2-26 初めての海!
青い空、白い雲……そして、碧い水。
「あのキラキラしてるの水に見えますけど! 大きい!」
「海ですね」
「初めて見たーっ!」
お出掛けをするなら今しかない、と言われてやって来ましたマーズトン!
グテーナの南に位置する坂だらけの土地です。坂を下まで行くと海があって新鮮なお魚も食べられるんだとか。
マーズトンへ到着すると、私たちは休憩もそこそこに観光へと繰り出しました。途中のお菓子屋さんで買った、オレンジのジャムをたっぷり挟んだもちもちのマカロンがとにかく美味しくて。
「オレンジも名産なんですか」
「もちろん。この急斜面のおかげか冬も北風がなく、一年中温暖な気候がこの柑橘類を育ててくれるんです」
セレスタン様は王都へ戻った日からずっと私に敬語で接するようになりました。居心地が悪いから敬語はやめてほしいと伝えても、「けじめですから」と言って取り合ってくれません。
聖女と騎士であって男女ではないから、なんのしがらみもなく旅ができるということなんでしょうか。つまりセレスタン様にとってこれは旅行じゃなくて仕事なんですよね……。
以前から少しずつ心に溜まっていたモヤモヤの埃が、今では立派な層になって私の胸を押しつぶそうとしています。身分も違うしどうにかなりたいと思ってるわけではないけれど、やり場のない気持ちをどう扱えばいいのかわからないのです。好きになんてならなければよかった。
ズキズキ痛む胸に気付かない振りをして、私は優しく微笑むセレスタン様から目を逸らしました。
「海行ってみたいです! ここを下りればいいんですよね!」
「走ったら危な――ジゼル!」
「きゃあっ」
急な坂を駆け下りようとして体勢を崩してしまいました。
けれどセレスタン様がしっかり私の身体を抱き留めてくれたので、坂を転がり落ちることはもちろん、膝をすりむくような小さな怪我さえありません。さすが騎士様、反射神経がすごい。かっこいい。はーやっぱり好き……。
デコルテとお腹にセレスタン様の腕を感じながら、ころころと斜面を転がっていくオレンジ色のマカロンを見つけました。
「私のマカロンが! 最後のいっこだったのに」
「勉強代としては安かったですね」
「でも気分的な損失は大きいですっ!」
「ククッ……、ではあとでまた買いましょうか」
「やった! ありがとうございます! ……ていうか、あの、手をそろそろ」
いつまでも抱き締められたままでは恥ずかしいので。
でもセレスタン様は背後から私を抱えたままで首元に顔を埋めました。くすぐったいし、もっと恥ずかしくなりました。なんでこうなった。
「あなたに腕を治してもらっていなかったら、今こうして抱き締めることも叶わなかった」
「そ、そうですね?」
ひとつ大きなため息をついたセレスタン様はパっと身体を離し、私の手を取ります。
「ではゆっくり海まで下りましょうか」
「……はい」
ああもう。天然の人たらしってここまでするんですか、怖い。いつかセレスタン様が結婚したらお嫁さんは心配できっと胃に穴が開くと思います。っていうか胸がバクバクして破裂しそう!
空いたほうの手で熱くなった頬に触れて冷やす私の横を、子どもたちがふたり駆け抜けて行きました。
「じいさんの店休みかよー」
「体調悪ぃって大丈夫かな」
「あとで司祭さまに言っとこうぜ、したら様子くらい見に行くだろ」
「うん! じゃあジャムどこで買う?」
「向こうの通りのパン屋だな」
彼らの来たほうを見れば食品店があり、しっかり閉じられたドアに張り紙が。体調不良で二、三日休むと書いてあります。
「優しい子たちですね」
「彼らは孤児ですよ」
「え? 孤児がジャムを買いに? しかも文字が読めるなんて」
セレスタン様は誇らしげに頷きました。
ここマーズトンをはじめ、タンヴィエの領地において福祉は最重要課題として取り組んでいるのだそうです。孤児の生活支援もそのひとつで、文字の読み書きや簡単な計算を身に着けられるようにしているとか。
「投資ですよ。港があってレモンがあって、都市部に続く道も整備しています。働き手は多いほうがいいし、文字が読めればなお効率がいいですから」
「リトン……私の故郷とは違いますね」
「あそこは西に構える侯爵家の飛び地ですから、管理の手が行き届かない面はあるでしょうね」
「そう、ですね」
ビビアナ殿下にソニアを悪く言われたとき、孤児である私たちに何もしてくれなかったくせにと怒りを覚えたものです。けれど……領主が違えばこうも変わるものかと。
リトンは大きな利潤を生むような資源もないし、仕方ないのかもしれないけれど。
「でも聖女の出身地は言わば聖地ですから足を運ぶ人も増えるでしょう。これからリトンも変わっていくと思います。というより、変えざるを得ないはずですよ」
そう言ってセレスタン様はまた意地の悪い笑みを浮かべました。確かに、聖地なのに食うに困る孤児が駆け回っているとなったらいろいろ困るでしょうしね。
「そうなったらすごく嬉しい」
「なります、きっとね。あ、ほら。もう海ですよ」
階段を下りきった先は左右にどこまでも続く真っ白な砂浜でした。白い泡を立てながら波が静かに寄せては返し、西に傾き始めた日の光が水面にキラキラと反射しています。
「この街は毎日こんなご褒美が見られるんですね」
果てがないほど広いキラキラの上を鳥が気持ちよさそうに飛んでいて、たまに水からピチャっと何かが跳ねたりして。水平線の向こうの雲は止まって見えるほどゆったりと形を変えていく。ここだけ時間の流れが違うみたい。
日の光は肌をチリチリ焼くけれど、潮風が優しく撫でてくれるから気持ちがいい。
眩しくて目を細める私の手を、セレスタン様が小さく引っ張りました。見上げると彼は真っ直ぐに私を見つめていて。
「あなたが聖女でよかった」
「そ、れは――」
言葉に詰まりました。




