第26話 不思議な女性が目の前に現れたようです
「アル兄様」
そう呼びかけてみるが、反応はない。
彼の視線は私ではなく、ひたすらにシルビアへと向けられていた。
私はさらに一歩、静かに近づく。
アルフレッドの身体にまとわりつく、あの黒いもや――あれが彼を操っているのは間違いない。だが、正体が分からない。
そう考えた瞬間、アルフレッドが再び動いた。
床を蹴り、一瞬で距離を詰め、シルビアへ向かって跳躍する。
「――ダメよ、アル兄様」
私は即座に水属性の魔力を展開し、空中に厚い水の流れを形成した。
彼を傷つけないよう、衝撃を吸収しつつ柔らかに包み込もうとする。
しかし次の瞬間――
パキン、と乾いた音が響く。
アルフレッドの周囲に冷気が走り、展開した水壁が一瞬で氷へと変わった。
(氷属性……そういえば、アル兄様ってなんの属性使えるんだろう。聞いたことなかったかも)
一瞬の思考の隙も与えず、私は指先に火属性の魔力を集め、凍結した水の柱を内側から一気に蒸散させる。白い蒸気が爆ぜ、視界が揺らぐ。
その間にも、アルフレッドは止まらない。
私は風属性で彼の進行方向を逸らし、複数属性を同時展開しながら、ひたすら彼の動きを押し留め続けた。
背後では、結界に守られた大人たちが、言葉もなくその光景を見守っている気配が伝わってくる。
私はアルフレッドから視線を外さないまま、テレパシーで呼びかけた。
(ディア、アル兄様の様子がおかしいの。こっちに来てくれる?)
返事を待たず、魔力感知でディアの位置を捉え、座標を固定する。
これまで自分と誰かを同時に転移させたことはあったが、対象単体を呼び寄せるのは初めてだった。
(――いけるかな?)
空間属性の魔力を絞り込み、座標を接続する。
次の瞬間、私のすぐ隣に、ふわりと白い影が現れた。
「っと……急に呼ぶねぇ」
突然現れたディアに、周囲から小さなどよめきが起こる。
その中で、なぜかアスセーナ公爵が一人、目を見開きながら興奮した声を上げた。
「おお……! あれが……!」
(何だ、あの人……)
一瞬だけそう思ったが、すぐに意識を前へ戻す。
ディアはアルフレッドをじっと見つめ、眉をひそめた。
「……黒いもやがまとわりついてるけど、あれ何?」
どうやらディアにも見えているらしい。
しばらく観察した後、低い声で言った。
「……あんまり時間ないかも。あのもや、あの子の魔力――つまり生命力も燃料にして動いてるみたい」
「……!」
それはまずい。
このまま長引けば、アルフレッド自身がもたない。
私は小さく息を吸い、視線を細めた。
「……なら、一気に制圧するしかないわね」
そう呟いた瞬間、《転移》を発動させる。
次の瞬間、私はアルフレッドの真上へと移動していた。
突然頭上に現れた私を見上げ、アルフレッドの視線が初めてシルビアから外れ、こちらへと向けられる。虚ろだった瞳が、ほんのわずかに揺れた。
そのとき――微かに、彼の口が動いた。
「……ル、ル……ナ…リ…」
(今……!)
私は迷わず、そのまま彼の胸元へ飛び込み、勢いを殺しながら床へ押し倒す。衝撃が広がると同時に、彼の身体を覆っていた黒いもやに手が触れた。
その瞬間――
視界が、暗転した。
世界から色が消え、深い闇だけが広がる。
その中央に、ひとりの女性がうずくまっていた。
長い黒髪を垂らし、肩を震わせながら泣いている。
何が起きているのか理解できず、「どうしたの」と声をかけようとするが、声は出ない。
女性が、ゆっくりとこちらを振り向こうとする。
顔が見えそうで――見えない、その瞬間。
「ルーナ!」
鋭い声が響いた。
一気に視界が切り替わる。
私はアルフレッドを床に押し倒し、その上に覆いかぶさるような姿勢のまま、現実へ引き戻されていた。
ディアがすぐそばまで駆け寄り、心配そうに覗き込んでくる。
「ルーナ、平気?」
「……平気」
そう答えながら、今見た光景がほんの一瞬――数秒にも満たない出来事だったことに気づく。
ふと、視線を落とした。
押し倒したアルフレッドの胸元。
そこに付けられていた装飾ブローチが、黒く鈍い光を放った気がした。
(これかな)
私は躊躇なく、そのブローチを掴み――そのまま凍らせて砕いた。
パリン、と乾いた音が響く。
同時に、アルフレッドの身体を覆っていた黒いもやが、霧が晴れるように一瞬で消え去った。
糸が切れたように、アルフレッドの身体から力が抜ける。
「アル兄様!」
呼びかける間もなく、彼はそのまま意識を失った。
こうして、すべては終わった。
ほんの数分――
けれど、あまりにも長く感じられた出来事だった。
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