流行ものを書いている作者と、流行ものを書かない作者の意見を同列に判断してはいけない、その理由
どういったものが良い作品かとか、そういうのではなく。
多様性はどこへいった? という単純なものでもなく。
自分で考えて行動しよう、と訴えたい。
タイトルで完結しているかな。
「なろう系」なんて呼ばれているような内容の小説を書いている作者と、それを読む読者。
そうした流行を無視して、コアな読者に向けて書かれた小説は、多くのネット小説のような「簡潔な読みやすい文章」とは違い、言葉によって読み手の想像力を刺激するような、描写の多い文章になりがちです。
さてそこで、小学生でも読めるような内容と文章で、どこかで見たような決まりきった展開だけを書きつづける作者と。
むずかしい内容とそれに見合った文章で、新しい物語を書きたいと思っている作者は、果たして同じ土俵に立てるでしょうか。あるいは立っているでしょうか。
現実問題として立っていません。
ネット小説の人気作と呼ばれるものは多くの場合、極端なまでのテンプレートが求められ、自由はなく、ヘタをするとタイトルまでどれがどれだったかわからなくなる始末。
それを異常だと思わない人と、異常だと思う人では、意見が食い違うのは当たり前でしょう。
同じものを見ながら、まったく違う捉え方(反応)をしているのですから。
素人の書いているものなのですから、本来ならいろいろなものが書かれ、内容も複雑多岐になるのではないでしょうか。
「何かの模倣でしかない」ものであふれるのは、さすがに健全な状態とは言えないでしょう。
なろう系を書いて多くの評価をもらっている作者が、「読者は自由に評価する権利がある」みたいなことを言っていたら、疑いましょう。
流行ものを書いている作者と、流行に流されない作品を書こうとする作者は、そもそも同じ土俵には立っていない(初めからランキングに乗るようなものを書こうとしていない)のです。
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それに小説はマンガとは違います。
ある人が「なろうで人気になりたければ○○のような作品を書けないと」と言っていました。
この○○というのは有名なマンガ家の名前で、「小説家になろう」でマンガ家の名前をあげる時点で、何か違うのではないかと違和感を覚えます。
話が脱線したかもですが、つまりそういうことです。
マンガ(あるいは一部のラノベ作品など)のように気楽に読める小説を求めている読者と書いている作者。
そうではなく斬新な、いままで読んだことのないような作品を求める読者。そうした読者に向けて書いている作者では、書きたいものも読みたいものも、なろうの流行とは違うのです。
そのまったく違うものを同列に扱えばどうなるか。それが現状の小説投稿サイトにあらわれているのではないでしょうか。
マンガのような単純な読み物を求める人が、むずかしく堅苦しい文章の物語に目をとおして気軽に低い評価を付けていけば、いまのような似たり寄ったりで、簡単な文章の作品であふれかえるでしょう。
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さらに無料の小説投稿サイトの利用で考えなければいけないのは、特定の人気作家の独壇場になることです。
(これは極端な言い方ですが)作品を投稿するたびに気軽に☆5を入れてくれる固定客の(お気に入りユーザ登録されて)いる作者が「☆1を入れるのも読者の自由だよね」などと言い、そうすることがさも良いことのように読み専に浸透していけば、ろくなことにはなりません。
新しく参入した書き手の作品はただでさえ読まれず、評価もされにくい状況です。コミカライズ作品やアニメ化された作品ばかりに目をとおしている人も多いのではないでしょうか。
それでは新しい(オリジナリティのある)作品はいつまでたっても埋もれたままになります。
流行に沿ったものばかり量産される状況を作るのもサイトの利用者です。それ以外に理由はありません(出版業界などの責任もあるかもですが)。
人気作と「同じような」作品に目をとおし、高評価し。流行と違う独創的な作品には否定的に☆1を付けていく。
それでは模倣作品ばかりが作られつづけるだけです。外部の人から「なろう系」と言ってバカにされるような状況を作っているのはだれなのか、なぜバカにされるのか、理解すべきでしょう。
「ランキングに文句を言うな」というのであれば、そうした偏ったランキングを生み出している作者や読者は、なろうの外にいる人からどう思われても仕方がない。とは思いませんか?
小説家になろうの読者が、なろう系以外の作品を求める読者が増えるようにと願っているところです。言葉足らずのところもあるでしょうが、似たり寄ったりなものばかり評価され、マンガじみた内容のものであふれている現状を変えようと努力している作者を応援してほしい。というのが一番の気持ちです。
流行に沿った作品ばかり書いている作者と、流行に反した作品を書いている作者。
それらを評価するのは読者です。
しかし否定するような評価づけをして、それで偏りが生まれている場合、その責任は評価している読者にあります。
排除するような行為は慎みましょう。わかりやすく言えばこのエッセイの主張はそんなところです。