3-2. 意外やな
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その日の夕方、ツジバイシクルに来客があった。
「あら、お久しぶりっス」
「よう、ご無沙汰」
入荷したバイクを組み立ていたみのるが来客を迎える――
スペシャライズドの黒いロードバイクを押してガレージに入って来たのは、みのるのロードバイクサークル仲間の釜井だった。
「親父なら出掛けとっですよ」
「そがんかね。まぁよかたい、みのるくん、ちょっとバイクば診てくれんね」
そう言って釜井は押していたバイクを差し出す。みのるは殊更丁寧に釜井のバイクを受け取り、スタンドに掛けた。
客を選り好みするつもりはないが釜井は常連客である以上に、みのるにとってロードバイクの世界を教えてくれた師匠のような存在である。
「どこか不具合が?」
「ブレーキが弱かのと、後ろのギアん切り替わりがね。忙しくて中々点検しとらんかったもんやけん、油注したりネジ締めたりもして欲しか」
「了解っす」
種類を問わず機械とは傷むものである。自転車だってその例外ではない。
人間一人分の過重、埃っぽい地面、小石や砂利、雨、日光。潤滑油は流れたり埃や砂を巻き込んで可動部品の消耗を早めるし、ケーブルは伸びて想定の挙動をしてくれなくなる。
転倒や衝突という直接的な理由でなくとも、小さな要因が積み重なればやがて不具合が起きるのだ。
頑丈さを旨とするママチャリですらそうなのだから、走行性能特化のロードバイクはなおさら日々の、そして定期的なメンテナンスと定期点検は重要なことだった。
「もしかして段差乗り上げました?」
ペダルを手で回しながらシフトレバーを動かすみのるが、釜井に尋ねる。
「あー、そやかも知れん。歩道に入ぃっ時、がつっといったけん」
勝手知ったるなんとやら。近くのパイプ椅子に座りながら釜井は答えた。
ハンドルのレバーから、前後のブレーキやディレイラーにワイヤーが伸びている。レバーを握ったり押し込んだりすことで各部に繋がるワイヤーが引っ張られ、機械部分が動くという仕組みだ。
ところが何かの原因――今回は段差に乗り上げた衝撃だろう――によって、そのワイヤーが緩むことがある。そうなるとレバーを操作しても規定通りの引っ張り方や緩み方にならない。つまり、機械部分がちゃんと動かなくなる。
「ワイヤー緩んだんでしょね。後ろンギアの、最重とそいの下が入り難くかごてなっとるですよ」
道具箱からドライバーを取り出したみのるが、後ろディレイラーを覗き込む。これ
だったら調整ボルトを回して緩んだワイヤーに合わせた挙動に設定し直すだけで済む。
「あのみのるくんが、ボルトの調整ができるようになっとはねぇ」
どこか芝居がかったように釜井が言う。
「さんざん釜井さんのバイクば弄らせてもらったお陰ですたい」
それでみのるは思い出し笑いをした。
「こないだまこと、自分のバイクばついに買いましたとですけど。あそこにあるバイク」
「ほー。Bianchi欲しかってずっと言いよったもんね」
「自分でメンテすっけん! って言いよったけど、コレば弄って、どうにもならんくなって」
ボルトを回すだけで済むのだが、これがまた難しい。というのも、ほんの一度でもボルトを回転させただけでディレイラーの動きがズレるのだ。つまり、ちょっとでもボルト調整を間違うと後ろディレイラーの動きが悪くなって、ギアチェンジができなくなる。
自転車整備士の資格を持つみのるや、長年ロードバイクに乗って自分でもある程度弄れる釜井ならば未だしもホビーローディには難しいだろう。例えばまこととかには、まだ。
噂をすればなんとやら。制服を着替えたまことが、ガレージへと入って来た。
「釜井さんやん。こんちゃっす」
「おおーまことちゃん。久しぶりやね。元気しとっかい?」
「へへ、お陰様で。そうそう釜井さん、ついにあたしやりましたですよ。バイク買いましたよ」
「聞いたたい。そこのBianchiってやろ」
先に言われて、まことは え? という顔を見せた。そしてみのるの方を睨む。
「兄ちゃんバラさんでよぉ。驚かそうて思ったとにぃ」
「いやごめんて。話の流れでさ」
ギアの動きを確認しながら、みのるが謝る。
「そいで、もうどんくらい走ったとよ」
「えー、えへへ。まだ二か月で二百くらいですよ」
「結構走っとるやん」
釜井は感心したが、みのるがあきれ顔を見せた。
「釜井さん聞いてくださいよ。こないだロード乗り出したばかりの同級生連れて、島原一周しようとしたとですよコイツ」
「そいばってんがさ、ロードば買ったとなら走りとぉなっけんロングばさぁ。やろ、釜井さん」
「だからってなんの相談も計画も無しにロング走ろうとかすんなって!」
「それはちゃんと謝ったやん!」
「どーせ反省しとらんとやろ。夏休みにどっか行くつもりやろ」
ぎくぅ。
「どーしてそれば!?」
「お前の考えてることなんかお見通したい!」
漫才みたいなやりとりを笑いながら聞いていた釜井が、ふと気が付く。
「同級生ば連れて走った? それって、もしかして堂本啓介くんやろ」
「えっなんで知っとぉと!?」
びっくりしてまことが釜井をみた。みのるも驚いている。
「いやぁ、つい昨日の晩にさぁ。そやった、それで今日ここに来たとやったたい」
釜井が、昨晩島原城周りで啓介と軽くバトルしたという話をした。
「何ばしとっとですか釜井さん……」
釜井はアマチュアながら、各地のレースに参加して回り入賞経験すらあるような猛者である。昨日今日ロードバイクに乗り始めたような高校生が逆立ちしても勝てるような相手ではない。
「いやぁ、島原城でトレーニングばしとったら、見覚えのあるバイクに見覚えのないヤツの乗っ取ったけん。ちょっかい出してみたったい」
悪びれない釜井である。釜井は、啓介との一幕について語った。
「俺のバイクば貸しとるけん、見覚えあったとですね」
「そいでちょっと話ばしたとけど、あの子結構ガッツの有ンね。普通あんな野良レースで、絶対勝てんって思ったら諦めて途中で抜くか、じゃなきゃバックレるやろ。堂本くん、最後まできっちり食らいつこうとしよっけんさぁ。おいまで熱ゥなってしまったたいね」
「へぇー、ふぅーん」
「どうしたよまこと」
「なんつーか堂本くんらしかなぁって思ってさ」
「そやな。俺も思った」
まことの脳裏に浮かぶのは、ロングライドの時に見た啓介の背中だった。
ロードバイクでは風の影響がとにかく大きい。だから少しでも空気抵抗を減らすためサイクルジャージは体形が出るようなピッチリしたデザインになるのだ。たとえわずか風速二m/s程度の向かい風でも、素人のまことにとって後ろギアを一枚分重くした程に感じるのだ。
ギア一枚分の重さ――大した事はないように思えるが、その状態で何キロも走るとなると、ジワジワと脚にくる。
それを知ってか知らずか、まことが脚を攣って以降の殆どを啓介が前を走ってくれていたのだ。黙って、当然のことだと言わんばかりに。
それが、どれだけありがたいことだったか。
ふとまことは思う。
啓介は多分、結果とか数字とかに現れ難い部分を黙々とやるタイプなのではないだろうか。
何時だった見せられたプラモの写真は、全く知識の無いまことでもわかる程に細かい塗装がされていた。まことは全くの素人だったが、それがどれだけ緻密で、時間と労力の掛ることなのか察することはできた。
今時無駄な事、疲れるから意味が無いからと他の誰もが投げ出したり適当に済ませて当たり前で気にしないようなことを、好きだからというだけでやり遂げる男。
それも、拘ってしまうから一歩一歩取りこぼしの無いように、ゆっくりとでしか進むことのできない奴。
見方を変えると、周りに合わせることが出来ない没交渉で自分勝手、しかも要領が悪いと思われる奴。
「ああ、だから……」
「だからって、何が?」
ふと零れた言葉に、みのるが反応した。
「ん~。なんというか、堂本くんさ。いじめられてるんだよね。学年の不良グループに」
眼鏡で太っててチビ。
外見だけが理由なら啓介でなくとも該当する者は何人かいるはずだ。
だけど、あの不良グループが啓介に目を付けたのは――そういう、隠れた我の強さを嗅ぎ取っていたからか。
「えっ。堂本くん、イジメられとっと!? あがん根性の有っ子が!?」
予想外の言葉に、釜井は驚いた。
「うん。結構ヒドくやられとったごた。最近あたしが堂本くんと一緒におっけん、下火になっとぉけどさ」
「意外やな。そっか、堂本くんいじめられとっとか……」
そこで、釜井はふと黙り込んだ。
「どうしたとね釜井さん」
「――いや、ちょっと思ったとよ。見知らぬ大人と、ロードバイクつぅ共通の話題であんだけ会話できる子がさ、イジメられとってイメージが湧かんもんやけんさ」
人は、ちょっとしたきっかけ一つで突然化けることがある。
弁護士という仕事柄そんな人を釜井は見てきた。その殆どが魔が差しての横領や、不倫という悪い方向への変化だが――
「いじめられっぱなしってタマかな、あの子」
釜井が呟き放った言葉に、まことは自分だけが知ってる秘密を言い当てられたかのようにドキリとした。




