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海を越える後悔  作者: 六福亭 テレンス・ブレーク
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 ひどく酔った僕が友人に支えられて帰宅した時、メアリはいつもと変わらず献身的に僕を看病してくれた。ベッドに倒れ込んだ僕に温かい飲み物を運び、そのままベッドの側に立っていた。

 僕は、出て行ってくれと彼女に言おうとした。だが、彼女が出て行ったら、またあの声がメアリの噂をずらずらと並べる。メアリは性悪。メアリは卑怯。メアリは。メアリは。

 メアリが僕を見下ろしていた。僕の酔いは覚めつつあった。影になったメアリの顔に向かって、何を言えばいいのか分からなかった。

「あの箱を、開けたんでしょう」

 メアリは、静かにそう言った。僕は、体をゆっくりと起こした。メアリが手を貸してくれた。

「私のことを、何と言われたの?」

 僕の身に起こっていることを、全て分かっているような言い方だった。

 その時、僕は最も愚かな選択をした。

「君について言われたこと、人殺し、すべた、いじめっ子__全てでたらめなんだろう?」

 メアリがその時どんな辛い思いをしたか、想像すらしなかった。

「あなたはそれを信じたの?」

「まさか。信じやしないよ」

 僕の空虚な言いつくろいが、二人の間に浮いた。

 メアリは、ベッドの端に腰掛けた。

「私には、姉がいたの。姉は口から生まれてきたと言われるほど、昔からおしゃべりだった。家の中で、両親や私と話している間はまだよかった。だけど、学校に行くようになってから、私にとっての地獄が始まった」

 メアリは僕を見ないまま話し続ける。

「姉はどこかしこで仕入れた噂をそこら中にまき散らすのが好きだった。そのうち、周りから嫌われて、仲間に入れてもらえないようになった。姉のそんな姿を見てきた私は、姉と同じことは決してしないようにしようと決めて、人に好かれる努力をした。そのおかげで、学校では多少人気者になれた。でも姉は、そんな私が気に入らなかったみたい」

 彼女は大きく溜息をついた。

「私に近づいてくれた友達や、恋をした相手に、姉は根も葉もない噂を強引に吹き込んだ。みんな大抵、それを信じて、私を憎むようになった。最初は耳を貸さないでくれた人も、姉があまりにもしつこいので、しまいには私から離れていった。初めて恋をした男の子も、親友のグレイスも、私を褒めてくれたスミス先生も、姉の私への仕打ちに憤ってくれたローラも、結局誰一人姉の作る噂には勝てなかった」

 僕は、メアリの頬を涙が伝っていることに気がついた。だが、僕はもうそれを拭ってあげることができない。その資格がない。

「__私は、人殺しなの。姉があなたに言った通り」

 メアリはそう言った。

「姉を殺して、イギリスに逃げた。姉の死体は、ばらばらにして平原に埋めた。全部、一人でやったのよ。もう二度と私の噂を広めることができないように、真っ先に姉の口を切り取って、庭の深いところに埋めたの」

 彼女は音もなく立ち上がった。

「噂が、私を鬼にした」

 彼女が寝室を出て行って、僕は一人取り残された。あのおぞましい声は、その夜は聞こえなかった。


 それから数日経った。ローマ旅行は取り止めになった。近所中が僕の噂でもちきりだ。誰かが、僕の噂を広めているのだ。

 ジャックは不実な浮気男。新婚の妻に逃げられた。失職し、毎日繁華街へ物乞いをしに出かけているらしい。飲んだくれているばかりか、阿片を常用し金を食い潰しているらしい。

 噂を流しているのが誰なのか、たった一人残った僕の友人がそっと教えてくれた。どうも僕の妻、メアリらしい。

 メアリはとっくに家から出て行ってしまった。どこで寝泊まりしているのか、僕は知らない。だが、彼女が近くにいることは分かる。毎日僕の悪い噂がそこら中から聞こえてくるからだ。まだ彼女は僕の妻だから、その立場を利用してあちこち飛び回っているのだろう。


 そしてとうとうある日、僕はメアリと再会した。彼女は、ひまわりの花を売る子供に、僕が妻を殴る夫だったと盛んに吹聴していた。

 僕は彼女を捕まえ、家に引っ張り込んだ。玄関に、重いステッキがあった。そのステッキを取り、彼女の頭に何度も振り下ろした。

 彼女がすっかり動かなくなってから、僕は死体を隠す算段を始めた。このまま運び出すのでは、すぐにこの罪が露見してしまう。そうだ、死体を小さく分割すればいい。台所で作業をした。真っ先に切り取って捨てたのは、彼女の色あせた唇だった。

 全てを終えた後は、イギリスから遠く離れるつもりだ。中国なんてどうだろう。僕は、かつて中国の歴史に興味を抱き、言語や文化を学んだことがあった。極東の地までは、罪も過去も追ってはくるまい。

 僕達の結婚生活が、このようにして悲劇的な結末を迎えたのは、決して僕ばかりの責任ではない。かわいそうなメアリのせいでもない。噂が、僕を鬼にしたのだ。


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