「銀時計の目覚め」
夜の静寂に包まれた街を歩いていた。人通りの少ない道を、カツカツと靴音だけが響く。水瀬凛はその音に耳を澄ませながら、早足で自宅へと向かっていた。
大学の講義が終わり、友人たちとカフェで話し込んでいたら、すっかり遅くなってしまった。街灯が照らす歩道の隅に、何かが光っているのが目に入った。
「……時計?」
しゃがみ込み、そっと手に取る。それは古びた銀色の懐中時計だった。装飾が施された表面には、見覚えのない文様が彫られている。まるで西洋の古い工芸品のようだった。
カチリ。
手に取った瞬間、時計の針が動き出した。
その音と同時に、目の前が揺らいだ。
まるで世界が波紋のように歪む。
頭がくらくらする。視界がぼやけ、足元がふらついた。
「っ……なに、これ……?」
眩暈がする。気をしっかり持たなければと思ったが、意識が遠のいていく。
次の瞬間、彼女は漆黒の世界へと沈んでいった。
目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
霧がかった空の下、白い花が一面に咲き誇る庭園。風が吹き、花びらが舞う。どこか幻想的で、現実とは思えない光景だった。
「……君が、この時計を拾ったのか?」
背後から声がした。
振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。
長い黒髪を持ち、整った顔立ち。漆黒の衣装をまとい、鋭い瞳がこちらを見つめている。凛は思わず息をのんだ。彼の存在そのものが、この世界の雰囲気と同じくらい非現実的だった。
「あなた……誰?」
「黎……と呼んでくれればいい」
黎と名乗った青年は、懐中時計を指差した。
「君は、それを拾ってしまった。だから、ここに来たんだ」
「ここって……?」
「君の記憶の境界線だよ」
彼の言葉の意味がわからない。凛は時計を見つめる。確かに、これを拾った瞬間に意識が飛んだ。けれど、記憶の境界線とは?
「時計を捨てれば、元の世界に戻れる?」
凛がそう尋ねると、黎は微かに微笑んだ。
「試してみるといい」
言われた通り、時計を手放そうとした。しかし、不思議なことに指が動かない。まるで何かに縛られたかのように、手が離せなかった。
「……何これ?」
「君はもう、運命の扉を開いてしまったんだ。ここから先、真実を知るかどうかは君の選択に委ねられている」
黎の言葉に、凛の胸がざわつく。彼は何かを知っている。彼女が忘れてしまった“何か”を。
その瞬間、世界が白く染まった。
ハッと目を覚ました。
そこは自分の部屋だった。
夢だったのか?
だが、手にはまだ銀時計が握られていた。
夢ではない。何かが本当に起こっている。だが、何が起こっているのかはわからなかった。
「黎……」
彼の名前を呟くと、胸の奥がちくりと痛んだ。
まるで、何かを忘れてしまっているかのように——。
翌日。
凛は時計のことを調べようと、アンティークショップを訪れた。古い品物を扱う店なら、何か手がかりがあるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、店主らしき男性が現れた。
その姿を見た瞬間、凛は息をのんだ。
「……黎?」
昨日の夢で会った青年にそっくりだった。
だが、彼は微笑みながら言った。
「初めまして。僕は朝霧怜です」
名前が違う。
それでも、彼の存在は夢の中の黎とあまりにも似ていた。
「あなた……本当に、初めまして?」
凛の問いに、怜は優しく微笑んだ。
「さあ……どうだろうね?」
彼の瞳には、何かを知っているような光が宿っていた。
(この人は一体、何者なんだろう?)
そう考えた瞬間、懐中時計が静かに時を刻み始めた——。
登場人物
水瀬 凛(19)
大学1年生。好奇心旺盛だが、自分の過去に関しては意外と無頓着。銀時計を拾ったことで運命が狂い始める。
黎(???)
夢の中で現れる謎の青年。凛に「一度愛した」と語るが、その真意は不明。彼の正体とは?
朝霧 怜(22)
アンティークショップの店主。端正な顔立ちと冷静な物腰だが、時折寂しげな表情を見せる。黎にそっくりな容姿を持つ。
時守(???)
銀時計に関わる存在。彼の言葉には、凛の記憶を取り戻すヒントが隠されている。