5-2. いっそ諦めることができれば楽になるのに
「よっす。昨日ぶり」
「おはよ、辻さん」
久しぶりの学校とあって、妙な懐かしさを感じて廊下を歩いているとぺーん! と背中を叩かれた。振り返るとそこにいたのは予想通りの辻さんだ。
昨日ぶり、というか最近トレーニングで一緒に走ってるので、毎晩のように会っている。昨日は島原復興アリーナの周りをぐるぐる走って、へとへとになったところだ。なお釜井さんが同行してくれたせいで散々引きずり回されて、もうね。死ぬかと思った。俺たちが維持できるぎりぎりの巡航速度を見極めるの上手すぎだろ。あれで本人はスプリントは苦手っていうんだからたまったもんじゃない。
それで二人並んで歩いていると、
「お前ンせいで、コーちゃんたち学校辞めることになったとぞ! どがんしてくるっとか!」
後ろから怒鳴り声を掛けられた。
何事かと振り返ってみると、そこにいたのは平野の取り巻きが二人、こちらを――というか俺を睨んでいた。
朝の喧騒が一瞬大きくなって、静まる。みんなが俺たちの方を見ているのが分かった。
俺は大きく息を吐き、吸う。自分の中の芯を定めるとそちらの方へと向かい合った。視線を合わせると二人は明らかに狼狽えた。田端と河野だったか。今までの俺とは明らかに違う態度に戸惑っている。
「あいつらが学校を辞めることになったとは、あいつの行いのせいやろうが」
「そいはっ……そぃばってん!」
「俺は!」
あえて大声を出して、ことさら周囲の耳目を集める。
「俺は言ったぞ。関わるなって。それは、お前たちもやぞ?」
「……っ」
二人は俺の言葉に押し黙った。
――あの勝負の後、平野のお父さんは独自に平野や他の奴らを集めて話を聞き、釜井さんを通じて学校にも働きかけて俺が、平野たちのグループにいじめられていたということを突き止めたらしい。決定的な証拠になったのは校内の監視カメラの映像で、俺が階段から突き飛ばされた場面がしっかりと映っていたそうだ。
平野のお父さん、そして他の親たちは激怒した。
俺の両親はもっと激怒した。
他人様の自転車を壊すことだけでも歴とした犯罪だというのに、人間一人を階段から突き落とすというのはもう、刑事事件になってもおかしくない話である。
結局、釜井さんを弁護士に立ててうちの親と平野たちの親が話し合いを持った、らしい。
らしい、と伝聞形なのは、俺は証拠として日記を提出しただけで、あとはもう関わりたくなかったからだ。少なくとも『関わるな』という条件をこっちから出した手前、俺自身はノータッチだ。
そこで初めて、親たちは『関わるな』の本当の意味を思い知った、というわけだ。
彼らの子どもたちは犯罪行為を犯し、表沙汰にはならない代わりに永遠に赦しも罰も与えられないのだと。
とはいえ、「だからはい、関わりません今まで通りに過ごします」というわけにはならないのが大人の世界。
日記と防犯カメラの映像から、特に俺に対するいじめを積極的に行っていたとして二人が転校することになった。平野自身は県外の親戚に預けられることになったらしい。
あとそれに加えて、治療費を含めた慰謝料が支払われることになっている、らしい。金額までは教えられてないし、もしかしたらまだ確定してないのかもしれない。
でも「車ン免許ば取ったら中古車でも買えばよかたい」と父さんが言ってたので、高校生にそのまま渡すにはちょっと大きい金額にはなるようだ。
平野と他二人は転校し、諸々込みで慰謝料を支払うということで合意となった。
法律的にはこれで『和解』ということになるらしい。
そしてその『和解』の条件には、平野たちグループ全員が俺と、今後一生関わらないことも含まれる。
そりゃ同じ学校だから、すれ違うくらいは仕方ないけどさ。
どんな理由であれ話しかけてくるのは違約だし、釜井さんに報告からの違約金発生までありうる。
そういう契約によって和解となった以上、ちょっとくらいいだろ、は通じないのだ。
俺は、田端と河野に向かって周りを見ろ、と無言でアピールした。
朝の登校時間帯。周囲の生徒たち。中には俺がいじめられていたと知っている者も、もしかしたら既に平野が学校を辞めた事を知っている者もいるだろう。
首の皮一枚でまだ何とか、ギリギリでこの学校に在籍できているのだという、自分たちの危うい立場をようやく二人は理解したのだろう。
何か捨て台詞でも吐こうとするのを、俺は一言、「関わンな」とだけ告げて黙らせる。それで二人は自分たちの教室に入っていった。
……あいつらは違うクラスだったから、いじめの度合いが少なかった。
だからこそ学校を辞めたり転校まではいかなかったけど、果たして残ることが良い事なのかわからない。少なくとも学年が上がってクラス替えがあるまでは針の筵ではないだろうか。
ま、俺が心配してあげることではないか。
†
「それで、どがんよそのバイクは」
「控えめに言って最高。大げさに言って超最高!」
俺は傍らに立てかけておいた、新しい愛機のサドルをポンと叩いた。
TREK EMONDA SL6 DISC SHIMANO 105。
平野たちとの勝負のため、TUZI BICYCLEで急遽購入したバイクだ。
と、言っても初めてお店を訪れた時に目を奪われたあのバイクであり、前々から購入を検討していたものだった。
それで貯めていたお年玉全部吹っ飛んだけど、これを手に入れることができたのだから全く悔いはないね。
アメリカの超一流メーカーのTREKが発表するロードバイクEMONDAは、非常に総合力の高いバイクとして知らている。元々軽量で山岳に強いオールラウンダーだったけど、現行モデルはエアロデザインを取り込んだことで更には平坦における戦闘力も向上した……というのは雑誌の受け売り。
エモンダに限らず、ロードバイクにはグレードがある。
同じエモンダでもより高価な素材やパーツをふんだんにを用いたハイエンドモデルのSLRなんかだと、本当に三桁万円の世界。
このSL6はそれから三つくらい下のミドルグレードだけど、三十万ちょっとという初心者としては贅沢すぎる逸品だ。
だけど、
「みのるさんのLOOKにケチばつける気は無かばってん、正直全然走りの違うったいねこれ」
一度ペダルを踏みこむ毎に、グイグイと前に進む加速性。
踏み込んだパワーをロスなくタイヤに伝えてくれる剛性、しかし路面の荒れやギャップの反動を受け止める衝撃吸収性。
なによりも、軽い。完成車で8kgというその軽さでこの激坂を軽やかに登っていく……事が出来ないのは俺の貧脚のせいだけど。
あのLOOKが十年前のモデル。ロードバイクの世界はレースの世界でもあるから、各メーカーは鎬を削って新技術を開発し、最新モデルにそれを注ぎ込んでいく。ミドルグレードとはいえその恩恵を十分に受けたこのエモンダは、俺程度でも判るほどはっきりと高い性能と、まだまだ引き出せない潜在能力を秘めている。
もしあのLOOKが無事だったとして、LOOKの方で勝負することになっていたら正直勝てなかったのではないか……とまで思う。
それくらいこのバイクは凄いし、もっと凄い三桁万円のマシンまであるって、ほんととんでもない世界だな。
「ふーん。ま、あたしのビアンキほどじゃなかばってん、良かバイクよね。エモンダ」
「うぐっ」
「あたしがー、中学の三年間小遣いば貯めてー、店の手伝いばしてー、ようやく買った翌日にキズモノにされたビアンキほどじゃー、なかばってんがさー」
「ごめんて」
「嘘って。ちょっといじりたくなっただけやん」
ツンツンと腹周りをつつかれる。
あっ、やめて。敏感なの。
身を捩ったらキモがられた。理不尽だ。
「でもさ。新しいバイクに乗るのって、ワクワクすったいね。どこまでも走っていけるっていうか」
「それすげぇわかっよ」
初めてこのエモンダに乗った時の興奮。まさかLOOKに乗った時の感動を上回ることがあるとは思わなかった。TUZI BICYCLEから帰る時、思わず白土湖を三周してしまった。
なお、白土湖は江戸時代の島原大変肥後迷惑の際にできた、島原が誇る日本で一番小さい陥没湖だ。南北幅200m、東西幅で70m。対岸同士で声が届くお手頃サイズである。池って言うな。
「兄ちゃんもさ。LOOK壊された賠償金が入るけん新しいホイール買うって言っとるしね。あたしもアルテ組みにしたかねぇ」
「この一件で一番儲かったのは間違いなくTUZI BICYCLEやね」
「へっへぇー、毎度ありー」
俺はエモンダを購入しただけでなく、ヘルメットやウェア、ライト類、ビンディングシューズまで購入している。
加えてみのるさんまで何か買うっていうなら、そりゃあ商売繁盛もいいところだ。
「じゃそろそろ行こだい」
「うっす。あとどんくらい?」
俺が尋ねると、辻さんがスンッてなった。目から光が消えている。
「あと、じゅーいっきろ」
「……訊かんからよかった」
普賢岳を一望できる仁田峠の展望台が本日の目的地である。
ここから延々と続く登り坂。
「距離だけでいうなら、ローソンからここまでと同じやけど」
「距離だけやったらね!」
途中途中で平坦だったり若干の下りもあったけど、ここからはずっと登りだけだから! ヤバか坂か、やっちゃヤバか坂かのどちらしかねぇから!
新しい愛機エモンダに跨ってペダルに右足を載せると、パチンと金具がハマる音。
ビンディングシューズとは靴底のクリートと専用のペダルが嚙み合うことで足がペダルから離れないようになるシューズ/ペダルのことだ。
足とペダルが固定されることによって、踏む時だけでなく引き上げる時にもペダルを回転させることができるようになるので加速力や登攀力がアップするし、バイクが跳ねたりしたときにペダルから足が外れて生じるロスを防ぐ効果もある。
だけど、
「ビンディングってさ。乗っとぉ人がバイクから離れられんくする拘束具なんやなかとかなって思っとばってん」
「超わかる」
まだまだ続く登り坂を見て、光が抜けた目で辻さんが頷き、ビアンキのペダルからパチンと音をさせた。
俺も同じ目をしてるって自覚はあるよ、ははっ。
俵石の展望台は南島原市は有家の辺りから登ってくる県道と国道57号の合流地点でもある。
つまりここから左に延びる坂を下れば、俺たちはもっと楽になることができる。と、いうのにそれを選ばない俺と辻さん。
真夏の日差しが照り付け、真っ白に輝いてすら見えるアスファルト。そこに落ちる山林の影が一層黒く際立って見える。
時折吹く風は熱風なのに、不思議と冷たい空気が混じる。木々の間で暖まることのなかった森の冷気が押し出されているのだ。
それに晒されて全身を包む熱気が一瞬持っていかれて、再び体内に籠る熱を排出しようと汗が浮かぶ。
「はぁっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ!」
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……はぁっ! ふっ、ふっ、ふっ……ぐっ!」
俺と辻さんは数分ごとに交互に前に出て、お互いを牽いていく。レースに出るような猛者からみたら笑っちゃうような速度だろうけど、いまの俺たちにとってそれが限界の速度。既にギアはインナー・ロー。これ以上軽くすることはできない状態だ。
前を走る辻さんが、立ち漕ぎからシッティングに変わった。
無言で俺はダンシング。速度を緩めた辻さんの前に出て彼女を引っ張る。
夏の日差しと夏の影に照らされた、極彩色の世界。何千という蝉たちの鳴く声が降り注ぎ、時折マイクロバスや自動車が俺たちを追い抜いていく。
何十回のカーブを曲がっただろうか。その度に現れる次の坂道。
顔を上げて前を見ることもほどんどできない――まだ坂道が続くのだと思うと、心が折れる。
無言なのは会話もできない程キツいから。そして食いしばった口を開けば意地と根性が抜けて行ってしまうから。
前を見るのも必要最低限。できるだけ二メートル先の路肩の白線を見る。
この坂を一気に百メートル登るのはもう無理だ。そんな体力も気力も残っていない。
でも二メートルならなんとか届く。
二メートルを進んだら、次の二メートル先を見る。
ハンドルを掴んで、ひと漕ぎひと漕ぎ一心不乱に二メートルの前進を重ねる。あるいは前を走る辻さんの後輪だけを追いかける。この二メートルを。その次の二メートルを。
「けー……すけっ! 前……ッ!!」
そうしてようやくーー長い長いうねり続ける坂道が終わった。
辻さんの声に顔を上げれば、最後にキツイ斜面がある。その向こうに、T字路が。
このT字路を左に曲がれば下り坂。そして有名な雲仙地獄と、温泉街だ。
「み、ぎっ! 曲がって!」
だけど俺たちの目的地は更にこの上。
普賢岳にもっとも近づく仁田峠、自転車で行ける最高点。
「ああっ、もう!」
もういっそ諦めることができれば楽になるのに、俺は右へとハンドルを操作した。




