の仕掛けで、夜明けとともに水が流れ出す仕組みだ。
「……この世界じゃ、ちょっとした発明だよな」
軽く誇らしげに笑いながら、桶に水を汲んで戻る。 家からは、かすかに煙が上がっていた。
「さて……そろそろ戻るか」
青年は鍬を肩に担ぎ、朝日を背にして歩き出した。 道具小屋に立ち寄って、帳簿を手に取る。 木の板に挟まれた手書きの帳面を開くと、昨日までの作業と出荷予定が並んでいる。
そして、赤く引かれた一文。 「売上税15%」──見慣れたはずの文字が、やけに目についた。
「……税が上がったんだよな」
ただでさえ暮らしはきついのに。これ以上、何を削れっていうんだろう。
ため息まじりに呟きながら、小屋をあとにした。
◇
家に戻ると、かすかに朝食の香りが漂っていた。 かまどの火と、湯気の立つ鍋の音。戸を開けると、妻のミキが振り返った。
「おかえり、朝早くからご苦労さま」
「もうちょっと寝ててよかったのに」
ゼントがそう言うと、ミキは微笑んで首を横に振った。
「ノゾミがね、夢の中で『ぱぱー』って叫んでたの。目が覚めたらいなかったから、泣きそうになってたよ」
とたんに、小さな足音がぱたぱたと近づいてくる。
「ぱぱー!」
ノゾミが両手を広げて駆け寄ってきた。
「おー、おはようノゾミ。今日はもう起きたのか」
ゼントはしゃがんでノゾミを抱き上げる。 温かい体温と、小さな手が頬をつついてくる。
「ねえ、きょうもおしごとー?」
「うん、でもノゾミと遊ぶ時間もちゃんとあるぞ」
そう言って笑い合うふたりを、ミキがやさしい目で見守っていた。
静かで、ささやかで、それでもかけがえのない朝の時間。
そんな日々が、いつまでも続くと思っていた──このとききまでは。