1-2 泣かせるつもりはなかったのだけど
夕方近くなって、パン屋の仕事は筋肉自慢の店長と交代します。店長は夕方から夜中にかけて翌日に売るためのパンを仕込むの。女将さんは朝早くからそれを焼いたり、お店の管理をしたり。週に一度の定休日だけが私たちのお休みです。
デニッシュ生地にレモンの蜂蜜漬け……しかもタンヴィエ領産のレモンをふんだんに使ったパンをふたつ買い、あと廃棄のパンもいつも通りいくつかいただいて裏口から外へ出ました。
靴屋さんに寄ってブーツの修理を依頼してから帰ろうかなーなんて呑気に考えていたら。
私が扉を開けると同時にガサっと物音がして、小さな足音が走り去って行きます。度々遭遇しているので確認せずともわかるのですが、これは廃棄したパンを盗む孤児です。店主夫婦が何も言わないので私も普段は見て見ぬふりなのですが、今日はそうもいきませんでした。
だって、犯人が走り去った方向からどんがらがっしゃんと酷い音がしたんです。慌てて駆け寄ってみると、脚立に足を引っ掛けたらしく孤児の男の子が盛大に転んでいました。廃棄のパンは全て水溜りに転がっていて。
「あらー。せっかくのパンが泥だらけじゃないの。あなたもね。ほら、立てる?」
七、八歳といったところでしょうか。男の子に手を差し伸べると、彼はぱんぱんに膨らませた頬と引き結んだ口でそっぽを向きながらひとりで立ち上がりました。叱られると思って虚勢を張ってるかのように見えます。でもチラっとこちらを見て囁くようにお礼を言ってくれました。
「……ありがと」
「今日は聖女さまが教会にパンを持って行ってるはずだけど、貰わなかった?」
少年は俯いて小さな声でそれを否定します。
「聖女なんかじゃねぇし。俺ら子どもにはこき使うばっかで優しくないもん。でも大人はみんな聖女の味方なんだろ」
「そうなの? 何かすれ違いがあるのかもしれないね」
ボランティアで何かあったんでしょうか? とは言っても子どもをこき使うという意味がわかりません。ソニアが意図したことが間違って伝わってるとか……?
けれど少年は涙を堪えるように眉根を寄せて顔をあげました。
「ほらみろ、大人は信じてくれない!」
「あ、なるほど、あー、確かに。ごめん、今のは私が悪かったわね」
まさかソニアが、と思うあまりに彼の気持ちを軽んじてしまったということですよね。
泣きそうな子どもを前に、というか半泣きにさせたのは私なので罪悪感に襲われてしまいました。罪滅ぼしとばかりに泥だらけのパンを片付けて、彼を水場へと連れて行きます。
普段、近所のご婦人方が集まって水仕事をするところです。私も休日には衣類をまとめて持って来てせっせと洗濯するのですが、夕方のこの時間は野菜を洗う人さえいません。
「さぁ少年よ、服を脱ぎたまえ」
「ロドだよ」
下着姿になった少年、ロドにショールを巻き付けて、ご婦人が置きっぱなしにしている石鹸を拝借しつつ服を洗っていきます。ロドは水場の縁に腰掛けて遠くを見つめながら口を開きました。
「聖女は俺らをパンとかスープとかで働かせて、自分だけ金貰ってんだ」
「どういうこと?」
「草むしりとか、掃除とか、他にもいろいろ。街の奴の手伝いしてんの。食いもんがないときは小銭くれたりもするけど、聖女はもっとたくさん金貰ってんだぜ」
「それ……司祭様はご存知なのかしら」
ロドは強く頷きます。
「聖女が稼いだ金のほとんどは教会に寄付するから司祭は何も言わねぇし、金払った奴だってゼンコーだって褒めるだけだよ」
からくりがわかりました。
私の持ち帰るパンは教会へ寄付するのではなく、孤児に報酬として渡していたんですね。私にボランティアだと報告していた彼女の働きはすべて、金銭を伴うサービスだった。けれどその依頼料の多くは教会へ寄付されるため、街の人は喜びこそすれ文句を言うことはない……。
彼女の着る衣類などは教会へ持ち込まれた古着をいただいてるんだと言っていたけど、それも怪しくなってきましたね。
そんなの、聖女でもなんでもないじゃないの。せめて子どもたちに正当な報酬を払わないと。
無言になった私の顔をロドが不安そうな表情で覗き込みました。
「どれくらいで乾く? 妹が待ってるから早く帰らないと」
「んーどうかなぁ? 風の精霊さまに早く乾かしてーってお願いしよっか」
水場のそばには洗ったものを暫定的に引っ掛けておく洗濯紐があるので、そこへ服をかけました。ロドとふたり並んで立って、両手を組んで風にお祈りします。
ふわりと暖かな風が吹きました。私の目には、亡き母が微笑みながらロドの服をパタパタ揺らす姿が見えています。幽霊と言うのでしょうか、私は小さな頃から亡くなった人の姿を幻視することがあるのです。
両親が亡くなったあと、ふたりの姿が見えると言ったら「ずるい!」とソニアが激しく泣き出したので、以来この幻視については口にしなくなりました。思えばあの子が善行に傾倒するようになったのもそれくらいの時期だったかもしれません。
辺りがゆっくりと暗くなっていつの間にか周囲が見えづらくなってきた頃、幻の母が小さく手を振って消えました。確認すればロドの服はすっかり乾いているようです。
「もういいみたい。少し風が強かったからすぐ乾いたね。もう暗いし送って行こうか」
「ありがとう!」
ふたり手を繋いで彼の住む家、スラム街へと向かいます。
「お姉ちゃんね、聖女様と少しだけ知り合いだから。ちょっと話をしてみるね。子どもたちにも優しくしてあげてねって」
「ん。……あ、ここまででいいや。この先は姉ちゃんにはちょっと危ねぇもん」
「ふふ、カッコイイね。それじゃあコレあげるから、妹と一緒に食べな」
「おー、美味そう! ありがと、ございます。偽聖女のことはさ、もういいよ。俺らが我慢すればいいんだし。姉ちゃんが他の大人に変な目で見られたら困るだろ。じゃ、今日はありがとな!」
ハニーレモンのデニッシュパンをあげて、スラム街付近でお別れです。最後はニコニコで大きく手を振ってくれたので、彼の言葉を信じなかったという罪は償われたことにしたいと思います。ハニーレモン……は、ちょっとだけ残念ですけど仕方ありませんね、慰謝料です。
さて。何かすれ違いや勘違いがあっただけだと思うのですが、家に帰ったらソニアと話をしてみましょうか。子どもが我慢すればいいだなんて、そこまで言わせて何もしないわけにいきませんし。
あ、でももし王都へ行ったらそんな心配はいらないのかしら?
家に帰るべく来た道を戻ろうと振り返ると、建物の陰からこちらの様子を窺う気配がありました。場所はスラム街近くですし、思わず息を呑んでしまいます。が、相手は隠れることなくこちらへぬらりと姿を現したのです。