2-4. しかし回り込まれた! 逃げられない!
「まーよかたい。それよりさ、本題なんやけど」
辻さんが、居住まいを正して真面目な顔をこっちに向けた。
ヤバい。
真面目なツラして目が笑ってやがる。
「おおっとそろそろ予鈴がなりそうだなぁ!」
本能の警鐘に従って僕は立ち上がろうとした。
「まだ時間有ったいね!」
しかし回り込まれた! 逃げられない!
座り直した僕はしぶしぶと、「本題って?」と尋ねる。
「来週、期末期間やん」
「うん。来て欲しくなかけど」
学生の逃れられない宿命の時期である。
「期末が終わった週末さ、久しぶりに晴れなんよね」
「そういや、そんな予報やったっけ」
辻さんの真面目な顔が崩れた。
にまぁ、と隠せない喜びが溢れ出ている。
「堂本君もだいぶ走り回っとぉらしいし。そろそろ行ってみようかロングライド」
「ろん……」
「おおっと! そういやアタシ(のバイク)、キズモノにされたんだっけなぁ!?」
その言葉の意味を頭が理解する前に弁当箱を抱えて腰を浮かせかけた僕を、辻さんが牽制する。
くっそぅ、それを言われると弱いっていうか、
「声! デカかって! あと誤解を招く気満々の言い方マジ止めろ下さいッ……!」
「ふーん。それは堂本くんの誠意次第じゃないですかねぇ~え?」
マジで無敵かよこの女。教室でその台詞を吐かなかっただけマシと思うべきか。
「……それで、ロングライドって、マジで?」
「マジで。出島。マジ出島。っていうかさ、期末終わるじゃん? 解放感サイコーじゃん? 晴れるじゃん?」
「うん」
「じゃあロング行くしかなかけんさ」
「なんでだよ」
「やっけんがさ。期末の解放感マックスで、しかも晴れ。故にロングライド鮎桶?」
「どんな三段論法だよ。つーかさ、何で僕と一緒になん?」
「ひっどー。堂本くんは責任を取ってくれんと? うわーひっど、男としてどうなんソレ」
「うっぐ……!」
人が反論できないところを突くなぁもう!
「冗談はさて置いてさ。アタシもまだそんな遠くまで出た事はなかっさね。Bianchiが初めてのロードやし」
「そがんなん?」
意外だ。
「てっきりもう何台も乗り回しとっとばかり」
「店の試乗車ならね。自分のバイクって意味では初めてやし、ソロのロングは兄ちゃんに止められとったし、ロード乗る友達なんておらんし」
あのバイクは店の手伝いと貯めた小遣いとお年玉をはたいて、やっと買ったものだという。
だから辻さん自身も、まだ島原市内から出たことは数える程しかなかったのだ。
「僕も色々ネットで調べたけど、ロードバイクって、ホント高かとね……」
「やろ?」
高性能高品質、故に高価格。
自転車に限らず、どんなものでも基本はコレだ。工業製品ならばなおさら。
だから銭失いとまでは言わないけど、安くてそれなりの品質のママチャリだったらホームセンターで二、三万くらいから売っている。なんならロードバイクもそれくらいの値段でありはする(怪しげなメーカーのものばかりだけど)。
でも有名なメーカーの、言い方は悪いかも知れないが、『ちゃんとした』メーカーのロードバイクのエントリーモデルが最低でもざっくり十万くらいからってのも本当なのだ。
ミドルグレードで二十後半から四十万。
メーカーの最新最高素材と技術を惜しみなくつぎ込んだハイエンドモデルは、百万円前後。
なんなら中古の自動車が買える金額。信じられない世界だ。
みのるさんが言っていた、百万円でプロと同じ機材ってはの誇張でもなんでもない、事実なのである。
ちなみに辻さんのBianchiとかみのるさんのLOOKは『ちゃんとした』どころか世界的に有名な自転車メーカーだ。
特にBianchiは、本社のあるイタリアの空をイメージしているチエレステという緑のような青がブランドカラーとして有名らしい。
辻さんがロードバイク傷つけられて怒った理由が今では尚よくわかるよ。
「やけん、友だちに軽々しく乗ろうよなんて誘えんとよ」
ため息交じりに辻さんが笑った。
自転車自体でそれだけかかる上に、ライトやヘルメットその他もろもろの周辺機材やらメンテナンス用品も必要になってくる。なんなら好みや用途に合わせてカスタマイズに何十万も注ぎ込む人までいる世界だ。
少なくとも中高生が、「この漫画面白いから買いなよ」のノリで気軽に友達に勧めてよい趣味じゃない。
「あたし自身はそりゃ、家が自転車屋やけんさ。ロード乗るのは当然の流れやったしさぁ。実際ソレで友だち無くしかけたこともあったけん」
「へぇ」
聞けば、ロードバイクをお勧めした友だちの一人が割と乗り気になったものの、親がその金額にたまげたそうだ。そりゃそうだろう、ママチャリのつもりで買いに来てみたらローン組んで二十万って言われれば、詐欺かなんかと誤解されても仕方ないかもしれない。
お店で契約書を前にその友だちのお母さんは怒って友だちは泣いて大変だったそうだ。
「そん時は父さんがさ、そうなるやろって機転を利かせてくれたけん良かったけどさ。しばらくその子と気まずかったけんね」
辻さん、遠い目。
「だろうなぁ……ん?」
ふと気が付く。
「僕は良かと?」
「うん。よかろ、別に」
「よかろって、軽かね」
十万二十万が入口の世界なんですけど。
「まだ別に買う買わないの話はしとらんしさ、それに」
「それに?」
「……もう片足突っ込んでっけん、引っこ抜けんやろ? あとは勝手に嵌って沈んでくれるかなーって期待しとるし」
「畜生! ぐうの音も出ませんよ!」
自覚アリアリですからね!
だから、ロングライドとやらに興味が全くないと言えば嘘になる。
胸中に浮かぶのはあの日の、雄大な普賢岳の姿だ。
だからつい、
「それで?」
と訊いてしまった。
「どこに行くつもりなん?」
その言葉を聞いて、辻さんは一瞬キョトンとした。
そしてニヤァ、と笑ったのを見て、僕はしまった、思った。
まさか辻さんは半ば冗談で僕を誘っていたのだと思わなかったのだ。
自分の失策に気付いた時には後の祭りだった。
「ごめんやっぱり聞きたくな――」
「小浜。行くよ。逃がさんよ」
あーもう!
やっぱり聞くんじゃなかったよ!!