2-2. そこに当たり前にあるもの
†
島原城のお堀は一周約1.5Kmだ。
そこをゆっくり流しながら二周し、市立図書館前に来たあたりで強く踏み込む。十分に加速したと判断し、後ろスプロケットを軽く、前スプロケを重くした。一気に足に掛る負荷が増える。脚の回転速度が遅くなるが、事前加速のお陰で速度自体は殆ど変わらない。
スプロケットを重くすると、ペダル一漕ぎ毎の後輪回転数が増える。
だからケイデンスが遅くなっても速度は変わらないし、ケイデンスを維持できるなら走行速度が上がる。
八尾病院の前の角をカーブする。
ロードバイクのタイヤはこんなに細いのに、びっくりするほど高いグリップでアスファルトに食らいつく。僕なりに車体を傾けたつもりだけどスリップすることもなくLOOKの白い車体はカーブを駆け抜けた。しばらく続く直線の先にクランクカーブ。
かつて島原城の本丸を守るためのお堀の中は、今は市民の憩いの場になっている。僕が今走っている辺りは季節折々の花が咲き誇る花壇があって、さっき駆け抜けた図書館前辺りは蓮園だ。秋にはでっかい蓮根が採れるらしい。
そこに当たり前にあるもの。
島原城も、普賢岳も僕にとってそこに当たり前にあるもの――そこに存在している背景だった。
だけどこうして意識して見れば、あるいはちょっと視点を変えてみれば、ただの背景が背景ではなかったことに気が付く。
お堀が蓮園だったり花壇だったりで地元の写真愛好家にとって格好の被写体だということとか、お堀周りがウォーキングやランニングの定番コースだったりするとか。
お堀周り唯一の信号は赤。僕は減速しながら軽いスプロケに変速して、ブレーキと同時にバイクから降りて足をついた。
最初戸惑っていたロードバイクの乗り降りもすっかり慣れたなぁ。
目の前の青信号の歩道をランナーが一人駆け抜けていった。反射素材のブレスレットが街灯を反射してきらりと光る。
多分学生――僕と同じ森高か、商高だろうか。彼は信号を渡る際に、車道にいる僕の方をちらっとみた。
一応自転車も車輛扱いなので、危険性が無い場合基本的に車道を走らなきゃならないってのは道交法で定められてるんだよね。
だから僕も今車道側で信号待ちしている訳だけど、この視点からの信号待ちって凄く新鮮だ。ママチャリの時は何の疑問も持たず歩道を走ってたから……ちなみに自転車は原則として車道走行と定められているけど、周辺状況が危険だと判断した場合に歩道に入っての走行も問題ない。自転車通行可の歩道もあるので、自転車で歩道に入り込んでいるからと言って、即ち違反ってことにはならないんだ。ただし、歩道では歩行者優先と定められているけれど。
信号が青に変わる。
直進すると学校の校門前に向かうが、左折してお堀と第一小学校の間の通りを走る。ここはわずかながら傾斜がついていることもあってシグナルスタート直後の加速も相まって地味に脚に来るんだ。その負荷を歯を食いしばって耐えつつ変速しながらグイグイ加速していくと、さっきのランナーと並んで――あっという間に抜き去った。
ぷはっ、と息を吐く。
「すごかなぁ、ロードバイクって」
いま追い抜いたランナー、多分運動部だろう。本職の陸上部? それとも野球部やサッカー部とかだろうか。
僕が彼とランニングで勝負したら、逆立ちしたって勝つことはできないだろう。体力体重筋肉量と勝てる要素が全く無い。
だけど自転車――ロードバイクはその差を簡単に埋めてくれる。スマホのアプリで現在時速二十五kmで走行している。つまり単純計算で、今の僕はマラソンの世界記録より速く走ることができる。
いやまぁこの速度、今の僕だと結構無理に踏んでるからスタミナ持つかどうかっていう問題もあるし、そもそも自転車乗ってる時点で、ランニングしてるひとに勝った負けたなんてズルいにも程があるけど。
っていうかマラソンの世界トップランナーの人たち、器具の力何も借りないで時速二十kmで二時間ぶっ通しで走り続けることができるのすげぇな!
僕なんかロードバイクの力を借りてやっとだよ。
ロードバイクすげぇし、人間もすげえ。
そんなことを考えていたら、視界の右側を凄い勢いで黒い影が追い抜いて行った。
「――――えっ?」
赤く点灯するテールランプ。
黒い車体に白いロゴの、ロードバイクだ。どこのブランドかまでは一瞬だったからわからなかった。
その黒いロードに乗っている人はすれ違いざま僕をちらりと見て、そのまま前へと視線を向ける。
驚きにぼうっとしたのはほんの一瞬で、次に僕はむっとした。
そりゃアナタは多分、ホンモノなんだろう。
なんかカラフルなロゴやマークの入った、体形にピッチリ沿ったサイクルジャージ。覗く太腿やふくらはぎは岩のようにゴツゴツしている。何ならそのふくらはぎ、僕が手を広げたよりも大きいくらいじゃないか。見るからに本格的にトレーニングしている人だ。
一方の僕はTシャツにハーフパンツ、見るからに体形もたるんでる。ド素人もいい所だ。ロードバイクに乗り始めて、まだ一か月足らずですよ。
それでももうすぐ百kmだ。
一瞬でも追いついてやる――ッ!
そう思って立漕ぎを始め、可能な限りの加速を……。
しかし僕のそんな決意など知ったことではないとばかりに、彼は座ったままでも僕の立漕ぎをあざ笑うような速度で直線を駆け抜けて、カーブへと消えた。
「……なにくそっ!」
諦めきれない僕も左カーブに突っ込む。
お堀と商業高校の間の狭い直線車道。赤いテールランプはざっと十メートル先。
「ふんっぎぎぎぎぎ!!」
向こうは余裕の座り漕ぎ。
こっちは必死の立漕ぎ。
流石に少しづつ差が縮まってくる。
顔面に当たる風のせいで目を細めながらも、もう少しで追いつけそうだ――そう思ったところで、お堀の形に添って右に、そして左にクランクカーブ。
再び前を走るライダーがこちらをちらりと窺った。僕が必死に追いかけて追いつきかけていることに気が付いた。
街灯に照らされて、彼の口の端が余裕の笑みを浮かべる。
そして前を向いた時、彼の姿勢が変わった。より前傾に、背中、足回り、肩、腕と全身の筋肉に力が漲るのが分かった。
その瞬間黒いロードバイクが一気に加速を始める。立ち漕ぎしてるわけじゃないのに尋常じゃないその加速。
今まで流してたんだ――と、思い知らされる。
尋常じゃない加速は重ギアだから。多分|前後一番重たい組み合わせ《アウタートップ》。
その重ギアでそのケイデンスは一体どういうことなの!?
お城の入り口前を一気に駆け抜け、更に左の直角カーブ。市立図書館前の直線へと突っ込んで――って、そんな速度で曲がり切れるものなの!?
僕がそのカーブに差し掛かり、曲がった時には既に彼の赤いテールランプは遥か彼方。
僕が百メートルかけてなんとか詰め寄せた五メートル差は、彼が本気を出した百メートルの間で十五メートルに。
いや本当に本気だったのかも怪しい。本気であっても、少なくとも全身全霊ではなかったよな。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……は、速ぇ……」
時速何キロでてたんだろ、あれ。
素人に毛の生えた僕でも全力でペダルを踏めば、ロードバイクならなんとか一瞬、時速40kmに届く。
でも今の人、瞬間で50とかそれくらい出てたんじゃないのか? ゆったり巡行速度なら30維持するくらいだろうか。
僕は意識して強めに踏んで巡行速度、20が維持できる限界なんですけど! それもちょっと斜度あったら無理なんですけど!
マジか。
化け物じゃねえか。
それともこれが標準の世界なんですかね?
「ぐぐぐ、ぐぅ、ううう……だめだ、限界ッ!」
この直線真ん中あたりの市立図書館前を僕が通過した時、彼は二十メートル先の次の角を曲がり切ったところだった。
スピードを緩めたせいで一気に体温が上がって、汗が噴き出してくる。額のそれを拭って、僕はお堀の角を挟んだ向こうを走る赤いテールランプの光をぼんやりとみていた。