4-6. 勝負 3
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「はぁっ! はぁっ! はぁっ! ……く、はぁっ! はぁッ……くそが!」
くそが! くそが! 糞豚公が!!
平野高志は焦っていた。
一体どうしてこうなった?
考えてみても答えは出ない。十六年と七か月という彼の人生において、正解が存在しない問題というものはこれまで存在しなかったから。だから答えが存在しない問題が存在する、という事実に気が付きもしない。
ましてや、完全な自業自得によって自分がこんな苦境に追いやられているなどと、微塵も思わない。
|堂本の豚≪弱者≫を嬲るのは、楽しかった。
そしてそれは|自分≪強者≫に許された特権であるはずだった。
少なくとも彼はそうであると信じていた。なにせ、彼の父親が主催する柔道場では強い者に対する賞賛を惜しまない。
幼い平野高志は父に褒められたい一心で柔道に打ち込み、稽古に励み、そして一つの真理に辿り着いた。
勝ったものが偉い。
少年柔道大会で優勝し、金メダルを胸に賞賛を浴びたあの日、彼は、確固とした自信を手に入れた。
人間とは不思議なもので、メンタルの好不調が結果に大いに影響する。
強い自信は更なる結果に繋がった。同年代の少年たち、時には一つ二つ年上の者たちにも試合で勝つ。そして更なる自信を手に入れた平野高志という少年は、傲慢な王となった。
勝ったものが偉い。
勝てばよい。
ならば勝ちがない弱い者には、価値がない。
幼いゆえの純真さと安直さ、勝利を褒めた湛える周囲の環境が、平野高志という少年の内面を、ある意味で順当に、まっ直ぐと歪めてしまった。
道場では弱い者を蔑むようになり、学校においては弱い者を嬲るようになった。
稽古に身が入らなくなったのもこの頃からだ。真面目に修練しなくとも勝てるのだから、そうなるのもおかしな話ではない。
そして高校に入学し、彼は最高の玩具を見つけた。
その堂本啓介はチビでデブで色白で、しかも猫背気味の男だった。生まれてこの方学校の体育以外で運動したことはありません、という雰囲気。
経験上、平野は知っていた。男という生き物は例外なく暴力というものに対して何らかの憧れを抱いているものだ。それが肯定的なものだろうと、否定的なものだろうと。
堂本啓介のような奴はまさに暴力に対して否定的な憧れを抱いているタイプだ。
自分の体形や性格的な部分では暴力に対しての適性が無い。だから自分ではスポーツを始めたりする事はないし、最初から諦めている。
一方で漫画やアニメ、あるいはアクション映画やスポーツ観戦なんかは好きで、敵をぶちのめす主人公に対して『そうなりたいけどそうはなれない』自分と比較して卑屈な憧れを抱いている。
もっと言うならば、『今現在、主人公的なっていないのは、自分が挑んでいないからだ。スポーツを始めてみれば隠れていた才能が瞬く間に開花して……』みたいな願望を隠し持っている。
平野はそれが気に入らない。
平野や他のスポーツマンが何年もかけて手にいれた技能を、やった事もない奴らは苦労もなく手に入れることができると思っている。
道着を初めて着た途端に才能が開花して他の先輩たちをどんどんブン投げて、無双することができると思っていやがる。
平野はそれが気に食わない。
だからわからせてやるのだ。
平野や、他のスポーツマンにはそうする権利がある。
何度も投げられて畳に叩きつけられて得た実力の価値は、お前のような舐めたオタクが触れて良いものではないのだと体に教え込んでもよい権利があるのだ。
だからそうした。
予想通り、豚は反抗しなかった。
反抗しても勝てないのであれば、それは豚の中にある『本気になれば無双できる』という歪なプライドが壊れることになる。そんな現実を見たくない。だから反抗しない、できない。
何をされても卑屈に笑ってやり過ごそうとする。
そして自分には! そんな舐めたオタクをぶちのめして良い権利がある!
なにせ自分はーー平野高志という男は、柔道が強いのだから!!
だから最近口うるさい親父に従う理由は無いし、稽古をさぼっても文句は言わせないし、豚を投げ飛ばしても、階段から落としても……ほら、なんのお咎めも無いじゃないか!
階段を転がり落ちた豚が右腕を押さえて悲鳴を上げた時にはちょっと焦って逃げ出したけど、結局何も起きなかった。
それはつまり、コイツには何をしたって良いって事だろう?
だというのに……
どうして、いま、俺はこんな目にあっているのだ?
「はあっ! はぁっ! はあっ! ……く、お、ッ!」
不愉快だ。何もかもがイラつく。
全身に不快で粘つくような、熱帯夜の空気がまとわりつくのも。
すぐ後ろには釜井とかいうオッサンが、涼しげな顔で自転車を漕いでやがるのも。こっちは必死こいで立ち漕ぎをしてるというのに……!
何よりイラつくのは、オッサンの後ろにまで豚が近づいてきていることだ。
この豚は俺たちの玩具だったはずだ。
だというのに、辻のクソ女に唆されたのか俺たちに盾突きやがった。
ロードバイクにハマッて、昼休みと放課後にはさっさといなくなってしまう。
俺たちもこの玩具で遊ぶのにちょっと飽きてきた時期だったからしばらく放置してたが……所有物が勝手にどっか行ってしまうのは、ダメだろう?
それをわからせてやろうと、俺もロードバイクを買ったり奴のバイクを壊したりして見せたら、よくわからねぇうちにこんなことになってしまった。
自転車のレースで負けると金を支払わなきゃなんねえ? ふざけるな!
あの白いのを壊したのは、百歩譲って認めてもいいさ。ちょっとやりすぎだったよ。
停学になったことでそのバツはもう終わっただろ!
その間ずっと、ブチ切れた親父や社会人たちに道場で毎日何時間も投げられ続けたんだ。それでもう充分だろ!
なんで俺はこんな……くそ! わからねえ!
俺がなんでこんな目に合わなきゃなんねえんだ!
「平野ぉ!」
振り向くと、黒に赤いラインの入ったロードバイクに跨る豚が、こちらに迫ってきていた。
あの、俺たちに殴られて卑屈な顔をしていたのと同じ人物だとは思えない顔をして、俺を睨んでいる。
最後に会った時から奴はびっくりするほど痩せていた。さっき駅で会った時には一瞬別人かと思ったくらいだ。
元がデブだったからまだアスリート体型って程じゃないが……この勝負のために、この二週間弱の間に相当やりこんできたってのはすぐに分かった。
格闘技やってりゃ、相手がどこまで本気かってのは目を見りゃ分かる。
手を抜いてきました稽古サボっていましたっていうのも。稽古に打ち込んできました、ガチで勝つため準備して作戦考えて本気できましたってのも。
俺は柔道の天才だから稽古をサボっていても強かったから、抜いてきた奴もガチな奴も揃ってぶん投げてきた。
でも――ロードバイクは?
ド素人だ。
停学期間が明けて、親父たちのシゴキが終わった後一週間以上。
俺は豚の事を舐めていた。あんなデブに坂道勝負で負けるはずがないと。
だからこのクソ暑い中で練習なんてしなかったし。
だから駅で会った時に気づいてしまった。
奴が備えて来た側で、俺が抜いてきた奴だと。
くそっ!
肺が痛い。心臓が苦しい。
全力で立ち漕ぎしてるってのに、だんだんときつくなる坂道にびっくりするほどスピードが出ない。
ママチャリとか通学用の自転車できた仲間たちはとっくにずっと後ろの方で当てにはなんねぇ。
後ろに、オッサンの走る音。
それとは別の、もう一台……振り返る。
すぐ右横に、豚がいた。
「く、そ、がぁ!!」
苛立ちまぎれに右足を蹴りだす。
勝負なんて知ったことか。自転車なんてもうどうでもいい。豚をコカしてぶん投げてやる。
そう思ったのに――
豚はするっと俺の蹴りを避けた。
そして俺の方を見ることもなく、そのまま加速して登っていく。
「くそ、待て! 豚、待て……!」
俺は蹴りの反動でよろめいて、足をついてしまう。荒げた息が、心臓が痛い。
「今のは見なかったことにすったい。……はよせんと、追いつけんくなるよ」
おっさんがそういって、俺を置いて登っていく。
軽々と。
「くそが……くそったれがーーーーッッ!!」
叫んだところで、誰も振り向いてはくれない。




