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夕方帰宅すると、メアリが出迎えてくれた。僕はとっさに箱を背中に隠す。
「おかえりなさい、ジャック」
「ただいま」
メアリは僕の首に腕を回し、キスをした。彼女の目元が赤いことに僕は気がついた。
「何かあったの?」
「ううん。ちょっと……昼間気分が落ち込んだの。でも、大したことじゃないわ」
「そうか」
この箱のせいだろうか。滅多に泣くことがないメアリをここまで動揺させるような何が、箱の中に詰められているのだろう。そして、一体誰が?
「今日は暑かったでしょう。ワインが冷えているわ」
「ありがとう」
「お仕事は上手くいった?」
メアリが世間話をしながら、僕の上着を脱がせようとする。だが僕は、やんわりと彼女から距離をとった。
「どうしたの? ジャック」
「何でもないよ。__夕食の良い匂いがするね。何を作ってくれたの?」
「冷たいパスタとオムレツよ」
「それは楽しみだな」
僕は、上着でさっとあの箱を包み、自分の部屋に持って行った。幸い、メアリはまだ気がついていない。
夕食を摂りながら、メアリが明るく話す。
「昼間にね、買い物に出かけたの。家の近くに公園があるのね。小さな子供達がかけっこをしていて、可愛らしかった。小さな足で、何度も転ぶけれど、そのたびに起き上がってまた走るの」
メアリの言葉には少し訛りがある。それを聞きながら、僕は自分だけの考えにふけっていた。
メアリはアメリカからやってきた。ロンドン市内でレストランの女給をしていて、僕と出会ったのだ。アメリカ時代の話は彼女からよく聞いた。ワシントンにいたこと。家はあまり裕福ではなかったが、教育はきちんと受けさせられたこと。厳格な母と優しい父のこと。西部に旅行に出かけ、バッファローの群れを見たこと。
だが、結婚式に彼女の家族は来ていない。家族がイギリスまで旅行することは無理だと彼女が言ったのだ。結婚の報告も、彼女が手紙を出したきりだ。
ひょっとしたら、あの小箱は、彼女の家族が送ってきたのではないだろうか。彼らは、挨拶も来ずに娘を奪った僕のことをどう思っているのだろう。
「ジャック? 聞いてる?」
メアリが可愛らしく口をとがらせて言った。謝りながら、いつか必ず、彼女の家族に会いにワシントンまで行かなければならないと僕は思った。
それから三日、僕はまだ箱を開けないでいる。箱はまだ僕の部屋の、本棚の奥に隠してある。まだ見つかってはいないはずだ。メアリはあの日以来、いつも上機嫌でいるから。だが、僕は部屋に入るたびに箱の存在を感じる。いつ開けてもいいという慢心が僕にリボンを解くのをためらわせ、また好奇心を絶えず刺激する。
居間からメアリが僕を呼んだ。
「ジャック、見て」
メアリが持っていたのは、一枚のコインだった。僕はうっと息を止めた。
「珍しいコインが落ちていたのよ。すごいじゃない? クレセントでもセントでもないわ」
「あー、そうだね」
「見て、この素敵な絵を!」
「そんなにいいもんじゃないよ、うん」
「どうして? きっと、外国の記念コインだわ!」
ついに僕はがっくりと膝から崩れ落ちた。
「ジャック! どうしたの?」
「メアリ……それは、外国のコインなんかじゃないよ。いんちきコインだ。僕が昔出入りしていたギャンブル場で使っていたんだ」
「まあ!」
メアリは目を丸くした。呆れられるかと思ったら、
「ギャンブル場ってすごいのね。こんなきれいなコインを作ってるなんて!」
……メアリは、本当に純粋だ。
「いつか私も行ってみたいわ」
「だめだめ! 絶対だめだ」
「どうして?」
「どうしても!」
僕は言うことを聞かないメアリを抱きしめた。そうでもしないと、胸が愛しさで爆発しそうだった。
メアリを愛していると自覚した瞬間は今までに何度もあった。だが、この時ほど自分の幸運に感謝したことはない。
僕の腕の中に、メアリがいる。ロンドンのどの女よりも自由闊達で、儚くて、しとやかなメアリがずっと僕の側にいてくれる。
だが一方で、僕は未だにその事実が信じられない。よそ見をしていたら、メアリは妖精のように透き通った羽を生やして窓から飛んでいってしまう気がした。
今はまだ、メアリは僕に抱かれている。
「ジャックったら」
メアリが窮屈そうにもがいた。僕は慌てて腕をほどく。その時突然、理由のない不安が僕を襲った。
「メアリは……」
彼女は首を傾げた。
「メアリには、怖いものはある?」
「どうしたの、いきなり?」
真面目に問い返されて、僕は気恥ずかしくなった。
「もし怖いものがあるなら、僕が守ってあげたいんだ」
僕がそう言った時、メアリは顔を背けていた。居間の壁に何か彼女の気を惹くものがあったのか__それとも、何か別の意図があったのか。
「……噂、かしら」
彼女の言葉は、予想していた答えとは全く異なっていた。幽霊や殺人鬼からなら、いくらでも(この命を犠牲にしてでも)守ってやることができるのに。