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2-10. でも本当はわかっとったよ



  †




 電話越しにたっぷりみのるさんに怒鳴られた僕たちは、「とにかく愛野まで来い!」と言われて真面目に今後の予定について話し合いを始めた。

 スマホの地図アプリを覗き込む。


「さて、ここから愛野まで約十三Km。単純な距離だけやったら一時間もかからんとやけど――ヤバい峠が二つある」


 目的地の愛野展望台自体が高台なので、そこを登らないといけないのがひとつ。

 もうひとつはその手前、千々石町の猿葉山だ。


「コース自体は判りやすか。このまま国道ば進んで行けばよかとやけど」

「うん、昨日の夜確認した。猿葉山の山越えになるたいね」

 

 辻さんの脚が攣った辺りは本当の島原の奥地なんで、それでも車通りは少なかった。

 けどこの小浜の辺りから北側は、諫早や長崎に向かう自動車も増える。なのに国道は狭く片側一車線のみ、曲がりくねって、しかも歩道が存在しない。


「愛野の方は道路拡張もされとっけん大丈夫やろうけど」


 少し前に工事が終わっていたハズだ。親父のドライブに付き合って通ったので知っている。

 僕は辻さんの方を見た。


「無理、でくっかね?」


 への字口で暫く考えた辻さんは、首を横に振った。


「休んだし食べたし、だいぶ回復はしとっと思うばってん、消耗してることには変わらんけんね……」

「じゃあリタイアする?」

「それはやだ」


 知ってた。

 ここまで、僕らは六十Kmの距離を走って来た。

 だったら残り四十Km。

 辻さんの性格で、諦めると言い出すとは思えなかった。


「やったら次善策。迂回すったい」


 深江の時と同じだ。

 猿葉山の山中を切り開いた国道とは別に、海沿いにある富津という集落を通る県道が走っている。とにかくこのコースだったら標高差は小さいから殆ど登る必要は無いはずだ。


「正直僕も膝がガクガク言っとぉけん、キツか山ば登ってる余裕は無か。けど愛野は登らないとダメやっけん」


 みのるさんが待ってるのもそうだけど愛野の峠は迂回路が無いんだ。

 いや、正確には迂回路はあるんだけど、峠のずっと向こうに出るし、迂回路の出口から愛野展望台に出るためには結局折り返して登ることになる。ただ無駄に遠回りするだけだ。


「残ってる体力はそこで使うためにとっとく必要があっけん。猿葉山は富津の迂回路で行く」

「わかった」


 神妙に辻さんが頷く。

 コンビニでドリンクとゼリー飲料、そして塩飴を買って互いに分け合うと、僕たちは出発する。朝、気楽な感じで走り出した時と違って妙な悲壮感すら漂っているのがどこかおかしかった。

 辻さんが脚を攣るまでは彼女に先頭を任せてたけど、今は僕が前だ。

 ロードバイクの世界では前の選手を風よけにすることで体力を温存するのが当たり前の戦術だ。それで勝負所までライバルと先頭を交互に勤めることもあるんだって。

 それだけ前を走って風よけになるってのは負担の大きなことで、実際向かい風だとびっくりするくらい速度が落ちるのが実感できる。平坦なのに坂道を走ってる気になるんだ。

 といってもアマチュアどころかド素人の僕で、どれだけ辻さんの負担が減っている事か。そもそも速度が出ているって程もない。腹回りの広さに期待するしかないか。

 辻さんのバイクには、スマホホルダーがある。

 それでスマホを見てナビをしてもらいながら、僕たちは富津集落へとタイヤを向けた。

 予想通り、富津コースは高低差が少ない。

 右側に山、左に海と挟まれた小さな町だ。潮と魚と山の香りが漂う、長崎のいたるところにある漁港の集落。

 一瞬山側の樹々が開けて、高い場所にちらりと白いガードレールらしきものが見えた――あれが国道だろうか? 

 だとすれば、最低でもあの高さまで登っていなきゃならなかったってことで。そう考えるとぞっとする。

 辻さんに気を遣っただけじゃない。僕も脚の限界ってのは嘘でも何でもないんだ。

 小さな漁港の横をロードバイクで駆け抜ける。

 僕程度でも全力で漕げば一瞬なら時速三十kmくらい出せるけど、今はもうそんな余裕は無かった。淡々と時速十五km前後を維持して巡行。

 そして殆ど言葉を交わすこともなく富津を抜けて、千々石で国道に復帰する。

 展望台へと続く坂の手前のコンビニで、僕たちは休憩を取った――もう疲労がたまり過ぎて、誤魔化しながら進んでいるような状況だね。

 ドリンクを飲んで、塩飴を舐める。

 頬を掻いたら爪に白いものが残った――垢じゃなくて、汗が渇いてできた塩だと気付いて、思わず笑う。塩飴、買って正解。


「辻さん、行ける?」

「……なんとか」

「愛野さえ越えれば、直後の病院前で一ヶ所坂があるくらいで、あとは本当に平坦だから」

「うん」


 コンビニの壁によりかかって座り込んでいた辻さんが顔を上げる。

 手を伸ばして来たので、僕はそれを掴んで引っ張り起こした。

 ここから二㎞とちょっと。

 さあ、地獄を登ろうか。



  †



 愛野展望台への登り口交差点から、緩やかな斜面が続く。

 瞬間的な斜度だけでいうなら深江の方がはるかにきつかった。

 だけど、こっちのほうが三倍も長い。しかも一定調子で延々と登らなきゃならない。 


「はぁっ! はぁっ! はぁっ! は、ふあっ!」

「ふぅーっふぅーっふぅーっ!」


 片側一車線だったのが、登り二車線――というか登坂車線が増えた辺りで、路肩も舗装も広くキレイになるので格段に走りやすくはなった。

 走りやすくなったからといって、楽になった訳でもないけど。

 ちらり、と背後の辻さんをうかがう。アイウェアのお陰で目は見えないが、僕と同じく眉間にしわを寄せて、残った体力を全てつぎ込んで立漕ぎしているのだと判る。

 改めて前を見た。斜度は相変わらず一定か、若干きつくなってる気がする。

 曲がりくねる坂道を、一心不乱にペダルに力を込めて登る。

 一歩一歩だ。それ以外に方法は無いんだ。

 横をダンプがけたたましいエンジン音とともに追い越していく。ムワッとしたエンジンの排気熱と排気煙のいやな匂いで気力がごっそり削られる。

 なんで僕はこんなことをしてるんだろう。

 隙があれば弱気が顔を出してくる。

 自転車で何キロも坂道登るなんて、馬鹿の所業だ。もっと楽な方法だったら沢山あるだろ。ってか半島一周って、馬鹿か? 馬鹿だろ!!

 百キロて馬鹿だろ!

 くそっ、ほんと馬鹿じゃねーの!


「~~~~~~っっ!!」


 心が折れる、そう予感した直後だ。

 ビッ! と短くクラクションの音に顔を上げる。

 横を走り去って行くオートバイのライダーが、真っすぐ左に伸ばした腕――握り拳に立てた親指。

 たった二秒の、無言の応援。

 そして真っ直ぐに左側を指さして、そのまま走って行った。

 左に、何がある?

 ちょうどそこから木々の隙間が広がって、青い海が見えた。

 輝く夏の海。

 橘湾――その向こうに、うっすらと、白いもやのかかった緑色が見えた。

 陸地。

 長崎市だ。

 僕は長崎が見える場所まで来たんだ。

 島原半島を半周してここまで来たんだ。

 その実感が湧いてくる。


「……じいちゃん」


 当時長崎に住んでいた幼いじいちゃんは、原爆で住んでた家を吹き飛ばされた。赤ん坊だった弟と、母親ごと。

 それでひいじいちゃんと一緒に親戚を頼って島原にやって来たそうだ。

 毎年長崎に原爆が落ちた八月九日は、遠く長崎の方を見ていた。


 戦え、と十年前に死んだじいちゃんは言った。

 嫌だなぁ、と思ったことを今でも覚えている。

 でも本当はわかっとったよじいちゃん。


 戦争しろとか、殴り合えって話じゃないんだ。

 逃げるなとか、立ち向かえってことでもないんだ。


「――――辻さん! あともうちょっと……テッペンが見えたけん!!」

「――――うんッ!!」


 肺が破れそうだ。心臓がはちきれる。

 足首もふくらはぎも大殿筋も、腹直筋も腹斜筋もパンパンに張り詰めて限界だ。ハンドルを掴んで身体を引っ張るようにするから腕も肩も首も背中も痛い。

 太腿なんて前も裏も外側内側全部痛い。張り詰めて引っ張り合って収縮して、いま力の入れ方を間違えたらきっと両脚攣ってしまう。

 けど。

 だけど!


「ん゛~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっ!!!!」


 声にならない雄叫びを上げて、僕はついに登り切った。

 愛野展望台に、よろけるように辿り着く。僕に遅れて辻さんもやって来た。

 正面に広がる橘湾。

 その向こうの――


 もうすぐ梅雨が明ける。

 夏が来る。


 じいちゃん、――俺はいま、戦っとぉよ。




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