5-1. もう気にしてないよ
それはまるで枷のように、俺の足とペダルを固定する。
食いしばる歯の隙間から喘ぐように息を吐く――吸う。
時折吹く風には山間特有の冷気が混じり、それが唯一の福音のようにすら思える。
眼前には黒いアスファルト。
剥げかけた白い制限速度の数字。
やっとの思いで急カーブを過ぎた先には、更なる坂道が聳え立つ。
まるで壁のように。
「けーすけッ! 大ッ! 丈ッ! 夫ッ!?」
「なん……とかッ!」
ぜいぜいと喘ぐ隙間で何とか返事を返す。
辻さんの乗るロードバイクは僕より数メートル先を進んでいた。
俺も彼女もとっくに立漕ぎ。
前も後ろも最も軽いギアに変えていて、これ以上の救いは無い。
肺は悲鳴を上げ、両脚は脹脛も太腿も満遍なく全ての筋肉が限界ギリギリ。なんでまだ足を攣っていないのかいっそ不思議なくらいだ。
「もうちょっとで半分ッ。俵石の展望台――ッ!」
「わかったーッッ!」
雲仙普賢岳。
長崎県は島原半島の中央に位置する急峻。
俺と辻さんはその山頂を目指す道路を、ロードバイクで走っていた。
枷のように足をペダルと固定するビンディングシューズに、ゆっくりと、しかしリズムよく体重を掛ける――反対側の足を抜き持ち上げる。
一歩一歩。
一漕ぎひと漕ぎ。
それ以外に方法はない。
いっそ枷のように思えるビンディングシューズも、わざわざ自転車で山を登っているのも、どちらも自分が望んだこと。
進むしかない。
前に進むしかない。
苦しくて辛くていっそ一番簡単な道を選びたくなる。Uターンして、下ってしまえばいい。それでラクになれる。
他の誰に強制されたことじゃない。義務でもない。義理もない。
自分がやりたくてやっていることだ。止めたいならばいつでもご自由にどうぞ。
でも――実に救いの無いことに、俺はもう、この先にあるものが欲しいのだ。この先にしか無いものが欲しくて欲しくてたまらないのだ。
先行する辻さんが、歓声を上げたのが聞こえる。
もう少し――
前へ。
前へと進め。
†
あの勝負から、一週間ほどが過ぎた。
日課となっていたから早朝のトレーニングは続けていたが、辻さんが「たまにはポタろうで」と言い出した。
お散歩サイクリング。いいねぇ、と俺は答えた。
確かにポタリングのはずだ……距離的には。
距離的にはな!?
†
俵石の展望台で、俺たちは小休憩をとった。
国道57号線は島原外港近くにあるローソン前にある交差点から、普賢岳に向かって伸びていく。中々の傾斜の住宅街を抜け、雲仙普賢岳を大パノラマで一望できる水無川火砕流跡に掛かる橋を越えると、緩やかな坂道だったのがどんどん山林に挟まれた山道となっていく。島原方面から雲仙の温泉街に向かうのに、最短で最もポピュラーな道だろう。
ただしもちろんというべきか、自転車で登るような坂じゃない。結構な急坂である……というか、記憶が間違いでなければ、もうずっと急坂しかないような登り坂なのだ。
じゃあなんで俺たちは自転車で登ってンだって話だが、理由なんてあってないようなもんだ。
「島原やん? 雲仙あるやん? うったちローディやん?」
と、辻さんは言っていた。理由になってない。
いやわかる。俺には理解。
そりゃ島原半島一周にチャレンジしたくらいだ。
雲仙普賢岳なんつーイイ感じの山を見たら、そっちも挑戦したくなるよね。
でも俺、どちらかっつーと平坦屋だと思うんだ。登り坂を見たら心ときめく特殊性癖の持ち主じゃないんだ。
平野と勝負した?
あんなのイレギュラーですよ。
俺がそういうと、辻さんはニコッと笑って、
「あたし、堂本くんに(ロードバイクを)キズモノにされちゃったってお父さんに相談すぅね」
「はいお供いたします。いつ? 明日? はい喜んで!」
拒否権?
そんなもの最初からありませんけど何か。
登山道の中ほどにある俵石展望台は、元々は流しそうめんのお店があった場所。今は駐車場と公衆トイレと自販機が並んでいるだけの場所だが――展望台だけあって、見晴らしは最高だった。
眼下に広がるのは青々とした山肌と田畑の風景だ。ちょうど島原市と南島原市の境目の辺り。その向こうに広がる、青い空と輝く不知火海。
「あちぃ~~」
ドリンクを飲むと体中の汗腺から一気に汗が噴き出してくる。肉体が水分補充を感知したことで即座に反応したのだ。
ロードバイクに乗るようになってから、自分のものだというのに肉体というものについて全く理解をしていなかったのだと思うことが増えた。光を感知した瞳孔が収縮するように、体内の水分量にもこんなに素早く反応する。
「少しは痩せたしな」
平野との勝負のために絞ったし、そのあとも野菜と肉を中心とした食生活に。必要ない時にはジュースもお菓子も口にしないようにしている。勝負から一週間たった今でも少しづつ体重が落ちているおかげで七十kgを切ったところだ。身長が低いのでまだ軽肥満の範囲ではある。
だけどロードバイクは脚以外にも結構全身を使う有酸素運動だ。
お陰で下半身を中心に筋肉がうっすらと見えてきたところ。風呂上がりに鏡なんか見てみると、ちょっとこう……ボディビルダーの人たちの気持ちが分かるようになる。
なお俺の一番のお気に入りは大殿筋である。おかしい、俺はおっぱい星人だったはずなのに。尻フェチに目覚めるとは。しかも自分の。でも、こう、キュッと引き締まった感じを見てるとね?
「あじぃ……」
俺の隣で喘いでいるのは、辻さんだ。ミネラルウォーターを頭から被ってざっと髪をかき上げると、透明な雫が宙に舞ってきらめいた。
「水も滴る良かオンナ、やろ」
「自分で言わんかったら、もっと良かとに」
見惚れてた、とは言ってあげない。
並んで眼下の景色を眺める。
真夏の風が吹くその中に、潮の香りが混じっている気がした。
「……昨日はさ」
「うん。もう気にしてないよ」
辻さんの言葉に、俺は頷いた。
これは県外に住む従妹と話をして驚愕した事実だけど、長崎県の学生には他県には無い夏休みの習慣がある。
八月九日の原爆記念日が登校日と指定されているのだ。
先週の、原爆記念日の登校日のことだった。




