8:言い出したからには、婚約破棄していただきます
婚約の申し込みこそしつこく──それこそこちらが折れざるを得ないほど強情になされましたが、実際に婚約を結んで以降は、殿下のわたくしへの関心は、日を追うごとに薄まっていきました。
殿下が学院に入学して以降は顔を合わせる頻度も減り、むしろ学院内で複数のご令嬢と親しくされていたようですし、特にこの半年はソフィアさんを追い掛け回すことに躍起になっておられましたので、もはやわたくしのことなどどうでもよいとお考えなのは明白。
今更、嘘偽りなく本心からのわたくしの笑顔を見たところで、なにが変わるとも──
変わるとも思えないのですが。
だって、この半年、殿下がどれほどわたくしを邪険に扱い、先程までどれほど生き生きとわたくしの悪行とやらをあげつらい、ソフィアさんに言い寄っていたか。
けれど。そう、殿下のこの表情には覚えがあります。
あれは、わたくしと殿下が初めて対面した時。お母様とともに王妃様主催のお茶会に出席した時ですわ。話しかけてきた殿下に笑顔でお応えしたところ、このような反応をされました。
それが、思い出したくもない王家からの婚約申し入れのきっかけ──原因だったのですわ。
まさかとは思いますが、ひしひしと嫌な予感がいたしましす。
あれほどはっきりと婚約破棄の意思を見せていたのですから、それが笑顔ひとつでひっくり返るなど考えられませんが、そこは殿下のことです、なにを考え、どのような行動に出るか、予想できません。
無意味にこの場に留まるべきではないと、本能が告げております。
「……それでは殿下、お呼び出しの用件は済みましたわよね。わたくしこれで失礼させていただきますわ」
そそくさと挨拶し、立ち去ろうとしたのですが、
「待て! ローゼリア!」
それより僅かに早く、殿下に呼び止められてしまいました。
もはや婚約者ではないとは言え──婚約者でないからこそ、まがりなりにも王子殿下に呼び止められて、無視するわけにはまいりません。
まして、進路を阻むように目の前に立ちはだかれたのでは。
「婚約者でもない令嬢の名前を呼ばないでいただきたいと──」
「婚約破棄はなしだ! 撤回する! ならば、お前は私の婚約者だ。名前を呼んでなにが悪い!」
まずはしつこい名前呼びを本当にいい加減やめていただきたいと申し入れましたところ、殿下の口から発された反論は、予想しうる限り最悪のものでした。
は? 婚約破棄の撤回?
「──撤回、など、できるとお思いですの?」
「私がそう言っているんだ、できない道理があるか」
あるわけないでしょう。
「お前にしても、悪い話ではあるまい。王太子より婚約を破棄されるという不名誉を負わずに済むのだし、フェリアス公爵家にとっても、変わらず娘を王太子の婚約者に据えられるのだ。断る理由など──」
「お断りいたしますわ」
「は?」
冷ややかに告げますと、殿下は理解できないというように頓狂な顔をなさいました。
よもや断られるなど微塵も疑っていなかったというお顔ですが……ここまでの話の流れで何故、このような主張が受け入れられると思えるのでしょう。
「なぜだ、ローゼリア! 王太子に婚約者にと求められるなど、これ以上の栄誉はないだろう!」
「ですから、わたくしもフェリアス公爵家も王太子妃の座など求めておりませんし、貴方に妃にと求められることを栄誉とも思いません」
むしろ災難です。
はっきりそう申し上げることはさすがに憚られますが、いい加減これまでの言動からご理解いただきたいものです。
それと、
「何度も申しますが、婚約は破棄されましたので、わたくしの名を呼ばないでいただけます?」
あらゆる面で理解の悪い殿下に辟易しておりますと、「あの」と、ソフィアさんが控えめに声を上げました。
「ローゼリア様はどうしてそこまで、王太子殿下との婚約を……その、嫌がるのですか? 王家と縁戚になることは、フェリアス公爵家にとっても悪い話ではない……ですよね」
ソフィアさんの疑問は、ある意味尤もですわね。
貴族にとって政略結婚は珍しくなく、そういう意味では『王太子』は貴族令嬢の婚姻相手としては最上級の相手でしょう。
実際、王太子という立場にあった殿下は、婚約者がいてさえ、野心的な令嬢方に取り囲まれておりましたし。
ですが──
「だって、殿下の妃ですわよ? なにを積まれたところでなりたくなどありませんわ」
「それはまあ……気持ちは分かりますが」
わたくしの明解な返答に、ソフィアさんは戸惑いながらも同意を示してくださいました。
ご理解いただけて嬉しい限りですわ。
そこに、お兄様が苦笑気味に補足説明してくださいます。
「フェリアス公爵家はそもそも王家の血筋──すでに縁戚関係にありますからね。加えて、歴代当主には必要以上に権力を望まない傾向が強く、現当主である我が父もそうです。政略にもならない婚姻のために、バカ王子に愛娘を差し出すなど、望むはずがない」
そう、フェリアス公爵家は初代当主が臣籍降下した王子であり、二代前の当主には王女が降嫁し──お兄様、実にさりげなく『バカ王子』と言いましたわね。
にこやかで穏やかな雰囲気を纏ってはおりますが、お兄様、相当お怒りのご様子です。
「つまり、そもそもが王子殿下のわがままで押し切られ、仕方なく受けた婚約です。その時点で、我が父は相当、腹に据えかねていたでしょう。加えて、そうまでしてローゼリアを婚約者としておきながら、以降のローゼリアに対する殿下の態度には、腸の煮える思いであったかと」
笑みを深め語るお兄様が怖いです。
ええ、お兄様の仰る通り、わたくしと殿下との婚約、そしてそれ以降の殿下の態度に対して、お父様が相当お怒りであったことは事実ですが、お兄様の言に込められた実感は──お兄様自身、相当思うところがあったのでしょうね。
「そ、そうまで言われる謂れは」
「ないと仰いますか」
果敢にも──むしろ無謀にも、反論しようとした殿下の言葉を、お兄様は容赦なく冷たい声音で叩き落されました。
「ではお聞きしますが、殿下。婚約を結んでより五年、貴方は我が妹をどのように遇しましたか」
文句のつけようのない笑顔で、柔らかな口調で、けれど冷たく、切り込むような鋭さで、お兄様が殿下に詰め寄ります。
「妹は、王太子の婚約者として申し分なく役目を果たしておりました。そんな妹を──妹の意思を無視してまで婚約者に据えたにもかかわらず、疎むようになるまで幾らもかからなかった」
「それは! ローゼリアにも非のあることだ! 婚約を結んで以降、ローゼリアの態度は冷たかった! 笑顔さえ冷ややかだった! 私が気づかないとでも思ったのか? いつだってうわべだけ態度を取り繕って、私を欺こうと──挙句、事あるごとに私の行動に文句をつけて──」
殿下の反論に、お兄様はこれ見よがしに溜息をつかれました。
その様子にさらに殿下が何事か叫ぼうとするのを制し、
「諫言も進言も、『文句』としか受け取られなかったのですね」
吐き捨てるように、お兄様が言われます。
そう、どのような諫言も進言も、わたくしが口にしたとたん、殿下にとっては単なる『文句』でしかなくなりました。
五年間、わたくしが幾度となく徒労を感じた原因ですわ。