2-8. 僕は雨の中へと
――長崎県は自転車の所有率が全国で最も少ないと言われるのは、割と有名な話だと思う。長崎市は坂の街として有名だが、坂が多く平地が少ないのは長崎市に限った事じゃない。諫早と大村くらいじゃないかな、平地が広いって言えるのは。
だからこの島原半島を半周するライドも、海沿いの国道とはいえそれなりにアップダウンがある。
さっきの深江はもちろんみそ五郎の辺りでもあったし、龍石海岸の辺りでもあった。
その度に僕と辻さんは根性で坂を越えて来たのだけど――最初に違和感を感じたのはイルカウォッチングでも有名な口之津を過ぎた辺りだった。
出発してから三時間。そろそろ11時を周ろうかという時刻。
少し薄暗い。気温や湿気と違う感じで空気に重さがある。
「やっぱ一雨来ぅやろか。この先で雨宿りできればよかけど……辻さん?」
「……あー、うん。そがんやね……」
前を走る辻さんの返事が弱々しい。
そう言えば巡航速度が落ちている。
原城跡で休憩してからまだ三十分かそこら、予定の時間も押しているし、先を急ぎたいところだ。
しかし僕もこんなに一度に長距離を走ったことはない。走行距離は既に五十Km近くになる。両足の筋肉と膝の関節にじわじわとした疲労を感じるし、クッションを被せているとはいえ、幅の狭いサドルの座面で尻が痛い。一度休憩を挟むべきだろうか。
そんなことを考えていたのだけど、僕が思っていたよりも辻さんは深刻な状態だった。
この辺りは島原半島の南端を越えた辺りで、かなりの奥地となる。口乃津港周辺を除けば本当に畑と田んぼ、さもなければ手付かずの自然、みたいな土地なので自動車の交通量が目に見えて減っていた。
それが幸いした。
後ろからみていても辻さんの背中に力が無い。肩で息をしているというか、身体を起こしているのもしんどそうな。
しかもぽつり、と鼻先に水滴が当たる感触。雨が降って来た。
「辻さん、雨が――辻さん!? 前!!」
ふらり、っと辻さんのバイクが揺れる。そのまま対向車線へと流れそうになるのを見て、僕は叫んだ。
「車来とぉ! 辻さん前ッ!!」
「……え? うわっ、とととっ!?」
「危な――っっ!?」
パァァァァァァッッッ!!
けたたましいクラクションが鳴って、対向車が蛇行する。
辻さんは咄嗟にハンドルを左に切ってバイクのコースを取り戻した。両者の操作が間に合って、好運にもぶつかることはなかった。
自動車はそのまま何度もクラクションを鳴らしながらも、そのまま行き去った。
ぎゅうっと縮まった心臓が早鐘のように脈打ち、全身に冷たい汗が溢れる。
今、事故りそうに……?
だが、
「えっ? あっ、……きゃあっ!?」
「辻さん!?」
しかし辻さんはふらついて少し進んで、ブレーキ。しかしバイクから降りようとしてビンディングシューズがペダルから上手く外せずそのまま倒れてしまった。
辻さんを追い抜いた僕も慌ててバイクを降りて、護岸の壁にバイクを寄せかけると辻さんへと駆け寄った。
倒れた拍子にビンディングは外れていた。辻さんに圧し掛かっていたビアンキをガードレールに立てかけると、身を起こしたままへたれこんでいる辻さんの顔を覗き込む。
「どがんした!? 大丈夫!?」
「やばい、右脚攣った……あとフラフラする……」
顔色が真っ青だ。
加えて先ほどからポツポツと落ちて来た雨は、少しずつ勢いを増していた。
空を振り仰ぐと重たい曇天は黒い雨雲に変わっていた――脳裏に過る、降水確率二十%の文字。
僕も何かのトリビアで知ったことだけど、降水確率ってのは『この地域この時期この気圧配置なら降るかどうかの予測確率』であって、降雨の強弱は関係ない。
だから百パーセントでお湿り程度かも知れないし、五パーセントで土砂降りかも知れない。
そしてこの二十%のくじ引きは悪い出目が出たらしい。雨足が強くなってきて、本降りになりそうな気配だ。
ヤバイ。辻さんは動けるか? すぐには無理。どこか雨宿りは――!?
「と、とにかく――あそこ、あそこまで行こう!!」
少し先にふたご岩、の看板が護岸に掛けられている。そのまた向こう、国道にロックシェードが架かっているのが見えた。あれなら雨を凌げる!
二台のロードバイクのハンドルをガードレールに引っ掛けると、ふらつく辻さんの右肩を支える。
「~~っ、辻さん、ごめん! ちょっとだけ我慢して!」
「ん? うえっ!?」
ぐっと腰に手を回し、二人三脚の要領で重心を安定させる。
左側面に感じる柔らかさ。体温。香り。
湧き上がる巨大な罪悪感に、左腕から感じる情報を遮断する。
苦行の数分間。なんとかロックシェードの下に辿り着いて、辻さんを座らせた。ポタポタという雨の音は強まり、ついに本降りとなった。
「ここなら……」
狭いけど、ガードレールで車道と隔てられてるし、一応コンクリの柱に寄り掛かることもできる。
「ご、ごめん。緊急事態やったけん」
「うん。それは、よかけん……」
「俺、バイク取ってくるけん! そこで休んどって!」
いたたまれなくなった僕は雨の中へと駆け出す。逃げ出す口実があってよかった!
辻さんが濡れなくて重畳だけど、二台のバイクを押し歩くのは結構バランスをとるのが難しい。僕が戻るころにはびしょ濡れになってしまった。
歩道側にバイクを入れて、「ただいま」と告げると。
いつも自信満々な表情の辻さんには珍しく、弱々しい顔で僕に向かって「ごめんねぇ」と呟いた。
†
辻さんは右足のふくらはぎを攣ったという。
右の踵を持ち上げながら、慎重に伸ばすのを手伝いながら辻さんがぽつぽつと話してくれた。
「楽しみで楽しみでさ、実はあんまり寝つけんで」
「遠足前の小学生かって」
「うっさか!」
結局それで地図を調べたりして、殆ど眠れなかったまま来たのだという。
「あとさっきから、身体に力が入らんくて……」
「……あっ、もしかして!?」
その言葉に僕は、親父に言われたことを思い出す。
辻さんの上げた右脚を腹で支えながら(傍から見れば変なプレイみたいだ、この格好)、僕は背負っていたリュックを下ろしてその中身をぶちまけた。
財布やタオルに混じって転がり落ちたのは、
「――なにこれ、……ようかん? カロリーメイト? ウィダーインゼリーも」
「親父がくれたとよ」
ハイキング趣味の親父から言われたのは、行動食を疎かにするなってことだった。
ハイキングのように何時間も動き回ることを前提としている運動だと、水分はもちろん塩分と糖分の補給も重要になってくる。
特に糖分――血糖の低下は大問題で、そもそも血糖とは脳と筋肉にとってのガソリンみたいなものらしい。無くなると文字通り頭も回らないし、身体も動かなくなる。
ハンガーノックという症状だ。
血糖値が恒常的に高いままだと糖尿病になるのはよく知られていること。
しかしだからといって、もし魔法か何かで血糖値をゼロにしたら、その瞬間心臓も脳みそも動かなくなって人間は死んでしまう。
何事もバランスが大事という話なんだけど、今みたいにロードバイクで何時間も運動し続けるならば減少し続ける糖分の補給は絶対必要な事だった。
このスポーツ羊羹は細いスティック状で、半ばから押せば簡単に中身が押し出されてくるので動き回りながら糖分補給するのにもってこいだし、適度に塩分も含まれている。
そう、糖分だけでなく汗で流れた塩分も補給しなきゃならない。塩飴の需要はそこだよな。
エネルギーゼリー至っては言うに及ばず。
親父が言うには三十分に一本は羊羹かカロリーメイトを食べとけ、とのことだったのに。ロードバイクで走ることに浮かれていてすっかり忘れてしまっていた。
「ああ、そっか。行動食……忘れとったぁ」
辻さんが額を叩く。
「ロードって、サッカーやバスケみたいに飛んだり跳ねたりせんやん? だから競技
中にもこういうの食べたりするんやった」
サイクルジャージの背中にはポケットがあって、そこに色々と小物を入れることができる。カロリーメイトやスポーツ羊羹などこういった補給食を入れるのにも使うそうだ。
食事を消化するのは、実はそれ自体がとても内臓の負担になる。ましてや走るだ跳ぶだのスポーツは文字通り胃がシェイクされて嘔吐するから競技中に何か食べるなんてできない。マラソンのようにドリンクを飲むのが精々だ。
だけど基本サドルに座っているロードバイクは胃が上下することが滅多にないから、競技中に補給食でエネルギーを補うこともできるという、実に稀有なスポーツなのである。もっとも補給食を食べるからこそ行動可能時間が延びるので、競技が長距離長時間化するという逆の見方もできるのだが。
「小遣いがさ、もう無かけんケチってさ……」
それでドリンク以外持ってきてなかったのだという。
ケチっていたのは僕も一緒だ。
小浜でお昼食べようって話をしたから、それで十分だと思っていた。
エリクサー症候群も現実だと笑えないな、マジで。
「みのるさんは何も言わなかったの?」
そういやドリンクはこまめに飲めって言っていたな。
「愛野についたらコンビニとファミレス有っけん、そこで何か食っとけっては言われた。そっか、こうならんごてやったんか……」
みのるさんは僕たちが北回りで愛野を目指すと思っているからな。
それだったらとっくに到着してる時刻だ。
それまでドリンクだけで保つと思ったんだろうけど、僕たちは嘘をついていたし、完全にみのるさんの想定外だ。
僕もスポーツ羊羹を手に取ると、ぐっと押し出して飛び出して来たそれを食べる。
恐ろしく甘く美味しく感じるのは血糖値が下がりまくっているからだな。汗をかいた時に梅干しが美味しく感じるのと同じで、僕もガス欠寸前だったって証拠だ。
時刻はもうすぐ十二時。梅雨とはいえ気温も上がって来ていたし、四時間近く動き回ってドリンクだけだったことを考えれば僕も脚が攣っていた可能性は高い。一歩間違えればふらついていたのは辻さんじゃなくて僕だったかも知れないし、そのまま事故になっていたかも知れない。
雨はどんどん強くなっていく。
「天気予報アプリだとあと一時間、降り続けるみたい。辻さんはドリンク残ってる?」
「えっと、……実はもう残っとらんで。原城で全部飲んでしまって」
「んげ。マジか」
寝不足の上、エネルギー切れで三十分以上、ドリンクも無しだったのか。
そりゃ足も攣るさ。むしろよくぞここまで保った、と言うべきか。
どちらにしても無理を押してこうなってしまった。さっき事故にならなかったのは本当に運が良かっただけだ。
それを思えば肝が冷える。
「僕はもうほとんど残っとらんよ。えっと……よし!」
確かちょっと前に自販機を見た覚えがある。こんな田舎の道路にあって採算が取れるんだろうか、なんて考えながら通り過ぎたはずだ。
僕ももう一本スポーツ羊羹を食べると、空になったリュックに財布を突っ込む。
そしてガードレールの外にロードバイクを出した。
「よいしょっと」
いやしかし、ロードバイクって軽いなホント。
「ど、堂本くん?」
「辻さんはここで休んどって。自販機でドリンク買って来っけん! それ、全部食べても良かけんね!」
「ちょっと――ああ、もう! 気をつけて!!」
「もちろん!」
左右を見て自動車が来ていないのを確認。僕は雨の中へと走り出した。




