幕間 , ある寮生の夏
幕間,ある寮生の夏
――20XX年 8月中旬――
午前6時過ぎ、俺は駅前から寮に向かって自転車をこいでいた。
アルバイトの帰り。寮は坂の上にあるから、駅まで行くのは楽なのだけど(その分危険だが)帰りはかなりしんどい。
それでも半日近い労働が終わり、解放感はかなりあった。夏の日差しもこの時間なら、まあそこまで辛くはないし。労働を労ってくれている気もしなくもない。
途中、ラジオ体操の出欠カードを首から下げた子供たちが横断歩道を渡っているのを見かけた。
夏休みだねえ、と当たり前のことを思う。
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蝉時雨の中、ヒィヒィ言いながら坂を上り、7時前に寮に辿り着いた。自転車小屋に止めて一息つく。隣の自転車には蜘蛛の巣ができていた。誰のかは判らないが、地元に帰省でもしているのだろうか。
汗を拭って、寮の中に入る。
玄関を入ってすぐの壁に寮生の名前 (アダナだが)の書かれた札がかかっている。表面が白、裏面が赤、半分くらいが赤くなっている。赤は不在を意味している。
赤の面が表になっている『トキムネ』と書かれた札を裏返す。
(お盆だしな。みんな帰っているのだろう)
この土地の気候は、砂漠に似ていると誰かが言っていた。雨が少なく、湿度が低い。晴れの日が多い(というより体感ではいつも晴れている気がする)のは日本海側で育った自分からすれば、とても嬉しかった。曇天続きの憂鬱も雪への対処に力を奪われることもない。
日差しの当たる箇所は暑いけれど、日陰に入ってしまえば一気に涼しくなる。
寮の廊下、日陰を選んで歩き、自室に帰る。入ってすぐ、風呂桶と石鹸、タオル、それに小銭を持って浴場へと向かう。
風呂の時間は特に決まってはいない。いつでも入ることはできる。ただし、お湯の出る時間帯が決まっているというだけ、ボイラーの関係で。
シャワーを出してみると、当然のように水しか出てこなかった。まあ、夏なので特に問題はない。ちょうどいいくらいだ、うん。
ザアッと、水を頭からかぶる。半日近く働いて、その前後自転車でそれなりの運動をした所為だろうか、頭が熱を持っていた。少しボウっとしている。
(熱中症……いや、ただ疲れただけだ)
なんとなく浴槽の方を見る。湯船の水を見て、まあ入らなくていいかなと、思う。色々浮いているし、どうせ温い。
髪や体を洗った後も、しばらく頭から水を被り続けていた。それから、ラジオ体操のようにピョンピョンと跳ねて水を切った。 ※ 危ないので真似しないでください
タオルで体を拭いて、タオルの角を持ち、思い切り、振り上げて……振り下ろす。バンバン、と音がする。深い意味はないが、なんとなく人がいない時はいつもやってしまっていた。
脱衣所の姿見に映った自分を見る。
(痩せたか? まあ、痩せる分ならいいか)
顔はやつれ、目の下にはクマができていた。
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風呂から出た足で、2階の食堂に向かう。100円を出して自販機で紙カップのメロンソーダのボタンを押す。
カコン、と音がして紙コップが落ちてきて、鮮やかな緑色の液体が注がれる様をぼーっと見ている。
誰も居ないガランとした食堂でただそれを飲んだ。
こういう時『螢』という小説を思い出す。
こんなふうにしてメロンソーダを飲むのがバイト明けの儀式のようになっていた。なんの? と聞かれるとよく判らないが。
いつも人がいる所に人がいない、それはちょっとした非日常に思えて好きだった。静かで自分だけの寮になったような気がする。そんな訳もないんだが。
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残り少ない米を炊いてミックスベジタブルと醤油でチャーハンのようなものを作って食べた。色々あって、今かなり金に困っている。最近他に食べたものと言えば、うどんや蕎麦、食パン、焼きそばとキャベツ、そんな感じだ。
(うどんや蕎麦は20円もしないのに、焼きそばは一つ30円以上する計算になるな……粉末ソースの分割高になっているのだろうか)ギリギリのことを思考する。
食べてから廊下の洗面台で歯を磨き、二段ベッドの下に潜り込んで寝る。(今は一人部屋なので上は物置にしていた)
寝たいのだが……案の定、眠れない。体は疲れているはずなのに、今日も午後6時からアルバイトがあるのに、眠れない。寝ないと、そう思うことが酷いストレスだ。かといって何かしようにも、体は起きていても、脳は過負荷がかかっているように熱い。
(頼むよ……)
机の引き出しから音楽プレーヤーとイヤホンを取り出し、耳を塞いだ。
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2時間に一度くらい覚醒を繰り返し、午後4時に目が覚めた時にはもう寝るのを諦めた。うどんを一玉茹でて食べた。バイト先の制服に着替えて出かける用意をする。
鏡に映る顔には生気が感じられなかった。
(まあ、仕方ない)
玄関で靴を履く時、当番室にいた同じ1年生のホウガンと目が合った。
ホウガンとは8月の頭に一緒にラーメン屋の日雇いのバイトに行ったけれど、給料はもう少し待ってくれと頼まれて、未だに支払われていない。嫌な予感がしている。ちゃんと払ってくれたら、今こんなに困窮することもなかったんだが……。
昨日もホウガンだった気がする。多分、誰かに代打を頼まれたんだろう。
「今日もバイト?」
あいつは頬杖をついて読んでいた本を閉じて、出窓を開けてこちらに身を乗り出してきた。タバコ屋のような感じだ。
本面白いか? と聞くと、全然判らないとおどけて見せた。シュルレアリズムの小説で図書館のバーコードがついていた。名前は聴いたことはあるけれど、読んだことはないな。
「バイトは……今日持っていうか、今週はずっとさ」と言って笑って見せる。
それから、行きたくねえなあ、と正直な気持ちを打ち明ける。あいつは少し黙った。何と言っていいのか判らないようだった。俺自身、何を言って欲しいのか判らない。
何を言われたところで、俺は行くしかないんだから。
「あー、あのさ。この間……駅前のビルにさ、1300円で食べ放題の店を見つけたんだけど、今度一緒に行かない?」
「おお……いいね、行こうぜ」
まともなものをずっと食べてないし、たまにはいいだろう。給料は週払いにしてもらえるように頼んでいたから、このギリギリな生活ももうすぐ終わりだ。そしたら少しは、贅沢をしよう。何か面白いこともしないと、干からびてしまう。
「食べ放題で、店のものを全部食べつくしてさ。それで店の人に、『すいません。もうないです……』って言わせるのが夢なんだよ」
俺はそれを聞いて笑って、じゃあ行くわと言って、扉に手をかける。その時
「いってらっしゃい」とそんなことを言われた。
この言葉が苦手だった。間違っちゃいない。同じ場所に住んでいるんだから。でも、なんというか気持ち悪いというか……。
それでもまあ、行ってらっしゃいと言われれば。こちらも言うことは一つしかない……のだが。
「おう、じゃまたな」
そんな事を言ってごまかした。
自転車に乗って、坂を下る。夕方の風は心地よかった。
(しかし1300円とは豪勢だなあ。うどん何玉分だよ……)
幕間,ある寮生の夏【終わり】
※ 『螢』は村上春樹先生の小説です。
読んで下さりありがとうございます。ここで折り返しになります。