第1話「壁を削る音」
がり……ごり……。
やわらかいものが、石畳をこすっていく音。
血の匂い。うめき声。鎖の音。
視線を下ろすと、自分の両手が赤い。指先から滴っている。
──なにを、した?
ガシャリ、と鎖の音。
そこで初めて、誰かがつながれているのを見る。
でもその顔は、はっきりしない。
「おまえのせいだ」
その言葉だけが、耳に残った。
「……ん、のど、……いて」
口を閉じようとして、気づいた。
舌が、上あごに張りついていた。
のどが痛い。口の中はカラカラで、唾液がどこにもない。
それでもなんとか舌を剥がして、唾を飲み込もうとするが……ごくり、とはいかない。
目を開けると、天井の蛍光灯がまぶしく光っていた。
いつもの、長方形の白い光。でも、妙にまぶしい。
灰色の天井も、机の並びも見慣れているはずなのに、どこか遠く感じる。
──ああ、寝てたのか。
自分が口を開けたまま上を向いて寝ていたと気づいて、思わず頬が熱くなる。
あわてて身を起こし、周囲を見まわす。
教室は薄暗く、カーテン越しの午後の日差しに包まれている。
前の席の女子はノートをとっているふりで、スマホを膝の上に。
斜め後ろの男子は、ペンを回しては落として拾ってを繰り返している。
教壇では、催眠音波のような声が、抑揚もなく淡々と流れ続けている。
「経済活動とは、交換と分配の連鎖によって構成され……その基盤には信用という概念が存在し……税は、このように輸出企業にとっては優遇的に作用し……一方で、低所得者層にとっては逆累進性を持ち……逆累進性とは、所得が低いほど税負担が相対的に重くなることであり……」
まるで子守唄のように、単語が浮かんでは消えていく。
教室。現実。
なのに……胸の奥に、奇妙なざわつきが残っている。
夢のことを、覚えている。
あの音。
がり……ごり……。
やわらかいものが、石畳をこすっていく音。
血の匂い。うめき声。鎖の音。そして──
「……おまえの、せいだ」
声だけが、耳の奥にこびりついて離れない。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・制度などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。