2-19 精霊のふるう力
領内の商業ギルドが保有する四輪の幌馬車を借りて森へ戻りました。乗り心地よりも大きさを優先したのは、怪我人を発見した場合にすぐに運べるようにするためです。
森の入り口は先ほどよりもずっと暑くなっていて、上を見上げれば煙が空を覆い隠しています。
聖騎士さんたちは数名ずつに分かれ、それぞれ別の方向を目指して森へと入って行きました。こちらへやって来る魔獣を仕留めたり追い払ったりするのが彼らの役目です。一方、私もセレスタン様とふたりで中央の道を真っすぐ進んで行きます。
「暑……」
「そうだな、熱気を考えてもこれ以上進むのは危険だ」
「では、ここで」
周囲を見渡せば精霊たちが不安そうに私の近くを飛び回っていました。そっと伸ばした私の手に光の粒がいくつも集まって小さなリスの形をとります。リスは指先に頬擦りをしてからまた散り散りになって飛んで行きました。
そんな様子が不謹慎にも愛らしくて、リスが頬を寄せていた指先へ視線を落としましたら。
「そんな――」
赤く腫れてヒリヒリしていた指先が治っているのです。精霊が怪我を治せるだなんてどんな本にも載っていなかったのに!
「どうかしたか?」
「いっ、いえ、なんでもありません」
勘違いかもしれない。そう、元々たいした怪我ではなかったのだから勘違いに決まってる。それに今はもっと他に集中するべきことがあります。
私は熱気で咽ない程度に軽く深呼吸をしてその場に両膝をつきました。目を閉じて両手を胸の前でしっかりと組んで。
「集中していいぞ。俺が命に代えて守るから」
セレスタン様の言葉に頷いて身体中を巡るマナに意識を集中させます。
どこかでミシミシと木が倒れるような音がし、次いで獣の雄叫びが響きました。いいえ大丈夫、集中できている。
「グテーナを愛しグテーナを守る精霊よ、グテーナの民を愛しグテーナの民を守る精霊よ」
私の呼び掛けに応えるように精霊が集まって来るのを感じました。と同時に、体内を流れるマナがぐんぐん吸い取られていくような感覚。
「この森を愛しこの森を守る精霊よ、あなた方の代弁者であり人々の代行者たる私ジゼル・チオリエが畏れ多くも申し上げます」
周囲が騒がしくなりました。精霊たちが私の言葉を待っている……というのもあるのですが、セレスタン様が戦っているのです。
土を踏みしめる音、激しく動く衣擦れの音、荒い息遣いと人間ではない何かの唸り声。恐怖で胃が縮み上がるような感覚でしたが、でも大丈夫。セレスタン様がいらっしゃるから。
再び深呼吸で息を整えます。
「天にも触れ得る猛火が森を、グテーナを呑み込まんとしています。どうかこの災禍を祓い――」
ぐ、とセレスタン様の苦しそうな声が聞こえました。
「グテーナに漏らすくらいならこっちへ! ジゼル様は俺が必ずお守りするから!」
聖騎士さんたちが魔獣に押され後退しているのでしょうか。部下の討ち漏らした魔獣をセレスタン様が一手に引き受けようとしているということ?
んもう、なんて無茶を! いかにセレスタン様が腕に覚えがあっても限度があるでしょうに。
しかも気温はさらに上がって、肌がチリチリと痛みを感じるほどです。私たちにはもう時間が残されていないということ。
「お願い助けて、精霊様っ! ……っ」
叫んだ瞬間、体内のマナがいっぺんに吸い出されたような感覚に襲われました。息が苦しくて背中を丸めて喘ぐ私の周りで、ざわざわと精霊たちが囁いています。私たち人間の言葉ではないけれど、彼らが何を伝えようとしているかはわかる。「まかせて」とか「ありがとう」とか、そういったことを言っているのだと。
浅い呼吸を繰り返しながら目を開けると、思い思いの姿をした精霊たちが天高く飛んで行くのが見えました。キラキラの光の粒と蝶や鳥に混ざって、作業着姿の男性や可愛らしいワンピース姿の若い女性、それに膝まである古い意匠のジャケットコートを着こんだ貴族風の男性の姿も。
「おい! 雨雲が……っ!」
どこかから聞こえた声を頼りに木々の合間から空を探します。強い風が吹いて煙が消し飛ばされたその刹那、重く立ち込めるぶ厚い雲が垣間見えました。今の季節にはほとんど見ることのできない雲です。
これが精霊の権能かと感嘆の溜め息をこぼしながら見入る私の視界で、赤が飛び散りました。一瞬、何が起きたのかわからなくて。だけど同時にセレスタン様のうめき声もしたのだから理解しなくちゃいけなくて。
「セレスタン様っ」
「大丈夫だから! そこにいろ!」
彼の左腕から血が滴っています。
対峙する魔獣は狼に似た種が三頭と蛇のようなのが二匹。三竦みになっているのでしょうか。だからと言ってこんな状況をひとりでどうにかしようなんて、やっぱり無茶だわ。とはいえ私は彼の言う通り、おとなしく目立たないようにするしかなくて。
火が消えれば魔獣だって森の奥へ戻るはずです。だからお願い!
「お願い、雨よ早く降ってください……!」
再び手を組んで祈っていると、地面についた膝が微かな振動を感知しました。次第に大きくなる振動と、それに呼応するような音も聞こえてきます。猛スピードでこちらへ向かって来る動物の足音に違いありません……しかも、大群です。
そんな、今でさえ窮地と言える状況だって言うのに!




