閑話/一生分の涙
本日29日、単行本1巻発売なので!
嬉しくなって記念のSS書きました…!
聖女ジゼル様とその騎士であるシラー伯爵は、明日にはマーズトンから戻ると言う。ジゼル様が公式に聖女となられるための継承式も、もう間もなく王都の大聖堂で執り行われることとなる。
王城も、大聖堂も、その準備におおわらわだ。もちろん、この国の王女であるわたしもまた、休んでなどいられない……のだけれど。
「片付けは終わったのかい?」
ノックと同時に部屋へ入って来たのは一の兄さまだ。王太子として常に己を律する兄さまを、わたしは尊敬してやまない。
「いいえ、まだかかりそうですわ。すべてを持って行くことはできないし、だけどすべて大切なんですもの」
「俺も手伝おうか」
「まぁ! ご多忙な兄さまのお手を煩わせるわけには」
兄さまは優しい笑みを浮かべて周囲をぐるりと見回した。
隣国への輿入れを前に私的な荷物を選別しているのだけれど、ひとつひとつ懐かしい記憶が思い起こされて選びきれない。おかげで部屋の中は物で溢れかえっている。
「あれ、これはまた懐かしいな」
そう言って彼が摘まみ上げたのは、わたしの名が刺繍されたハンカチだ。刺繍といっても、糸はところどころ飛び出ているし縫い目はガタガタで、お世辞にも上手とは言えない代物で。
「ステラ姉さまがくれたものだから捨てられないのです」
「昔はこれを持ち歩いてメイドに洗濯さえさせなかったね」
「ええ。これは――」
ステラ姉さまがくれたものであり、セレスタン兄さまとお揃いのハンカチだったから。
一の兄さまからハンカチを受け取って刺繍をなぞる。もう何度もそうしてきたせいで、水色の糸はすっかり黄ばんでしまっていた。
「わたし、あの頃はセレスタン兄さまと結婚するんだって、信じて疑わなかった」
「セレスタンの後ろをずっとくっついて歩いていたね」
幼い頃の記憶が、まるで昨日のことのように思い出される。
二の兄さまとセレスタン兄さまが遊んでいるのを追いかけて、転んで、泣きわめくわたしを起こしてくれたのはセレスタン兄さま。算術でわからないところを教えてもらったこともあるし、お昼寝のときにはそばにいてとわがままを言って困らせたりもしたわね。
「大好きだったの」
「うん」
「兄さま、わたし、セレスタン様をお慕いしていたのよ?」
「知っているよ」
ただ頷くだけの一の兄さまだけど、その表情はどこまでも優しい。
困らせちゃいけないと頭ではわかっているのに、言葉にしたことで一層胸が苦しくなってポタリと目から水滴が落ちた。
「わたしに婚約の話がなかったら、彼は振り向いてくれたと思う?」
「……ああ、きっとね」
それが嘘だと私たちはお互いに理解しているけれど、どちらも指摘はしない。
もっともっと大泣きして、結婚なんかしたくないと無理を言えたらどんなにいいか。けれど王女として生まれた意味と責任を放り出す勇気もないの。
「ジゼル様は森の中で祈ったとか」
「そう報告をうけているよ」
「大きな火事だったのでしょう? ……さぞ怖かったでしょうね」
「魔獣の襲撃も受けたようだからね」
「悔しいけれど、わたしではなくあの方を選んだセレスタン様を、なぜだか誇らしく思ってしまうわ」
――聖女でもない人が出掛けて行って民のために何ができるって言うんですか!
火事が起こると預言を受けた日、ジゼル様はそう言ってわたしを叱りつけたのよね。
王族に盾突くのも怖かったでしょうに、彼女は民のために立ち向かった。意地悪な王族にも、火事にも。民のために身を投げ出す人を、わたしは認めないわけにはいかないのだ。
「ビビは聖女をいたく気に入ったようだね」
「だってそうじゃなきゃ、わたしがかわいそうですもの」
手の中のハンカチを元の場所に戻すと、一の兄さまが驚いたように眉を上げる。
「持って行かないのかい?」
「あら。兄さまは妃殿下が過去の想い人とお揃いのハンカチを、後生大事になさっていても笑顔でいられるのですか? それって寛容なのではなく無関心だと思いますけれど」
「や、俺だって妻がそんなものを持っていたら困ってしまうけど」
「それにステラ姉さまなら『こんな汚いものさっさと捨ててしまいなさい』っておっしゃるはずよ」
「ふふ、違いない」
ハンカチと一緒にわたしの恋心も置いていくわ。
わたしがどれだけ美しくなっても、どれだけの殿方を魅了しても、セレスタン様だけはきっと振り返ってはくれないとわかるから。
彼に対する理解度だけは、まだまだジゼル様には負けないのだから。
「大体、あの男ときたら」
「あの男」
「隣国の王子との縁談がまとまったと言ったら、眉ひとつ動かさず『おめでとうございます』って。それはもう溜め息が出るほど美しい笑みでしたわ」
「あれは腹黒いからね」
傍へ来た一の兄さまが私の頭を撫でてくれた。
少し年が離れているせいか、一の兄さまはいつだってわたしを甘やかしてくれる。
「兄さま」
「なんだい」
「胸をお借りしても?」
「目が腫れない程度にね」
わたしは兄さまの腕の中で、まるで子どもみたいに泣き続けた。
きっと一生分泣いた。わたしはもう、隣国で泣くことはないだろう。
お読みいただきありがとうございました
どうか3章でまたお会いできますように!




