アントール・ド・シマンの残したる遺書
本遺書はアントール・ド・シマンの残したる遺書であり、本遺書及びその付随する「大皇帝記」に関しては捜査における重要なる証拠であるから国立警察公文書書庫にて厳重に保管すべし。
なおこの遺書及び付随する「大皇帝記」に関する説明については専用の報告書をそれらと付随させるのでそれを参照すること。ーーー光明暦1845年5月3日 捜査官ド・ブールの書き付け
本遺書および付随する「大皇帝記」及びそれに付随する報告書に関しては我が帝国における歴史学的研究及び超心理学的及びその他諸々の研究において重大なる資料であるので、5月1日に旧ラクサンティネ共和国設立の国立警察公文書書庫から、占領軍総本部より来る専用の公用車に、本遺書及び「大皇帝記」及び報告書を渡すこと。
なお本遺書及びその他の資料はそのまま本国から事前に通知される所定の位置まで運ばれる。
ーーーー光明暦1942年4月29日(新暦732年)占領軍からの通知
光明暦1845年5月1日
ヤアヤア遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。吾輩の名前は大歴史学者アントール・ド・シマンであるぞ。
知らぬものは吾輩の名前を1845年4月8日の国営新聞にみつけるが良い。
サテ、とは言ったもののこのような大層な書き出しを書いてみたものの吾輩にとってみれば遺言として残すようなことは何一つないわけである。
オット、吾輩の妻と吾輩の財産に関することや吾輩の親戚に対する遺言ついては別立てで書いた専用の遺書を見てくれ…。
本遺書が言いたいのはつまり、この遺書と一緒に置いてあるであろう膨大な原稿用紙を後の世に託すということである。
と、言ってもその膨大な原稿用紙に書かれていることは本来の私からすれば書かないようなことを書いているものであるからそれを読んだ者たちにとっては非常に不可思議なる感想を述べるであろうし、なぜこのようなものを書いて自殺するのか非常に不思議に思うであろうからここになぜこのようなものを書き、それを託して欲しいのか、それについてこれから書こうと思う。
さて、その前にこの大量の原稿用紙が何を書いているのか簡潔に説明しよう。 これらは要するにある皇帝の一生をその人目線で辿った小説である。
これを聞いて、吾輩の著書をいつも読んだり、言動をいつも観察してきた諸君は驚き、疑問に思うだろう。
なぜいつも歴史を主観視することを嫌い徹底的に客観視する癖に死ぬ直前に歴史上の人物を主観的に見るような小説を書くのであろう。
なぜ小説家気取りのようになったのであろうと。
その問いに関して吾輩はこう答える。是非書を読んでくれ。そして、時世の流れを見てくれ。そうすればわかる。
これで納得しない人が多いだろう、だが今私が言えるのはここまでである。読者諸君に対して相済まなく思うがしょうがない。
ついで言うと、この小説は後世の人々が勝手に考えてその人の姿を描き出したようなものではなく、私が皇帝の辿って行った人生を文字通り追体験して行ったもの、つまり皇帝の人生そのものを私が記憶したものを書いていったものである。
これを聞いて、
「なーに言ってんだこのヘボ歴史家は…。頭がおかしくなったのか?」
と、思うかも知れない。ごもっともなことである。
だが、重ねて言おう。これは我々人類にとって最も重要な書になると言うことを…。
さてここまでダラダラ言っていてもなぜこんなことを言うのか、君達にはわかるまい。だから早速付随する原稿用紙の束を読んでくれ…。それを読んだ上でいずれわかるだろう…私が何言いたいのか…。最もそれがわかるのはずっと先の話となりそうではあるが…。
そしてこれを読んだ者達に言いたい、どうかこの書を全世界に広く広めてくれ…、結局それが吾輩がこの遺書で一番言いたいことである。
ここまで下手な文章を読んでくれた君達には感謝する…。さぁこの物語を読んでいってくれ…。
ーーーーアントール・ド・シマン