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2-3. 昼休み、駐輪場で




 仏壇の前で手を合わせる。

 目を開けば線香が煙を立ち上らせていた。

 我が家の一階の奥にある仏間は、カーテンを開けていても電灯をつけていても、どこかうすら寒く、薄暗い感じがする。あるいは部屋全体に染み付いた線香の香りがそう感じさせるのか。

 ここは嫌だなぁ。

 他の場所と隔絶したような静けさのあるこの部屋は、いつも平野たちに連れていかれる校舎裏にどこか似ている。

 日向の裏側、熱の届かない場所、冷えた湿気が溜まる場所、生命の此岸に立ち彼岸を臨む部屋。

 大きくため息をつく。

 ロードバイクで走り回って開けた視界が再び閉じるような気がする。


「ケースケー。早よ出らんと遅刻すッよー」

「へーい」


 できるだけ明るい声で暗澹たる気分を隠蔽。正直アイツらとは顔を合わせたくないから学校に行きたくない。

 いっそのこと学校サボろうか。でも両親に心配をかけたくなかった。特にいまは高齢の婆ちゃんが体調を崩して入院しているから。

 そんなことを考えてると、傍らのスマホが鳴った。

 メッセージアプリに、辻さんの名前が浮かんでいる。


『昼休み、駐輪場で』


 思わず苦笑した。


「雨降っとっとにロードバイクで通学すんだ、辻さん」


 僕は傘と徒歩にしておこう。



  †



「よぉブタ。最近辻の奴と仲いいじゃねぇか?」


 教室に着くなり、平野が絡んできた。

 辻さんは良くも悪くも空気を読まない。廊下ですれ違ったりすると当たり前のように声を掛けてくる。

 互いに帰宅部でクラスも違うから僕と辻さんは表面上、学校内での接点が無い。その僕たちが最近妙に距離感が近いってことで、ちょっとした噂になってるらしい。しかも見た目がギャルの陽キャ辻さんと底辺オタブタの僕だから尚更話題として熱いようだ。


「仲いいとか、そんなんじゃ……辻さんのロードバイク傷つけたから、お金支払うことになったし」


 嘘ではない。直接請求はされてないけど。


「ふーん。かわいそ。じゃあついでに俺もカネ貸してくれよ」


 もうとっくにコイツラに何万円も取られている。当然返してもらったことなど無い。


「……あのロードバイク、何十万もするものなんやって。やけんその塗装やり直しで五万円掛っとってさ」

「ごっ……?」「マジか? ゴツかぁ」


 さすがの金額に平野たちもざわめいた。

 百万円の自転車が存在することを知ってる僕はもう感覚が狂ってるのかもしれないけど、ただの高校生にとって五万円ってのは小遣い何か月分、超のつく大金だ。

 しかし一方で、想像の付かないって程のものではない、現実感(リアリティ)を伴う金額でもある。


「だから、もう、僕もお金なんて無かよ」


 力なく笑うと丁度原田先生が教室に入って来た。同時にチャイムが鳴る。


「よーし、朝礼すっぞー。席に着かんかー」

「フン」


 平野は面白くなさそうに鼻を鳴らし、自分の席に戻って行った。僕は胸を撫でおろす。嘘は何も言っていない。



 つつがなく授業は進んで、昼休み。

 しとしとという擬音の通りに降り続ける雨を横目に弁当を取り出すと、向こうの方から呼ばれた気がして振り返る。

 教室内のざわめきが一瞬で引いて、沈黙と周囲の視線が僕の方に集まってくる。原因は一つしかない――辻さんがクラスメイトを避けてこっちに来る。

 周囲の興味津々な空気を全く読むことなく、辻さんは座って固まったままの僕に向かって言った。


「駐輪場、行こーよ。あ、ご飯無かけん、先に購買寄ってからね」


 無敵かよこの女。

 最近流れてる噂のこと、知らないのか?

 ダラダラと背中を流れる汗。

 ほら早よそれ早よさっさと行こで、と促され、凍り付いた空気の中を慌てて辻さんの背を追う。


「ちょ、ちょっと待ってよ辻さん!?」

「待たんよ。話したいことがあっけん、早よ」


 背中にクラス中の視線が集まってる。振り返るのが怖い。

 っていうか今まで教室にまで来たこと、最初の日のあの時だけだったじゃん! 校内で会ってロードバイクの話をすることはあったけど、流石に互いの教室に入り込んでくるってことまではなかったよ!?


「なんやなんや? どがんしたん?」「隣のクラスの辻に、ブタが連れてかれた」「噂ってほんとやったん?」「話ってなんやろ」「堂本くん? うっそなかなか。無かって」「いやー、わからんばい?」「ほら、蓼食う虫も好き好きって」「俺の辻ちゃんが……」


 無責任に囀るクラスメイトたち。

 教室に戻るのは昼休みが終わるギリギリにしようと決心して辻さんの後ろを追う。

 


「本当にロードで来たんだ……」


 駐輪場のトタン屋根を叩く雨音を聞きながら、膝の上に弁当を広げた僕は辻さんに言う。

 七月の半ば、そろそろ梅雨も明けようかという時期だが今日は雨。この駐輪場に置かれている自転車はまばらだが、彼女の背後には、愛車のBianchiがある。

 その辻さんは、購買で買ったサンドイッチとパックのコーヒー牛乳でお昼を済ませていた。しかし女子って、そんな少食で夜までよく我慢できるよね。


「やー、レインコートと根性だけじゃどうにもならん事も有っばいね。さすがに後悔したって、ビニールやっけん通気性なくて汗と体温で蒸れて不快やし、ローファーびしょ濡れになるし」

「靴下はどがんしたとさ」

「替えば持って来とったい」

「さいで」


 ドヤぁ、と胸を張る辻さん。

 ってかそこまでするなら諦めればいいのに。


「堂本くんはなんで兄ちゃんのバイクで来んと?」

「雨やっけんね!?」


 そいも結構ひどぉ降っとおばい!?


「そがんじゃなくてさ、普段からさ」

「ああ、そっち」


 僕の家は学校から徒歩で二十分ほどだ。ロードバイクなら十分足らずで到着するだろう。

 今日は雨だから徒歩で来たけど、普段もあのLOOKじゃなくていつものママチャリで通学している。


「あれは借り物やっけん。なんかあったら困るし、荷物とかもさ」


 ロードバイクは基本的に人間が乗って走って停止するためだけの機能しかない。当然前カゴなんて存在しない。

 だから通学に使うなら辻さんみたいにリュックに荷物詰め込んでくるしかないんだけど、丁度いいのを持っていないんだ。


「いっそのこと、ランドナーでも買ってからさ」


 ししし、と悪戯っぽい顔で辻さんが笑い、購買で買った菓子パンの袋を破りながら言った。


「ランドナー……ああ、旅バイクのこと」


 ロードバイクに乗るようになって、僕も色々と調べた。

 いつだったか自動車がそうであるように、と辻さんが例えたように自転車にも色々な種類がある。

 先ず大まかに分けると、通勤通学用買い物用で積載性の高いシティバイク――いわゆるママチャリと、対して諸性能が高いスポーツバイクの二種類。

 そしてスポーツバイクも更に細分化されて、街中を走るのに特化したクロスバイク、あるいはサスペンションと太いタイヤで不整地を走破するためのマウンテンバイク。

 そして自転車の中でも特に走行性能特化のロードバイク。僕がみのるさんに借りた物や、辻さんが乗っているのはこのロードなわけだが、走行性能特化のロードバイクと一言で言っても、その『走行性能』にも色々と解釈がある。

 走行速度そのものを追求するのか? 

 乗り心地走り心地を追求するのか? 

 重量や空力性能を追求するのか?

 ちょっと考えただけでもこれくらいの『走行性能』があるわけで、ロードバイクはそれ自体の中で、さらにジャンルが細分化されていった。

 

 ・速度を追求し空力性能を究めるエアロロード。

 ・基本性能や軽量性、総合力を高めたパフォーマンス。

 ・乗り心地重視、長時間走っても疲労度が少ないエンデュランス。

 

 ロードレースに参加するような人のバイクは大体この三つなんだけど、他にも、

 

 ・マウンテンバイクとの中間で、砂利道も走破するためのグラベルロードなんてのもある。

 

 それでランドナーとは、僕が呟いたように旅バイクのことだ。つまり、ロードバイクなんだけどそれに乗って数千キロ、あるいは数か月もの間旅を……例えば日本一周とかする事を目的にしているロードバイクだ。うん、自転車に興味ない人にはもう発想そのものがおかしいと言われかねない。

 当然キャンプ用品やテント、様々な荷物を入れたバッグをロードバイクに搭載しないければならない。

 ロードバイクには実は、後付けできるバッグ類が豊富に存在している。その多くはベルトやバックルで固定するものだけど、ランドナーは特にがっしり固定するためのキャリアやそのキャリアを装着するためのダボ穴が各所に存在するのだ。

 だからキャリーバッグ装備のランドナーなら学校の教科書くらい簡単に運べるわけである。


「ま、フツーのロード用の前カゴもあったりするとけどね」

「へぇ! そうなんだ」

「需要は供給の父やんね。ランドナーじゃなくてもロードで旅するロード乗り(ローディ)もおっけん」

「すげぇ世界だ……」


 趣味の世界はディープ過ぎる。


 ()()が存在するのは、誰もが薄々知っている。

 だけど足を踏み入れれば、()()は底なし沼だと思い知る。

 僕だってロードバイクの存在はなんとなく知ってたけど、頭のてっぺんまで沈み切ってる人たちのやってることはもうディープ過ぎて何が何だか……。


「自転車で日本一周とか想像もつかねー」

「プラモの塗装だって、アタシには想像もつかん世界やったけどね」

「うぐっ」


 僕は呻いた。

 僕の趣味がガンプラってことで、辻さんがちょっと興味本位で聞いて来た時怒涛の勢いでしゃべり倒してドン引きさせたのは先週のことだ。


「さ、最近のキットは素組みでも十分ディティール出てっけんそれなりに楽しめるばってん、やっぱ追求すっとンなら全塗装に興味でるのはしゃんなかけんさ、まぁ取りあえず筋掘りと墨入れからやってみぅだけで全然出来の違うけん、慣れてきたらレッドチップとか市販のデカールで情報量ば増やすと良かっちゃけど」

「なんば言うとっとかいっちょんワカラン!」

「いてッ」


 ゲシっと蹴られた。酷い。




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