1-4. まるで初めて見るかのように
†
駐車場をぐるっと一回り。
それだけ。たったそれだけ。
たったそれだけだ。
距離にして約十メートルか、二十メートルには届かないだろう。
高さの違いは重心の違いになるし、そもそもママチャリとは全く違う前傾姿勢。
多少のふらつきはあったけどなんとか辻さんの前まで戻って来て、
「ブレーキ……わわっ」
ぎゅっ、とブレーキレバーを握ると殆どタイヤがロックする勢いで止まった。半分前に投げ出されるようにして、ロードバイクから降りる。
「どがんね? 感想は」
「どがんも何も……なんか、なんかこう、凄か……!」
言葉が出てこない。
でも辻さんが言っていたことは、わかった。
ママチャリは籠もついているし、確かに軽トラ的だ。
『移動と運搬』を目的にしている。
でもこのロードバイクは違う。
籠が無いってことは基本的に荷物のことを考えてない。
そしてとにかく軽い。
さっきハンドルを持った時に感じた軽さが、そのまま走りに直結しているのがわかる。ちょっとペダルを踏んだだけでグンッて進むんだ。
レーシングカーが内装を外して何なら助手席すら重くて邪魔と外すのと同じように、あらゆる構造が突き詰められて、一つの目的に特化している。
もっと純粋に、『走る』ことだけのために生まれた自転車なんだ……!
比較対象がさっきまで僕の乗っていたママチャリだから、尚更その違いが分かってしまう。
まず重量が違う。
それにパーツ一つ一つの精度も違う。
僕のママチャリが錆だらけで注油していないことを差し引いても、ペダルやスプロケットの回転の滑らかさが違う。
そして多分空気抵抗とか、そういうパーツの形状一つとっても全く違う。
徹底的に無駄を削ぎ落して走行性能そのものを追求した自転車。
これがロードバイク……!
変速の仕方を教わって駐車場を何週かする。
「おわっ! すごか……!」
ギアを変えるとまたペダルの感触が全く別に変化した。
重いギアにすればペダルに跳ね返されるかと思うほど重たくなる。その分、びっくりするくらいに加速するんだ。
ギアを重たくすれば速くなる、それはママチャリでも変わらない。変速機の原理はロードバイクも同じだ。
だがその変化の度合いがママチャリとは段違いだ。重たくすればするほど、ペダル一漕ぎひと漕ぎが信じられない程重く、そして恐ろしい程の加速を得られる。
逆に軽くするとペダルの抵抗が無くなり、まるでチェーンが外れたのかと思うほど軽くなった。一番軽くすればスカスカ足が踏み抜けているかのようで、しかもどれだけ足を回しても加速が得られず平坦ではかえって走りにくい。
でも、なるほど。
辻さんがあんな壁のような坂を乗り越えることができた理由は、もちろん辻さんの脚力もそうだろうけど、このロードバイクというものの性能もあるってことか。
――だからと言って僕があの坂をこのロードバイクで、乗り越えることができるかどうかは別問題なわけだけど。
夢中になって駐車場をくるくる走り回っていると、いつの間にか辻さんがヘルメットを持っていた。スカスカに穴の開いた奴を、ふたつ。
辻さんの近くに停車するとそれを片方渡された。
「ほい、アンタのぶん」
「うわ軽っる!」
持ってみるとこれまたびっくりするくらい軽い。内側がスポンジ状で、外側は見た目の堅さに反して凄く軽い。合成樹脂が何かで出来ているらしい。
「せっかくやしちょっと走らん? あたしも行くけん」
一も二も無く頷いた。
「気ィつけてなー」
借りたヘルメットを装着し、みのるさんに見送られ、辻さんの後ろについて走る。
住宅地を抜けて、国道の大通りへ。
普賢岳登山口の十字路を横目に国道を進む。夕方ということもあって自動車の走行量も多いが、ここら辺は歩道が広いので問題なく走行できる。
視界に映る風景がぐんぐんと後ろに流れていく。
風を切り裂いて、という表現そのものの通り全身で風を感じている。
「なんやこれ……スゴか……スゴか……!」
「へっへ、やろ?」
ところが僕は、周囲の状況に気を配るどころじゃなかった。
ロードバイクというものの性能に圧倒されっぱなしだった。いや、さっきの駐車場でわかったつもりになっていたが、まだ理解度が足りていなかった。少し前を走る辻さんが得意げな顔を見せるのも無理はない。
こんなに細いタイヤなのに地面のグリップが強い。
あとは多分、車体の剛性っていうやつ。
剛性が足りないとタイヤが地面を蹴った力を受け止めることが出来ず、逃がしてしまって推進力に変えることができない。
一方地面からの突き上げだったりペダルの反発が乗り手の負担になるから、ある程度の柔軟性も必要だ。
軽さと剛性と柔軟性。そのバランスが凄い良い。
だからちょっと強くペダルを踏みこむだけで、機体がクイックに反応してくれる。
ブレーキも同じく、少し握りこむだけ思った通りに減速できる。
思い通りにロードバイクを操ることができる。
――楽しい!
走るのが楽しい!
思わず叫んだ。
「辻さん! 自転車って、こがんスゴかとね!」
「やろ! スゴかろ!?」
「うん!」
そんなことを話していると、目の前に橋が迫ってきた。その入口は結構な傾斜の坂になっていて、ママチャリだったら最初から諦めているところだ。
だけど今乗っているのは、段違いに軽いロードバイクだ。
肥満体形もいいところの僕でも、このバイクだったら――
唸れ僕の脇腹!!
重ギアに変えて、全力で加速しながら坂に突入。いっきにスピードを持っていかれるけど、どんどんギアを軽くしながら立漕ぎする。
「……ふっ! ふっ! ふっ! ふんぎっ!」
「おお! がまだせ堂本くん!」
前も後ろも一番軽いギア。
でもあと少し――もうちょっとで……ッ!!
くっそこの脇腹の贅肉が恨めしい……ッ!!
纏わりつく梅雨の重たい空気。歯を食いしばりながら、少しでも酸素を取り入れようと息を吸う。そして、そして――
「もうちょっとばい!」
「~~~~~~~~~ッッ!!」
越えた。
橋の上に出た。
坂を越えたんだ――僕が、自分の力で。
力が抜けた瞬間、どっと汗が出てきた。
荒い息のまま、殆ど呆然としながら辻さんの後ろを進む。
安徳町の街並みをふわふわした感覚で眺めながら走って、もう一つ橋を越えたところで前を走る辻さんが「曲がるよ」と合図を出してくれたのでそれに従う。
そこは『道の駅 みずなし本陣ふかえ』だ。道の駅自体の営業はもう終わっているんだけど、駐車場は開放されている。
その端にはちょっとした展望台が作られていて、僕たちはその傍にロードバイクを寄せた。
「奢っちゃるよ。アクエリでいい? っていうか汗スゴかけん、水分摂らんと脱水になるよ」
「あ、うん。ありがと……」
そう言って辻さんが自販機でアクエリアスを買ってくれた。
ふわふわした感覚のままペットボトルを受け取り、一口飲んだらようやく意識がはっきりしてきた。っていうか、汗をかき過ぎた身体がそのことに気付いて、水分を寄こせと猛烈に叫んでいる。
半分くらいを一気に飲んで、ぶはぁっと一息――ようやく、一息をついた。
「ここ……深江?」
「そ。ふかえ」
南島原市、深江町。
水無川を挟んで、島原市のお隣。
「展望台登ろーよ」
言われて、よれよれのまま階段を登り、正面を見ると、
「すげ……」
雲が晴れて、堂々と聳え立つ雲仙普賢岳の姿。
夕日を背に赤く輝いている。
島原って地名は、その人口規模に似つかわしくなく日本中に知られている。
理由は二つあって、日本史の教科書に必ず出てくる島原・天草の乱の舞台であったこと。
そして眼前にそびえる雲仙普賢岳が、日本災害史に残る大噴火を起こしたことだ。
この深江という場所。
そしてさっき必死になって越えた橋が架かっている水無川とその流域――今いるこの道の駅も、その平成の大噴火で最大の被害を出した火砕流の現場となったその跡地なのだ。すぐ背後には二階の窓まで土石流で埋まった家屋が保存されている。
「すげ……僕、深江まで来たんだ……」
TUZI BICYCLEからざっと五キロ。時間にして三十分に満たない時間。
でも今まで僕にとって自転車というのは、市内を動き回ったり通学に使うためのものだった。隣の市まで行くための手段じゃなかった。
僕みたいなド素人でも交通機関を使わず人力で、隣の市まで移動できる。そんなこと、それができるなんてこと、考えたこともなかった。
「すごかでしょ」
「うん」
三十年という時間が過ぎた今でも、ここから見る普賢岳の山肌は、火砕流と土石流の跡がはっきりと判る。
十六年の人生で何度となく見ていた威容だというのに、まるで初めて見るかのように、僕は言い表しようのない感動と共に普賢岳をみていた。
†
その日、僕は。
随分と久しぶりに平野たちに殴られたとかお金を取られたとかって内容じゃなくて、ロードバイクに乗って感動したっていう内容の日記を書いた。
みのるさんのお古のロードバイクを貸借り受けてそれで帰って来たこと、親に驚かれてひと悶着あったこと。
その後は日課のガンプラ作りのこともネトゲのログインボーナスをもらうことも忘れて、僕はネットでひたすらロードバイクについての情報と動画を漁っていた。