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3-1. ちょっとしたトロフィー



  †



 アクティブレスト、という考え方があるという。

 漢字で『積極的休養』と書くそれは、例えばマラソンを走って疲労困憊の翌日に、軽~くジョギングをしたりすることを指す。あくまで軽くね、軽く。

 理屈はわかるよ。人間の細胞には血液が栄養を運び疲労物質を持って行くのだから、血行が良くなればその分疲労回復が早まる。だからちょっと身体動かそうぜっていう理屈は。

 でも理屈がわかることと、それを実行するのはまた別の話。

 ドMの発想としか思えない。どんだけ運動が好きなんよってちょっと前までの俺だったら呆れて歯牙にもかけなかった。なんなら今でもそう思ってる。思ってるけどさ。


「とはいえ、まさか自分がそれをすることになっとは」


 島原一周ライド(DNFY)の翌日、日曜日の夜。

 昼間は正直死んでた。

 全身バッキバキのギッシギシで、布団から起き上がるのにも一苦労みたいな状態だ。ご飯食べる時とトイレ以外はずっと寝ていた。普通の休養、消極的休養(パッシブレスト)である。

 母さんに呆れられるくらい食べて怒鳴られるくらい寝こけててなおまだ眠いし腹が減る。

 自分でもびっくりするくらい疲れていた。

 体が重くて動かなさすぎるので、僕の周りだけ重力が三倍くらいになってないか疑ってしまう。辻さんに送るメッセージも既読や返事が遅れ気味で、彼女も似たような状態だと知れる。

 だというのに、だいぶ回復して身体が動くようになってきた夕方ごろになるとまた自転車に乗りたくてソワソワしている自分がいる。

 晩飯を食べて時計をちらり。……行けるかな? いや、でも昨日七十走ったし。

 風呂に入って時計をちらり。……行こうかな? いや、でもゲームしたいし。

 動画見ながらちらり。ゲームしながらちらり。ちらりちらちらちらりちら。

 結局寝る前に少しだけ、と自分に言い訳して、ロードバイクをガレージから出そうとしてると、母さんがこっちを見てにやにやしてた。


「……なんよ」

「なんもなかばってん。気を付けて行かんばよ」

「へい、合点」


 ライトを点けて走り出そうとした俺に、母さんが声をかけた。


「啓介。アンタちょっと背、伸びた?」

「……さあ。そがんね?」


 そんなの自分じゃわからんよ。

 まぁいいか。昨日の今日だし、あくまでアクティブレスト――回復目的なんだし、それで再び疲労困憊になるんじゃ本末転倒だ。

 軽く島原城を二周くらいして戻ってこよう。

 ――やっぱり三、いや四周で。

 

 と、軽く流して終わるつもりだったのに――


「……ふんっぎぎぎっ!」


 文化会館と一小の間にある直線で、俺は全力の立漕ぎをかましていた。

 ペース配分なんてくそくらえ。全ての体力と筋力の全てでペダルを踏む! 踏む! 踏む!!

 ロードバイクを左右に揺らし。ハンドルを全力で引き上げるように腕に力を込めながら、重たいギアの重たいペダルに全体重を乗せて力一杯踏み抜く。

 バクバク言う心臓。

 歯を食いしばる一方で、肺が少しでも空気を欲しがっている。

 睨みつける数メートル先にいるの点滅する赤いライト。

 この前の、黒いロードバイクのオジサン。

 彼はちらりと俺の方を見ると、夜なのにキラリと目立つ白い歯を見せて笑った。


「はっはぁ、もうちょっとだ少年!」

「くっそがあ……ッ!」


 いきんだところで実力差は変わらない。

 前を向いたオジサンが改めてペダルを踏むと、明らかに距離が離された。

 怒ったところでスーパーなんたら人に変身できるわけじゃないし、土壇場で眠っていた秘められた力が覚醒するなんてこともない。

 でもそれはそれ。負けるのはわかってる。俺はそれでも、ペダルを踏む力を抜くことはなかった。

 街灯に照らされる、ゴールって言われた横断歩道まであと五メートル。つまりたった一秒。

 二メートル。一メートル。

 おじさんがゴールし、丁度ロードバイク一台分遅れて俺がゴールした。

 ……アクティブレストだっていうのに、なに全力の野良レースやってんだ? 俺は。


「ーーはあっ、はあっ、はあっ……げほッ」

「ふぅ~。少年、結構やるやん」


 惰性で走行していると、勝者のオジサンが黒いロードバイクを並走させて話しかけてきた。

 くっそぅ。余裕綽々だなこの人。こっちは全力全開でペダル踏んで心臓バクバクだっていうのに。


「やるも、なにも、おれの、まけで、すけど、ね」


 ゼヒゼヒと喘ぎながらなので短文でしか話せない。


「そりゃ勝つかどうかで言えばオジサンが勝っちゃうやろさぁ。年季が違うもん」


 イラっとするものの言い方だな、この人。


「けど少年。最後の直線で自分がどんだけ踏んでも絶対勝てねぇって思ったのに、最後まで手を抜かなかった――いや、脚を抜かなかったやろ。オジサンそいがね、凄かって思っとさ」

「……それは、まぁ、勝負ですし」


 二人並んでカーブを曲がり、商業高校とお堀の間をゆっくりと走る。


「いやいや。一発勝負でも中々できないのよ、負けが確定してるっていう状況で最後まで抜かないってのは。プロでさえね。その点キミは偉かよ」

「はぁ、はぁ、そんなもんスかね……」


 ゆっくり流して半周もすれば、大分呼吸も落ち着いてきた。


「そんな根性のある奴が盗みとかするわけじゃなかたいね。いやすまん。疑って悪かったバイ」

「自転車盗むような勇気、俺には無かですよ」


 ゆっくり並んで走る。

 文化会館前辺りに戻って来てロードバイクを降りると、オジサンはスポーツドリンクを奢ってくれた。

 釜井浩一と名乗るこの五十絡みのオジサンは、みのるさんのロードバイク仲間なのだそうだ。


「『サイクルホエール』ってサークルに所属しててな。まぁ一緒にレース出たり、ブルベ出たりしちょっとよ」

「ブルベ?」

「ロングライドイベントのことよ。興味あったら調べてみんね」

「そいでみのるさんのバイクのこと知ってたンすね。ちゃんと借りた奴ですよーう」

「そうたい。いや疑って悪かったたいね」


 なんだかんだ言って長崎県は自転車所有率ワーストを誇る県である。長崎市ほどじゃないにしても、島原だって坂道山道はそれなりにある。

 そして自転車というのはママチャリとか通学通勤お買い物に使うものが一般的で、ロードバイクなんて尖ったモノに乗るのは更に僅かとなり、島原市って片田舎だと果たして何人いるのだろうかって話である。

 俺なんかより遥かにロードバイク歴が長く本格的にやってる釜井さんは島原城周回トレーニングを日課にしているのだが、最近ちょくちょく見かけるLOOKがどうも見覚えがあるバイク……というわけでちょっかいをかけて来たのだそうだ。


「びっくりしましたよ。突然『勝負しようぜ少年! 文化会館前の横断歩道がゴールな!』ですもん」

「悪かったって。やけんこうしてジュース奢っちゃっとやし」


 それでいきなり図書館前の直線から始まる島原城半周の野良レーススタートである。

 結果はこの通り惨敗。いや、小学生と関取が相撲を取ったようなもんだ。つまり相手の本気を出させることすらできなかった。

 ぐび、とドリンクを飲みながら雑談を続ける。

 もう何年もロードバイクに乗っているという釜井さんの体験談は面白かった。


「それで周りに自転車屋無くて、土砂降りの中十キロ近く歩くハメになってさ」

「雨の中十キロてマジっすか」


 ゲラゲラ笑う。

 小さな段差に気付かず勢いよくタイヤをぶつけ、その衝撃でタイヤ内のチューブが裂けることをリム打ちパンクと言う。パンクは自転車に付き物のトラブルだが、リム(ホイールの縁部分)をぶつけて起こるリム打ちパンクは、タイヤとホイールが細いロードバイクでよく起きるトラブルだ。

 200kmのライド最中に二度もパンクした釜井さん。一つしか持っていかなかった予備のチューブと泣きっ面に土砂降りで参ったという話だ。

 自分に置き換えてみれば、例えば昨日の小浜辺りでパンクして、愛野までバイクを押して歩くしかないなんて状況だ。おっとこれ自分死ぬのかな? ってなる奴だ。


「リム打ちに限らんばってん、ロードはパンクしやすかけん」

「そうなんですか?」

「ママチャリとかマウンテンとか、タイヤが太くて厚いかろ。つまり衝撃が分散さるっけん、ぶつけてもパンクしにくい。尖ったモンば踏んでもチューブまで届きにくかし」


 なるほど。

 逆にタイヤが細い上にスピードが出るロードバイクはパンクしやすい傾向になるってことだ。


「だから堂本くんも、短かいライドでもチューブとボンベは持って行った方がよかよ」


 ポン、釜井さんは自分のウェアの背中をたたいて見せた。そこに簡易修理キット一式、入っているらしい。

 ドリンクを飲み終わった後も、二人で並びながらゆっくりと島原城を周回しながら話をする。

 素人が間違えやすいポジショニングの話とか、ロングライドの時にするコツ。坂道を登る時のダンシングについて。 

 ほんの二、三周で終えるつもりの周回ライドは、気が付けば市役所前の坂をぐんぐん上って農業高校の前までヒルクライムを……何やってんだ、俺は。




あと驚いた事に、釜井さん、弁護士だった。

それで未成年を深夜に連れまわすのか。

無茶苦茶だよこの人……と思ったけど、せっかくの連絡先は消さないでおく。


「へへ……」


 みのるさんに続いて、大人の知り合いが増えたのは、ちょっとした勲章(トロフィー)だ。



 

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