2-7 ひとりのご飯は美味しくなくて
セレスタン様は私を抱き寄せたまま続けます。
「あの侍女がここまで問題のある人物だとは。嫌な思いをさせてすまなかった。別の者に替えさせるから――」
「あ……いえ。大丈夫です。普段は別に困っていないというか、十分助かってますし」
「では、いつでも替えられることは覚えておいてくれ」
返事をしつつ身をよじって腕の中から脱すると、彼は微笑んだまま私の手にある日記を指差しました。
「読むなら席を外すけど……あ、でも」
日記を見つめていた彼のすみれ色の瞳がこちらを向き、その表情の明るさに理由もわからないまま期待が膨らみます。
「写本はどうかな。すぐに送り返すんだろう? せっかくなら君も手元に置いておきたいのでは?」
「……ッ! ぜ、ぜひ!」
「よし。なら、手配しておくから読み終えたら教えてくれ。それとも先に写してしまってもいいが」
「なにからなにまでありがとうございます。いったん、先に目を通そうと思います。ええと、夜にでも」
私がそっと日記の表紙を撫でると、セレスタン様は小さく頷いて椅子に掛けました。
今日はバルバラ様もいらっしゃらないし、淑女教育とかいうやつもお休みなので午後はなんの予定もありません。ふたり分のお茶を淹れて彼の対面に座り、ソニアからの手紙を読みます。
「父の日記はソニアがずっと隠してたんですって。私だけ両親の姿が見えるのはフェアじゃないからって。それから……ふふ、あとは文句しか書いてない。ご飯が美味しくないとか、監視がうざったいとか」
「彼女は君に甘えてるんだな、今も、今までも」
「でしょうね。だけど……ひとりで食べるご飯が美味しくないことを、私は王都に来て初めて知りました。私もソニアという存在が支えだったのは確かで」
セレスタン様は私に騎士の誓いをくれましたが、四六時中一緒にいるわけではありませんからね。彼には彼の、私には私の生活や責務があるので。自然、朝や夜はひとりで食事をとることが多くなります。そんなとき、パンをかじりながら聞くソニアの愚痴がひどく懐かしく感じられるのです。
「たいした罪には問われないだろうとの話だったし、いずれ会えるさ」
「そうですね」
お茶を淹れるためにテーブルの端に置いていた日記を見るともなしに眺めていると、セレスタン様が「しかし……」と呟きます。
「お父君は文字が書けるのだな。我が国の識字率調査では男だけに限れば六割ほどと割と高いのだが、居住地、年代、資産に偏りがあった」
父の世代で田舎の平民が文字の読み書きができるのは珍しい、ということでしょう。私やソニアは父から文字を教わっていたし、それを当たり前のことと思っていましたが。
「言われてみれば不思議ですね。ご先祖は隣国にルーツがあると聞いた覚えがありますけど、何か関係があるのかし……あら?」
時間経過とともに窓から入る光の角度が変わり、日記に日があたりはじめました。キラキラ虹色に輝くマナが日記の周囲に集中し始め、少しずつ形をなしていきます。
日記の上に誰かの手。その手の先を見上げていけば、父が立っていました。
「どうかした?」
そう言ってセレスタン様が私の視線の先を追うように日記のあたりをご覧になりました。
「父が……」
「いるのか、ここに」
「はい。あ、その後ろに母も」
私の栗毛は父譲りで、翠の瞳は母譲り。年をとらなくなった両親は当たり前のことながら若々しくて、少しずつ年齢が近くなっていくことに寂しさと誇らしさが綯い交ぜになります。
セレスタン様は音もなく立ち上がって日記の前へと身体をずらしました。両親もそっと彼のほうへと体の向きを変え、まるで向かい合っているみたい。
一体何をするのかしらと見守っていると、セレスタン様はピシっと音がしそうなほどキビキビと右手の拳を左の胸にあてました。それはルサーリィ聖騎士会における敬礼です。
「然るべき待遇さえ徹底できておらず、誠に申し訳なくあります。が、ご息女、ジゼル嬢は我が命に代えても必ずお守りするので、どうか見守っていただきたく」
「ちょ、命ってそんな――」
大仰な、と言おうとして、でも言えませんでした。
両親がゆっくりとそして深く頭を下げたのです。
「お父さん、お母さん……!」
なんだかもう二度と会えなくなるような気がして慌てて席を立ちました。けれど深く頭を下げたままの両親と、まるでそれが見えているかのように真剣な眼差しで真っ直ぐ前を見つめるセレスタン様の姿に圧倒されて動けません。
視界が滲んで、だばだばと涙が頬を伝い落ちていきます。
「ジゼル嬢?」
こちらを向いて目を丸くしたセレスタン様の前で、両親が身体を起こし私のほうへと向き直りました。
ふたりは小さく微笑みながら頷いて、また虹色の光へと姿を変えていきます。
「や、待って! お父さん、お母さん!」
ようやく身体が動き出し、テーブルをぐるりと回って両親の元へたどり着いたときには、ふたりはもういませんでした。周囲を見回しても、ただぽつりぽつりと虹色の光が浮かぶだけで。
もう一度触れたかった、抱きしめて欲しかった。今までずっと幽霊だと思ってたから、見えない振りをしようと呼びかけることさえしてこなくて。
何にも触れることなく宙に浮いた私の手をセレスタン様が力強く握りました。
「ご両親はなんて?」
「いえ、なにも。ただセレスタン様に深く頭を下げていました」
「……そうか」
彼の空いた手がのびて涙に濡れた私の頬を優しく拭います。
「せっかく時間もあるんだし、街に繰り出してみないか? 王都に来てから城の外に出たことないだろ」
「ふふ、いいですね。では観光案内をお願いします」
「ああ。任せてくれ」
袖でぐっと目を拭いて、着替えるために階段を駆け上がりました。
……デートだ!




